
みっつー
@32CH_books
2025年12月28日
センスの哲学
千葉雅也
読み終わった
特定のジャンルにとてつもなく詳しい人を見ると、尊敬と「本当にそれでいいのか?」という気持ちにさせられる。
正直に、広くない範囲のことにトコトン勉強できたり、記憶できたりすることに対して、憧れはあるけれど、そこには攻撃性が孕むことが多いように感じるのだ。
「自分はこれを知っている」というマウンティングが世の中に蔓延っている。
例えばSNSで「あの作品について、あの理解度だとしたらセンスがない」やアイドルに「この衣装着せる意味が分からない、センスがない」と言った意見を見ることがある。
そう言った意見を目の当たりにした時「なぜそんな事が気になるのだろうか?」という気持ちにさせられる。
前提として、私自身がその作品について詳しくもなければ、そのアイドルの衣装に対して特になんの違和感も抱いていないものとする。
「詳しくないのなら黙れ」
というのがまぁ定説だよなぁと思うのだけど、なんというか、詳しくなりすぎたことでストレス増えてませんか?と思ってしまう。
私自身ももちろん好きなものはたくさんある。
アイドルグループの「timelesz」や野球だと「巨人」、アニメだと『PSYCHO-PASSシリーズ』、漫画だと『家庭教師ヒットマンREBORN!』や『となりの怪物くん』など、中には普通に触れてきている人よりもすこーーーしばかり詳しいかなぁと思う作品もある。
ただ、それらに対してあまりにも間違った解釈を他人が言ってようがあまり気にならないことの方が多い(否定的な意見だと意を唱えたくなることもあるけれど)。
なぜ人は、詳しくなればなるほど、攻撃性を増してしまうのか。
それが知識の「狭さ」と関係しているように思えてしまってならない。
ゲームでも、アニメでも、映画でも、芸術でも、音楽でも、作品に触れるという事は、多角的に物事を見ても良いのではないのか。
「解釈違い」や「分かってない」という文字が跋扈する現代で、誰の目線によってそれらの「解釈違い」は定義されるのだろうか「解釈違いの解釈違い」は定義されてはいけないのだろうか。
そこで話を最初に戻すけれど、私は物事を「狭く」見れる人への憧れが皮肉なしに存在している。
私は一つの物事を見続ける事が苦手だ、できない。
昔、嵐の櫻井翔くんがバック転することについて「バック転は出来ますよ、やらないだけ」と自信満々に言っていた事に笑ったのを思い出した。
多分私は一つの物事を詳しく、深く、記憶に焼き付け、それらを信奉し、崇拝する事が出来ないのである。
ただ「出来ない」と決めつけてしまうのはあまりにも怖い。
だからそこを努力でカバーしようとしている。
それがゲーム実況を始めた事と繋がっているように思う。
活動を続ける中で驚いたのは、のめり込もうとすればするほど「次の課題」が見えてくるようになった事だ。
動画を編集していると嫌でも、自分の声、ワードセンス、会話の間合い、などが目(耳)につくようになる。
「ぬわぁ〜これどうしたらいいかなぁ〜ん」という事柄に対しての対策は、とにかく勉強する、読書をしたり、お笑いの動画を見たり、テレビ番組の見方を意識的に変えてみたりするなどが思い浮かんだ。
もちろんその中にも無意味だったりすることもあると思う。
でも、とにかく色んなことに手を出したり、違う目線で見てみようと意気込んだ。
その結果が伴ってくるのはまだ先の話だと思うけど、これからも続けていきたい。
『センスの哲学』は正直に言えば、今の自分にとってかなり難しい内容だった。
「哲学」という言葉だけでもひじきのように細く縮み上がってしまうのに、そこにきて「センス」という名の壁が立ちはだかる。
以前、感想文に書いた松浦弥太郎さんの『センス入門』という本がとても好きだったので「これを読んでセンスを磨くぜ〜」と思っていたらその内容の難しさに打ちひしがれた。
この本はどちらかというと「センス」という言葉の意味そのものから「センス」とは何かを導いているかのような印象を受けた。
強調されているのは何事にも「リズム」が大事であるということで、それは音楽のことだけではなく、芸術や小説などの物語も、すべてを「リズム」に置き換えて考える、と。
現状、自分の読解力だけだと理解しきれていないところが大きいのだけれど、読んでいく内に段々と、ビート(エンタメ作品などによく見られるハラハラドキドキ)とうねり(純文学などで描かれがちな、微妙な面白さ)などの感覚が掴めるようになってきて、ノってくる感覚を味わう事が出来たように思う。
普段から自分が思ったことを書く際に「あと、もう一言言いたいんだけど言葉がでねぇな〜」というところが、作品をただ呆然と見るのではなくて、リズム(余白的な部分)を意識して見ることが大切であり、悪い言い方だと「無駄な部分」というのは作品を語る上でとても大切なことなんだと学んだ。
本を読んで、改めて、作品に対して頭ごなしにケチを付けたり(もちろん自分も思うところがある作品はたくさんあるけれど)、愚痴を注目を浴びるためのツールとして使っているような人には少し軽蔑のような感覚というか、拡声器と刃物を持って立っている人間のような感覚を覚える。
何度も書いてあるように、専門家(的な)だったり、一つの作品に詳しすぎるオタクの人たちに対しての憧れはこの先も消えないのだと思う。
ただその知識を、誰かをこき下ろすための手段として選ばないで欲しいと思ってしまう。
出版社を通して、本を書いてくれ、そしたら私はあなたの思いの丈をしっかりと見据える事ができると思う。
強い怒りはただ消費されるだけでは勿体無い。
別の誰かの言葉に上書きされてしまい、アイデンティティを失ってしまったような文章を読むのがとても悲しく感じてしまうのは、私だけだろうか。
めっちゃ哲学的、批評的(?)な気分になっちゃったのでここで一つバランスを取って終わりたいと思います。
厳しい言葉よりも、正確な議論を生む、生きた言葉で世の中を見れるようになりたいですねいぶりがっこパパイヤソーセージのミラノ風ドリアと緑のお豆添え。
