

みっつー
@32CH_books
YouTubeでゲーム実況をしております🎮
遊びに来てくれたらめっちゃ喜びます。
- 2026年1月24日
書くことはなぜ難しいのか森山卓郎読み終わった卒論って20000文字くらいあんねん。 どうも、アンミカです。 古の時代、大学に通う我あり。 卒業課題に於いて、論文なる物を記せと言われけり。 もうこの書き方難しいのでやめますね…。 みなさん卒業論文って知ってますか、マウントじゃないです、愚痴りたいのです。 曲がりなりにも大学というダンジョンに通う勇者各位であれば必ず対峙することとなるラスボスのような存在、それが卒論である。 そいつを倒すことが出来なければ(私にとっての)世界平和は訪れないと言っても過言ではない。最悪もう一年ラスボスと向き合わなくてはいけない可能性すら出てくる。多分だけどラスボスの方もそんなに暇じゃないと思う。 まぁそもそも大学に入っている時点で、ある程度はみんな、好きな学部で、好きなことを学び、好きが深くなっていく過程で血肉となっているはずなので、ちゃんと準備をしていれば、ちゃんとやりたいことを突き詰めていれば、卒論なんてお茶の子さいさいなはずなのだ。 ラスボスと戦う前には武器を強化したり、強化するための素材を集めるじゃないですか、勝つためにレベル上げするじゃないですか、ちゃんとした人は。 じゃあちゃんとしてない人はどうしたらいいんですか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!?どこかに!!!!!!!!どこかにはぐれメタルはいないんですか!!!!!!!!!!!!?何回ヤマツカミのクエストに行かなくちゃ行けないんですか!!!!!!? という話ですよこれは。 残念ながら僕はしていなかった。 ほとんどサボっていないのに留年するくらいにはちゃんとしていなかった。 出席データだけを反映させて教室を出ていったおサボり常習犯のあの人たちでも卒業できたのに、僕は気づけば留年していた。あれれー? しかも、やっぱり勉強もできていなかった、分からないところを聞く友達もいなかった、先生に聞くという勇気もなかった、あれ?なんか目から汗が出てきたぞ?しょっぱいや…。 そして、ゼミというラストダンジョンの最深部にて、ラスボスこと卒論と対峙することになるのであった。 ちなみに卒論のテーマ自体は早めに決まっていた。いや、もしかすると留年したことで1学年下の子達と一緒に受けていたからそう感じただけかも知れないけれど、確か…確か…すぐ決まった…気がする…。 それなのに基準である、20000文字が書けない! 卒論に対して20000文字という最低限を目指している時点で苦戦を強いられることは請け合いなのだけれども、それくらい文章を書くことが、僕は苦手だった。 どうやったら残り7000文字を埋められるんだ。 もうあの部分に該当する参考文献の引用は使ってしまった。 まだ見つけていない先人の論文から引用できる部分はないか。 何の試験の時間なんだ。 何を裁く秤なんだ。 何を狙って付き合うんだ。 何が船を動かすんだ。 TOKIOの宙船をぼそぼそと歌い出したくなるくらいストレスを溜めながら、決死の思いで卒論を提出し、僕の4年間による大学生活は幕を閉じた。 しれっと「4年間」と書いてさも留年していなかったかのように演出したことは、それに気づいた君と僕だけの秘密だぞ♡ さて、そんなわけで文章を書くのが大嫌いだった僕は、むしろそれから文章が上手くなりたいという欲に取り憑かれた。 その後の人生で、すごく笑わせてくれるエッセイや、ドキドキする恋愛模様を描いた恋愛小説、モチベーションを上げてくれた自己啓発本などのおかげで、自分も誰かを笑わせたり、ドキドキさせる文章を書きたいという気持ちにさせられたのである。 そして現在、本を意識的に多読的に読んでいる中で出会ったのがこの本である。 森山卓郎さんの『書くことはなぜ難しいのか』という本を購入した。 この本ではそもそも「なぜ文章を書くことが難しいのか」ということを、文章術などでの観点ではなくて、言語学的な観点で分析したり、個人的には「書くという行為そのもの」を哲学的に書き記した実用書だと感じた。 もうさ、表紙見てくださいよ。 パソコンの液晶画面には、文章を書くことができなくて困った顔をした人が写っていますね。 分かります、僕もこんな顔をしながらずーーーっと卒論を書いていました。見てないけど、多分背後には猫ちゃんもいました。やったね♪ 改めて考えると、コンプレックス的に文章術の本は数冊読んできた気がするけれど、書くことについて書いた方というのはそこまで読んでこなかったように思う。 最近読んだ『いい音がする文章(高橋久美子著)』もだけど、普通の文章術よりも、文章を書くということに向き合う本が多いんだなぁと感じる。 歴史的に見た時に言葉自体にもジェンダーが存在していた事を知ることもできたし、イラストや、振り仮名を使うことで、読み手に読んでもらうための工夫の仕方を学べたりすることも、この本では可能なのだ。 今一度スタート地点に戻り、自分のレベルが今どこまできているのかという確認も込めて、この本を読んでみるのはとてもいいのではないかと思える一冊でございました。 ちなみに僕はほとんどのことが新鮮に楽しむことができました。 あの4年間を過ごした大学時代から、あまり成長していないみたいですね😉 え?5年じゃないかって?うっせ、ばーか。
- 2026年1月23日
明るい夜に、星を探して酒村ゆっけ、読み終わった北欧とは一体、どんな場所なのだろうか。 北欧について何も知らない僕が急な思い立ちで行ったところで、きっと、たくさんのムーミンに担がれて、サンタの村に置いてけぼりにされ、サンタたちに無理やりサウナに入れられると得体の知れないデカくてサワサワとした葉っぱで体をしばかれて、血行の流れが良くなったと感じてきた頃に目の前の湖に投げ込まれ、IKEA(湖の中店)に入店し、一人で組み立てることのできないクローゼットを買わされ、そのクローゼットでオブジェが作られ、なんか祀られて、何が入ってるかよく分からないパイを食べさせられて、そのまま食後の運動がてら踊りに誘われで身も心もミッドサマーする羽目になってしまうのではないだろうか。 僕の頭の中の怖い北欧を改めるために、今日も旅エッセイに心を委ねよう。 酒村ゆっけ、さんの『明るい夜に、星を探して』という本を読んだ。 僕はかわいい女の人が大好きなので、Instagramや YouTubeで何度か見ていた方の本ということでとても興味が湧いた。 かわいい女の人が旅行に行く時点でかわいいなぁ〜という邪な感情をラリアットで沈めながら「あくまでもお前は北欧を知るんだ」と釘を刺し、脳を文字の世界へとトリップさせていった。 ゆっけさんは酒日記なるジャンル(?)の動画をあげていて、お酒と食が盛りだくさんで、見ているこっちもヨダレが盛りだくさんになる動画がごちそうさまでありがながら、ご本人が読み上げるナレーションの文学的な表現と小気味のいいテンポ感がこれまたクセになる、そしてドン・キホーテのテーマソングみたいなやつのパターンの多さを知ることができる唯一無二のチャンネルなのである。 この本はそんな彼女がお酒に激しく酔い倒した夜に、無意識かつ勢いで購入してしまったフィンランド行きのチケットに導かれるまま一人旅を決行するトラベルエッセイである。 恐ろしいことに、まず本を開き始めて「はじめに」の部分でだいぶ心が削られる。 大人にならなくちゃ、社会的な居場所を持たなくちゃ、と奮闘するのに悉く上手くいかない描写になんとなく自分を重ねてしまう。いや、烏滸がましい話なのかも知れないけれど。 息巻いて何かを決意した時に限って、心を萎縮させる出来事や、言葉で足を掴んでくるような人間が現れたりするもので、他人のせいにしてはいけないなぁと思いつつも、自分が悪いと思えるほど大人じゃない自分に嫌気がさしたりすることもある。 そんな自暴自棄感を呼び覚まさせられながらページを捲っていくと、次第に、冬を帯びた初夏の空気が流れ始め、セブンイレブンや、缶ビール、ぷっくらと腫れ上がった口内炎が姿を現してきた。 あれ、セブンイレブン?口内炎? そう、この本は間違いなくトラベルエッセイなのだけれど、デンマークの部分ではこの口内炎にかなりの地獄を強いられることになる。 ゆっけさんはお酒と食べることが大好きなので、硬いパンの欠片が、熱いスープが、ソーセージの肉汁が、次から次へと口内炎を襲う。 気づけばゆっけさんと口内炎は旅のパートナーとなっており、時々喧嘩したり、仲直りしたり、「消えろ」と呪ったりする。 嫌だよねぇ、口内炎。 口内炎ってなんで一番楽しみたい時にできるんだろうねぇ。 その他にも旅の仲間が登場する。 ChatGPTの「チャッピー」である。 僕の中でのチャッピーはピクミンシリーズに登場する背中に草間彌生みたいな赤ドットを背負いながらその星の生命体であるピクミンを貪り食っている原生生物を思い浮かべるが、あくまでもこのチャッピーは人を食べたりはしない…嘘はつくけれど。 チャッピーに閉店しているお店を紹介されたり、口内炎に当たらない食べ方を適当に教えられたり、電車を間違えられたりと、振り回されながらも戦い続けるゆっけさんの姿が切実過ぎて笑ってしまう。 大変だ、大変そうすぎる(笑)という感じである。 その他にも本場のミッドサマー(夏至祭)に参加したり、ビール風呂に入りながらビールを飲んだり、お酒が飲めるトラムに乗ったり、マクドナルドを食べたりする。 そこはかとない孤独感に襲われながらも、一人旅を続けていくうちに、日本の都会に溢れ過ぎている空虚が満たされていくような充足感を得ていく描写が、とても羨ましく思えてくる。 初夏の北欧は“白夜”と呼ばれる「太陽が沈まない」季節がある。 昼も夜も明るく、昼と夜が溶け合って曖昧になり、日本の夜に向き合い、恋しくなり、思いを馳せる文章に、心を打たれた。 僕は、夜に活動を行なうというゆっけさんとは真逆で完全に朝方の生活習慣になってしまったのだけれど、かつて、夜のユースケ・サンタマリアに、夜の草彅剛に、夜の笑福亭鶴瓶に、救われてきたので、僕自身もいつか、明日が不安な誰かのためにゲーム実況という活動を続けていけたらいいな。 それが今、僕が探している明るい夜の星である。 ゆっけさんの本を読んでいたらお腹が空いてきた。 今日は卵かけご飯をあり得ないカロリーにして食べてみようかと思う。 お腹一杯にしたら、明日からまた頑張ろう。
- 2026年1月22日
きれはしヒコロヒー読み終わったゲーム実況を2本撮り終えて、その2本の編集まで終えて、まだ12時。 そこから本を一冊読み終えて、ここ最近続けている「感想なんだか、エッセイなんだか、自分語りなんだか、なんと形容したらいいのか分からない文章」も書き終えて、「これはご褒美だ!」と言わんばかりにもう一冊に手をつけ始めたのがこのヒコロヒーさんのエッセイ『きれはし』である。 ハイチュウ(グレープ味)のような心が踊るパープルの表紙に『愛がなんだ』か『冬のなんかさ、春のなんかね』みたいなシュッとしたタイトルが記されたこの本を、僕は早く読みたかったのである。 以前、ヒコロヒーさん初の短編恋愛小説集『黙って喋って』を読んで、数々の「どうしょうもない恋愛」の数々に心を荒らされ、「なんだコレ!人間が過ぎる!」と化け物じみた感想を抱かされ、一気にヒコロヒーさんのファンになってしまったのである。 『黙って喋って』を読み終えてすぐ、ヒコロヒーさんの本を探しているとこの『きれはし』が出てきたのだが、それと同時に「え!これだけ!?」という、もはや浴びるほど読もう!と心に決めたいた僕は、逆にコレを読んでしまうと、次の新しいヒコロヒーはどこで摂取すればいいんですか…「一茂かまいたちのゲンバ」でしかちゃんとヒコさんを追えていないのですが…となんだか申し訳ない気持ちになった。何が申し訳ないのかはさっぱり分からないけれど、それくらいヒコロヒー先生の文章が好きになっていたのだった。 『きれはし』…今作もめちゃくちゃ良かったですねぇ…。 女芸人の「苦悩と葛藤」…みたいなことではなくて、みたいなことも含まれているけれど、それよりももっと、本当に、一人の女芸人の生活を見させてもらっている感じである。 帯に「国民的地元のツレ」と書いてあるけれど、言い得て妙というか、本当に、自分の友人の話を、文字を通して読ませて貰っている。 同居している友達のこと、最初舐めてたけど食事などを奢ってくれるので尊敬に値するようになった先輩、Aマッソ加納(脱竹前)、仲の良かった後輩芸人などなど、それらを「あんなぁ、こんなことあってな」と聞かせてくれているような、もはやこれはツレエッセイという新たなジャンルなのかも知れない。 あと読んでいるとヒコロヒー先生の声で再生される。 それは「一茂かまいたちのゲンバ」というテレビ番組ばかり見ているからだと思う。 最近はHuluの気に入ったバラエティ番組を見つけては、その時に見ることができる一番古い順番から最新回まで一気見するというのにハマっている中で「ゲンバ」を見つけて、長嶋一茂さんとかまいたちの息のあった掛け合いなどをケラケラと楽しんでいるのであった。 その番組のナレーションをヒコロヒー先生がやっていたのだ。 ヒコロヒー先生はナレーションでありながらも、たまにチョコをもらったり、たまにハワイのお土産をもらっては大層美味しそうに頂いていて、それをいいなぁ、と羨ましく思っております。 あとヒコロヒー先生のPodcast『岩場の女』も寝る時に聞いていたりします。 これは僕のPodcastあるあるなのですが、大体寝てしまうので、内容はほぼほぼ覚えていません。悲しいですね。 話がエッセイからずいぶん遠くまで来てしまったけれど、この本の中ではヒコロヒー先生の恋愛についても書かれていたりする。 『黙って喋って』を読んでいても感じたけれど、先生は結構ロマンチストな感じもするし、さらにはピュアな部分も感じられる。 なんですか、そのギャップ。 ご本人からしたらギャップもクソもないかも知れませんが、先生…先生…! もはや、ヒコロヒーという人間を芸人よりも恋愛小説家として見ている節すらある。 『黙って喋って』を通して『きれはし』のヒコロヒー先生のことが好きになっている。 とりあえずなんかヒコロヒー先生の番組で皆さんが好きなものがあれば教えてください。血眼で見ます。 自分もこんなに人を笑わせたり、ドキドキするような文章が書きたいなぁ。 そしてあわよくばお金が欲しいなぁ。 なんて考えている、本日2冊目の本でした。 時刻は18:59。
- 2026年1月22日
知性について内田樹読み終わった喋るスピードが速い。 それは、僕のいいところでもあり、悪いところでもある。 いいところを言えば、友達や同僚と話すときや、ゲーム実況をしていて、それらに対してすぐに反応することができるからだ。 逆に悪いところというと、ほぼほぼ何も考えずに喋っているということである。 と、自分では思っているし、結構コンプレックスにも感じている。 僕は喋る時に、頭の上にカラオケのバーのようなものが出てきて、頭の中でそれをなぞっていくという感覚がある。(カラオケの歌詞って、歌ってる部分のところに差し掛かると色が変わるじゃないですか?あれです) けれど、次第にそのカラオケの文字を追い越していってしまい、そうすると、何が話したかったのかが分からなくなったり、バチボコに噛み倒していたりする。 これを僕の中では「考えないで喋ってる」という風に捉えているのである。 けれど、本当にそうだろうか、とも思う。 実際に友人と話していても、会話が成り立っているし、ゲーム実況の動画編集をしていても、そこまで外れたこと(聞く人にもよると思うけど)も言ってないんじゃないかなぁー? だから、考えすぎ、と言われればそこまでなのだけれど、これについてはもう少し自分が納得するまでの時間が欲しいと思うところだ。 ひとまずの判断としては、やはり頭が良くなりた〜い、である。 すごくアホっぽくてかわいいですね。 最初に書いた通り、僕は自分の早口自体はとても気に入っている。頭の回転が速い(気がする)し、違和感があれば即座にツッコむことが出来る(気がする)ため、その個性自体は残したい。 けど、突発的に出てくる言葉があまりにもシンプル過ぎても面白味がない。(プロの方であればシンプルなツッコミほど、間合いや、声の張り方含め素晴らしいけれど) いわゆるワードセンス的なもの、知性的なものが、僕は欲しい。 そんな時に出会ったのが内田樹さんの『知性について』という本だった。 この本は思想家であり、武道家でもあり、さらには、翻訳家でもあり、仏文学者でもあるという、なんかすごい人の本である。 「知性について」だなんて、今自分が一番求めている内容なのではないかしら、と本を開き読み進める。 打ちひしがれた。 なるほど…“知”に向き合い続けている人間のいうことはあまりにも違う…。 打ちひしがれたというのも、もはや違うのかもしれない。 確かに、僕自身が求めているような、深く、そして卓越された文章がそこにはあった。 文体の柔らかさや、大学のおじいちゃん先生のような知的な優しさ(伝わるのかこれ)とか、気づいたら読み手が内田さんのお宅にお邪魔してお話ししてもらっているような感覚にさせられる。 本の内容としては韓国の若者から質問を受けて、それについて内田さんが話してくれるという本なのだけれども、分かりづらい表現はなく、すごく読みやすい。 分かりづらい表現はない、と書いたけれども、無いことはない(どっち?)、だけど、分かる、そんな感じである。 哲学的な思考であったり、宗教や、思想の話が入ってくると、そこに関してはまだまだ自分自身知らないことが多いので、かなり時間をかけて読み進めていった。 それ以上に、内田さんのお話をもっと聞かせてもらいたいという気持ちが湧き出てきて、ページを捲る手が止まらないといった感覚だ。 質問を送ってきた若者の隣で、お茶菓子と温かいほうじ茶をいただきながら、ふんふん、と話を聞かせてもらっている絵が、僕の頭の中には浮かんでいた。 内田さんはレヴィナスという哲学者の研究をなさっているそうなのだが、その方の考えについて「100%理解しようとしている」のではなくて、あくまでもレヴィナスの「弟子」であるという姿勢で望んでいるらしい。 弟子という姿勢を貫くことで、自由にものを考えることができ、自由に表現することができる、ということをおっしゃっていました。 自由に考え、自由に表現する。 それは、白か黒かを求められる現代の中で、とても大切な考え方だなぁと感じる。 他の感想文にもなんどか書いてしまっていると思うけれど、今の人たちってとても頭がいい。才能に溢れていると思うし、すごくたくさんの知識を有しているように思う。だけど、それを誰かに優しく手解きしたり、問題を提起するのではなくて、あくまでも自分の身を守る盾として、時に相手を斬りつける武器として持っている人が多いと感じてしまう。 ゲーム実況などでもっと、自分の言葉を使えるようになりたいと思っている僕からすると、そういう人たちはもったいないと思ってしまう。 僕はもっと、自分の頭から出てきた言葉を持ちたい。 けれど、手に入れてしまったら、自分も誰かを傷つけてしまう危険性も孕んでいるのかも知れない。 ただ、ここ最近、読書習慣を始めたことで、SNSに転がっている言葉があまり気にならなくなってきた。 実際、さっき書いたようにSNSの人の言葉が「もったいない」と思えるくらいには俯瞰して見ることができるようになったのだと思う。 文章力も、ゲーム実況のトーク力もまだまだだけど、たくさん書いて、たくさん喋って、考える力をたくさんの人に鍛えてもらいながら、これからも自分を磨いていきたいですね。 あなたも内田樹先生に弟子入りしてみてはいかがでしょうか🦑
- 2026年1月21日
賢者病 考えすぎて動けないがなくなる本土肥優扶馬読み終わった思い立ったが吉日。 なんて言葉がありますが、ありゃあ「デキる側の人間」言い分ですな。 人は常に、アレをやらなきゃ、コレをやらなきゃ、明日やらなきゃ、帰ったらやらなきゃ…という思考が頭の中でくるくると回っている。 もっと直感で動けたり、判断力が優れていれば、そんなことに悩むことなく、すぐ動くことができるのに、思い立って吉日できるのに…。 そんな人たちを、職場などで見てきて、自分はどうだろう、と改めて考えた。 「あれ?おれ結構早めに動けてね?」と。 そう、僕は阿呆である。 初めまして、阿呆です。 周りの同僚たちが「車の免許を取らなきゃ」「就活しなくては」「株式投資の勉強しなくちゃ」と頭をコネコネしている間に僕はゲーム実況を始め、本を一日一冊(今回で52日連続)本を読み始め、noteやReadsでの感想エッセイ的な物も始めている。 上記の部分で僕のことを「なんだコイツ、鼻につくぜ」と思った方もいるかも知れない、けど、もうちょっとだけ話を聞いて欲しい。 さっき書いた、頭をコネコネしていた人たちは、僕が思う、僕よりは圧倒的に能力がある人たちだと思っているからだ。 とある人はめちゃくちゃ絵が上手いし、とある人は僕には全く歯が立たない政治・経済にとても詳しくて勉強熱心な人だ。 そんな人たちなのに、なんで思ったことをすぐに行動できないんだろうか。 まぁもちろん、家庭環境であったり、金銭的な事情ですぐ行動に移すことができないというワケありな部分もあるのだと思うけど。 なんで彼らは動けなくて、僕はすぐ動けたのか。 そう、僕が阿呆だからである。 恐ろしく何も考えていなかった。 何も考えずに30万近くするパソコンを買い、1万円でゲーム画面を録画する機械を買い、マイクも買い、編集ソフトも購入した。 勢いとは怖いものである。 アイドルグループの嵐が活動休止前、最後のコンサートを行い、それが終わってしまうと自分の中にぽっかりと穴が空いてしまった。 1週間、2週間と時間が経つにつれ、僕の中に沸々と「何かがしたい欲」が湧き上がってきて、その1ヶ月後くらいにはゲーム実況を始めていた。(準備完了に1ヶ月、始めるまでには3ヶ月くらい) パソコンを買う際に初めて“ローン”というものを組んだし、いざ、ちゃんとしたものにしようと編集を試みるとあまりの難しさ、やりたいことがやれないもどかしさにアワアワさせられた。 投稿する際のサムネもこだわろうと、ありえない色彩に加工して設定したりもしていた。 そう、とにかく勢いだけでやっている阿呆だったのである。 同僚たちが「知識はあるけれど、動けない人間」であるならば、僕は「知識がないので、考えるよりも先に体が動く」ということである。 ダメ人間界の緑谷出久である。 土肥優扶馬さんの『賢者病-考えすぎて動けないがなくなる本-』という本を読んだ。 サブタイトル的に「おれが読む本ではないのでは?」と思ってしまった。 多分だけど「やばい、阿保が買ってしまった」と本の方が焦ってると思う。 じゃあなんでこの本を買ったんだよ、とお思いのそこのあなた。 あのですね。 私は賢者病というタイトルを見た時にこう思ったのです。 『賢者病』っていうのはきっと、聞きかじりの知識でめちゃくちゃ武装して、SNSのコメント欄で誰かを攻撃することしか考えていないような連中に一石を投じようとしている本に違いない!! と、思っていたからだ。 まぁちょっとオーバーに書いたけれど、実際に知識を持っているのに、人を攻撃するためにしかその知識を使ってないよなぁ、といういう人をよくSNSで見かけるのでそういう内容かな?と思っており、サブタイトルの「考えすぎて動けないがなくなる本」のあたりが全く目に入っていなかったというのが、この本を買った理由である。ね?阿呆でしょ? この本はサブタイトルの通り、本や、YouTubeなどで自分がやりたいことの勉強を始めるけれど、完璧を求めてしまったり、誰かと比べてしまったりすることで、なかなか行動に移すことができない人にとっての救世主なり得る一冊だった。 実際に著者の土肥さんがSNSなどを通して得た、成功例や、自分も「賢者病」に苛まれ行動できなかった時のお話、そして膨大なビジネス書から学んだ内容を、これまでかと書き綴ってくれている、行動モチベーション爆上がりな内容にもなっている。 「小さな習慣」を作ったり、知識の「覚え方」だけではなく「使い方」について書いてあったり、やるべき事柄の順番であったり。 自分なりの本の見つけ方が分からない、という方はこの本から始めてみるのもいいのではないか、と思うくらいにたくさんのデータ、知識が詰まっているので「おれって賢いけど動けながちだよね〜」と思っている方は必読な一冊です。 阿呆な僕でも楽しめました。 多分これからも何も考えずに動きまくります。
- 2026年1月20日
虚弱に生きる絶対に終電を逃さない女読み終わったゲーム実況の活動を始めてからというもの、肩が痛い、腰も痛い、喉も痛めがちだし、編集作業が多いとストレスで口内炎ができる。 だけど、この活動は死ぬほど楽しい。 今まで自分の「ひとりっ子」という良くも悪くも「世界観強め」という特性を1ミリも活かさずに生きてきた僕だけれど、このゲームをしながら喋って、動画を作り投稿する、というルーティンは間違いなく、自分に合っている。 上手いか、どうか、じゃない、でも、この活動、楽しい。 YouTubeでの活動が収益化されたことにより、そこへの熱量はより高まったワケだけれど、いかんせん、体がもたない。 現実世界には「レッドブル」や「モンスターエナジー」はあるけれど「強走薬グレート」もなければ、龍が如くのように「ダッシュスキル」に割るためのスキルポイントも存在していない。 一時期、1日に4本、5本と動画を撮っていた時があった。 撮るだけならまだいい。 撮った後にその4、5本を編集し、short動画を作る工程に移る。 長期間の旅行へ行くために、ストックをたくさん作っておこうと企んでいたのだ。 その結果、首の付け根あたりに鋭い痛みが走り、肩がちょっと右に下がり、力を入れると「あたたぁ〜い」という声が漏れるようになった。 あまり深刻じゃなさそうに聞こえるでしょ? 死ぬほど辛いのよこれが。 あまりにもキツイので整形外科に行くと「ぎっくり首っすね」みたいなことを言われた。 「ぎっくり」が腰以外にも適用されることを初めて知った。「ぎっくり」に他の就職先があることに安心感を覚えている間にも、僕の首がズキズキと悲鳴を上げていた。 その後、先生に関節技(痛いので僕にはそう感じる)をキメられながら、微弱な電流を流され、処方箋で只者じゃなさそうな湿布を貰って帰宅し、それでも完治するのに1週間近くかかったりする。 そこで僕は学んだのである。 ゲーム実況活動を続けたければ、健康でなくてはならない、と。 絶対に終電を逃さない女さんの『虚弱に生きる』という本を読んだ。 すごいペンネームである。 ラジオ番組でパーソナリティが、突飛なラジオネームや「〇〇(パーソナリティの名前)大好き」と言ったようなラジオネームだった時に1ミリも触れることなく「“〇〇大好き”さんからのお便りでぇ〜す」みたいに読むことがあるけれど、この名前だったら絶対に反応しちゃうと思う。 この本は、20代にして老人並みの体力しかない著者の「終電」さんが、全身を取り巻く体の不調や、その不調を改善すべく健康的な生活を取り入れたり、健康であることの幸福であったりを書き綴ったエッセイである。 表紙の帯に「サバイバルエッセイ」と書いてあったので、最終的に野草とか虫でも食べるのかと思ったけれど、読んでみると…なるほど、これは紛れもなく「サバイバル」である。 僕は阿呆なので、とにかく動き続けようとして、本当に動き続けてしまい、体調を崩すことが多いのだけれど、終電さんの不調はそんなの比じゃないほどに壮絶だ。 ペンネームの理由も、ただただオシャレな名前なわけではなくて、単純に長い間飲み会に参加していると体調が悪くなるから早く帰る、ということらしいけれど、本当にずっと上記のようなレベルのエピソードがたくさん書かれている。 何かをするということは、体力がないとできないということが、これまでか!というくらいに書いてあり、自分に重ねてみても、確かに恋愛も、ゲーム実況も、気心が知れた友人とのご飯会も、楽しいけれど、夜にはどっぷりと疲弊していることが多い。 そのベースの体力が老人並み、あまりにも少なすぎるとくれば、終電さんの苦労は想像を絶する。 けれど、この本からは、そこかしこから“生命力”のようなものを感じるのだ。 目まぐるしく日々を生きていると、自分のことがおざなりになってしまいがちだ。 生きたい、と強く思いながら、無理をして、自分の命をスピーディーに消費しながら生きているような感覚に陥る時がある。 例えば、めちゃくちゃ頑張ったからといって、家系ラーメン大盛りにニンニクをたっぷり入れて、更に餃子をつけて早食いすると、めちゃくちゃ命の消費を感じる。 あれは良くない。めっちゃ眠くなるし。 必死に頑張っても、ご褒美に溺れ過ぎても、体に毒だ。 終電さんの文章は、どこまでも、自分に向き合い続けている。 どこまでも深く、体の不調、逆に少し良くなったこと、自分の体のために何をしてあげられるか。 生きたいという気持ちは、他者から生じるものだとばかり感じていた。親であったり、恋人であったり、友人であったり。 だけど今の僕は、めちゃくちゃ自分のことを可愛がってやりたいとそんな風に思ってる。 物を大切にしない人は、人も大切にしない。 という言説があるけれど、自分を大切にできない人は、他人も大切にできないのかもしれない。 なんか無理しちゃうことが多い日々ですが、健康第一で、時には立ち止まりながら、爆速のスピードで走り続けたいですね。 生きるぜ、あたしゃ。
- 2026年1月19日
本を読む人だけが手にするもの藤原和博読み終わったちょうど浴びるように本を読みたいと思ってたんですよ。 ただ、何かを続けたいと思ったとき、「果たしてこのやり方で合っているのであろうか?」という不安が湧いてきたりはしないだろうか? ゲーム実況という活動の中で、新しいタイトルで遊ぶとき…例えば「今日からドラゴンクエストを実況しよう」と思った時に、プレイを始めてみないことには、どのように動画投稿を展開して行くかということが分からない。 次の実況プレイの際までにレベル上げ(主人公並びに仲間たちを強化すること)をしておく必要はあるか、サブクエスト(本編とは関係ない、けど、ゲームの世界観などを知るのに適した内容のお話)は動画内に収めるか、お使い的な内容が濃ければ実況プレイの外でこなした方がいいのか。 そうやって、一話、二話、三話、と続けて行って、残すところ、残さないところを取捨選択し、できるだけ人様に見てもらえるような動画作りを心がけたりする。 しかし、それはあくまでも自分の中の感性によるものなので、それを人に受け入れて貰えるとかどうかというのはまた別の話である。けれど、ある程度は続けないと結果がついてきているのかも分からない。 分からないことだらけぜよ。 考える力がもっと欲しい…、先生…読書がしたいです…。 藤原和博さんの『本を読む人だけが手にするもの』と言う本を読んだ。 今の社会を「成熟社会」と仰っていて、「みんなと一緒により良い社会を作る」社会から「それぞれ一人一人」という時代に変わったのだという。 電話は一家に一台から一人一つになったり、好きなアーティストだって人によってバラバラなのが現代である。 ちなみに僕は、嵐と、米津玄師と、BUMP OF CHICKENと、家庭教師ヒットマンREBORN!と、となりの怪物くんと、ゲーム実況者の牛沢さんが好きです。 みんなの好きなものはあったかな♡? 全員が同じゴールを目指していた時代は終わり、一人一人が自分の納得できる答えを見つけていかなくてはいけない時代になったと藤原さんはいう。 ネットなどを眺めていると、極端な考え方をしている人の多さに驚かされる。 というか、「あなたとても大事なことを言っていると思うのでもっと優しい言い方をなさったら?」と僕の中のお節介マダムが困り眉でスマホ画面を見つめている。 時には強い主張や、厳しい意見などを書かなくてはいけない場面があるのだろうけれど、偏り過ぎた思考は敵を生むし、ただの陰謀論的な扱いをされかねない。 僕自身の理解力が足りていない可能性も往々にしてあるけれど、意見をネットで述べているということは、それだけ伝えたいという気持ちも強いだろうに。 こういった人たちを見ると「少なくとも、自分はそうはなりたくない、頑張ろう」というふうに思わせてくれるので、自分のモチベーションを上げるきっかけとしてはいつも助かっています。 目の前の正解、不正解よりも、曖昧で、不確かな部分に惹かれることが多い。 「自殺についてどう思うか?」という問いに対して、完璧な正解を用意することは出来ない。「絶対に死んではいけない」と言うことも「辛かったら死んでもいい」と言うことも、無責任で飽和した言葉でしかない。 けれど、知識を蓄えて、思考して、誰かと議論を重ねたりして、自分なりの答えを持つことは可能だと思う。 そう、僕は思考がしたいのだ。 この本を読んでいると「とにかく読めーーー!読めったら読めーーーー!!!」という圧を滝の如く浴びせられる。 そうか、だから、これは修行だ。滝行だ。 本一冊を通して、本を読むということについて綴られているこの本は、僕の頭に心地よいストレスを与えてくれる。 早く次の本が読みたい、けど、まだこの本から受け取れるメッセージを受け取っていたい…! 盗めるだけ…盗んでやりたい…! なんなんだこのアツさは『ベストキッド』なのか? たっっっくさんの付箋を貼ったけれど、その内、理解できたことなんて、ほんの数パーセントよ。 ここまで読んでくれたあなたに言っておきたいのだけれど、この本は内容が難しいとか、そういうワケじゃない。むしろスラスラ読める。 多分書かれていることは、当たり前じゃん、と思うようなことも多い。 でも、だから難しい。 素直にその言葉を受け取ることが出来るか、受け取らないのであれば、それに対する理由を用意できるのか、頭の中で常に「うおおおおおおー!」と劇画風の男が叫んでいる。この感覚分かりますかね…? この本をしっかりと理解できる時、それこそが、僕が読書家になった時なのかも知れない。 今はもう、とにかく次の本が読みたい。 僕は、本を読む人だけが手にすることができるものを、頭で、心で、噛み締めながら、感じてみたいのだ。 最近、職場で「読書好き好き」話をしまくっていたら、その一人も読書に興味を持って一緒にハマってくれた。 僕はもうすでに、手にし始めているのかも知れねえなァ…(ニヤリ) 一緒に楽しもうね。 でも、今おれの頭はパンパンで苦しいよ。 今度あったら全部吐き出させてね。ウップ…
- 2026年1月18日
いい音がする文章高橋久美子読み終わった思春期に入ると、人との会話に緊張するようになった。 ひとりっ子で、同世代との関わりも多くなかった僕は、小学生くらいの頃からクラスメイトと話していても、どこかズレた発言が多かった。 周りが「お兄ちゃん」や「妹」の話をしていても、僕の中に「兄弟」という概念がないため「それって誰の話ですか?」みたいなテンションで話しかけると「いや?お兄ちゃんの話ですけど?」といったリアクションが返ってくるだけで、ポカンとさせていた。 だって知らないんだもん、その「オニイチャン」ってやつ。 そんな、少し、人とのズレがあるなぁという生活が続き、そのズレを治さなくては、人間にならなければ(化物なのか?)という焦りを持ちながら過ごしていて、思春期で、それが爆発した。 気づけば人と話すことが苦手になっていた。 それなりに友達もいたし、部活動も和気藹々として楽しかったから、そこまで悲観することはなかったけれど、それでも自分のしている話題が、相手と同じ話題なのか、ということにずっと囚われながら会話していた。 多分、その時からちゃんと会話することはできていたし、気にするほどでもなかったことなのだけれど、そのズレに対して向き合おうとしていなかった自分に負い目を感じていた。 学校というのは楽しいけれど、シビアな場所だ。 特に男友達といる時は、常にうっすらと「なんか面白いことを言わないと」という空気が漂っていて、なんとも言えない緊張感、面白いことができないとハブられるんじゃないかという不安が襲う。 もちろん、何も考えてない人もいたと思うけど、僕からしたらそんな人はナチュラルボーンの天才だ。 良くも悪くも、僕は昔から声だけはでかく、無駄に明るく、いかにも面白い話をしそうなテンションで喋り始めるので、案の定スベる…というかなんかズレた会話をしていて、やっぱり友達をぽかんとさせた。 だからといって特段、変なやつだ!といじめられたりしたわけでもないので、人間捨てた物じゃない。いい人たちだ。一部いじめっ子っぽい人もいたけど。 ズレに意識した学生生活を続けていたため、だんだんと人に合わせた会話が上手くなって行く。 はじめのうちは、それはとてもいいことのように思えた。 人と楽しく会話ができる。 人に伝わるトークテーマを提供できる。 人が共感できる言葉を紡ぐことができる。 ビバ青春である。 ただ、その会話は、ひどく薄っぺらく、表面的で、どこにも自分がいないようで、なんとなくだけど、頭の中で警報が鳴った。 あ、これは続けていると、本当に自分がなくなってしまうかも、と。 そこから何年も経って、今はあまり気にしないで生活できるようになったし、ある程度自分の気持ちや感情を言葉にすることも出来るようになってきた。得意とも言わないけど、人と話すのって楽しいよね。これもビバ青春だよね。 そして読書にハマり、ゲーム実況のための表現力を上げてこ〜と思っていたところでこの本と出会った。 高橋久美子さんの『いい音がする文章』である。 え、待って? これって文章術の本じゃん。 なんでこいつずっと「学生時代コミュニケーション下手で悩んでたけど今はもう大丈夫っす」みたいな会話してたん?繋がりなくない? と、僕の中のギャルがクレームを入れてきている。 ごもっともだ、もうちょっとだけ聞いてくれる? この本のタイトルを額面通りに受け取れば、そりゃ「文章術の本だ」と感じるだろう。僕もそう思って購入したし、実際内容も文章が上手になりたい人に向けて書かれているものでもあると思う。 筆者である高橋久美子さんは元・チャットモンチーというバンドでドラムを叩いていた人物だ。 『シャングリラ』とか『風吹けば恋』は学生時代の友達ならみんな知っているし、僕は『満月に吠えろ』という曲が好きだ。 その高橋さんがエッセイや小説、作詞家をされているということを知らずに購入し、読んでいくうちに「え!チャットモンチーの人だったの!?」とシナプス細胞がサプライズを受けたのだった。 この本がただの「読書術」の本ではないというのは、音楽との関わりが深かった高橋さんが書くからこそ感じることができる“言葉”と“音”の結びつきについて知ることができる、あるの種のエッセイのようにも思える作品だ。 教えてくれるというよりも、しっかりと、自分の感性と言葉で紡ぎ出される文章は、心地よく、冗談抜きに、僕はこの本の半分以上はずっと音読をしながら読んでいた。 合間、合間のコラムの中で、高橋さんがテーマに沿ったお気に入りの文章を掲載してくれているのだけど、その文章を音読してみると、なんと気持ちがいいことか。 これまでにも好きな文章にはたくさん出会ってきたけれど、リズムを意識したり、耳へのアプローチであったり、そういうことを考えながら読書したという体験はすごく新鮮だった。 これは音楽に関わっていた、もっと言えば、ドラムでリズムを生み出すことを生業としていた高橋さんだから書ける本なのだなと実感したのだった。 読む意識がね、リズムに持ってかれるんですよ。 さぁ、ギャルお待たせ(イケボ)。 なぜ、この本の感想を書くにあたって最初に学生時代のコンプレックスについて書いたかというと、ひとつはやはり学生時代に聞いていたチャットモンチーのことを思い出したからである。 懐かしい音楽は、懐かしい記憶を呼び覚ます。 例え、その記憶が楽しいものであっても、悲しいものであっても、悔しいものであっても。 そしてもうひとつ、僕が今、大人になって、コミュニケーションを取ることを恐れなくなったのは、きっと、自分なりのリズムを身につけることができたからだ。 当然、未だにきれいなリズムを刻むことは出来てはいないと思う。 だけど、きれいじゃなくても良いんだと、この本を読んで気づくことができた。 育ってきた環境が、歩く速度が、読んできた本が、ゲーム実況という活動が、学生時代のコンプレックスが、全部、僕の中で血となり、肉となり、巡ってる。 それが、自分なりのリズムになって、そして今は、そのリズムに乗っかってくれる人も、乗っかりたいと思わせてくれる人も周りにはたくさんいる。 時々、あえて乱すようなリズムを入れてくる人もいるけれど、それは無視したり、ジャズみたいに合わせてみるのもまた一興だなと思う。 『いい音がする文章』で学べたことは「生きるというリズム」だ。 文章を書くときや、ゲーム実況をする時、できるだけ自分のリズムを出すことができているかを意識してみたい。 もうすでに、僕の頭や心の中ではたくさんの言葉が鳴り響いている。 そいつらと一緒に、いつまでも楽しいビートをかき鳴らしていたいと強く思う。
- 2026年1月17日
ようやくカナダに行きまして光浦靖子読み終わったカナダ・バンクーバー。 全くどんなところか知らないぜ。 バンクーバーといえばオリンピックが開催された場所だ。 けれど夏季だったか、冬季だったかも曖昧である。多分冬季だ。 カナダと言えばでのマジカルバナナも弱いと思う。 マジカルカナダ♪ 相)カナダと言ったらメープルシロップ♪ 僕)あ…っ、メー…あっ、えっと…サ、サンタ…? このザマである。 あとサンタへの手紙を出すことができる場所は確かにカナダだけど、サンタさんに会える場所はフィンランドらしい。 サンタさんもサウナとか入るのかな。 でっかい湖でほてった体を冷やすのかな。 なぁ、教えてくれよサンタ。 オアシズ・光浦靖子さんの『ようやくカナダに行きまして』という本を読んだ。 この本はネットでの流言蜚語に疲れ、2021年からカナダ・バンクーバーへの留学を決めた光浦さんが記す、笑いあり、怒りあり、カナダの空気感の学びありのエッセイである。 コロナ禍でのスタートを迎えた留学は、とにかく前途多難である。 バンクーバーに到着したあとも、書類を提出したり、PCR検査を受けたり、タクシー運転手にぼったくられたり、ホームステイする前に3日間ホテルで隔離されたり、ホームステイ先についても2週間くらい外に出ることを禁じられたり、外に出れるようになるためにPCR検査したりする。 すごい、壮絶だ…。 まだ海外生活での困難にさえ辿り着いていないのに、最初の数ページで押し寄せる海外生活が始まるまでの前日譚でかなりのカロリーがある。 その後、語学学校が始まる。 これがめちゃくちゃ楽しそうである。 留学する勇気は僕にはないけれど、異なる文化や、考え方を持った人たちと共に授業を受けたり、ランチを食べたり、パーティーに行ったりするのはとても刺激的な体験だ。 基本的に仕事以外は家から出ないし、似たような価値観の友人たちと今ジャンプで何が面白い作品かについてファミレスで語り、絶妙に高いけど美味すぎるチョコレートを食べたり、1人でガチャポンのフィギュアを並べてソロパーティさせている僕とは真反対の世界である。留学ってすげぇ。 留学先の人たちの温もりを感じながら読んでいると、以前フロリダのディズニーワールドに行った時のことを思い出した。 車椅子の人や、お年寄り、そういった人々への思い遣り精神がとてつもない。 バスに乗る時も、アトラクションに乗る時も、最優先で周りの人たちが動いてくれるし、そこに不満を持っている人も誰1人としていない。 みんな、列に並んで大人しく待っているのだ。 そういう光景を目の当たりにすると、胸の奥がぽぅっと暖かくなる。 バンクーバーは夏以外はとにかく雨が多いらしく、冬になると毎日雨が降るわ、16時には日が暮れて真っ暗になるそう。 それにより天気鬱になる人も多いとのこと。 なるほど、天気で鬱になるというのは大変だ。 僕はだいたい梅雨になると「気圧で頭が痛い」となり、冬になると「寒すぎて頭が痛い」となる。 このまま行くと春には「桜前線が来てるのか頭が痛い」となって秋には「芋と秋茄子を食べすぎて頭が痛い、秋刀魚を持ってこい」となりかねない。 結構どのタイミングでも頭痛を引き起こしやすいタイプな人間のため、なかなか年間通してカナダに暮らすのは難しいのかもしれない。 でもいつか旅行で行ってみたいなぁ、カナダ。 引越しをすれば、誰かが捨てた家具をゴミ捨て場から拾ってきたりしてまぁまぁおしゃれな部屋が完成したり、最初のうちは留学先の日本人に芸能人扱いされるのが嫌だったけれど、仲良くなるためのツールとしてめちゃくちゃ日本では有名人だったということを開示しまくったり。 人は慣れていない環境下に入ると、ちゃんと生きるための脳がフル回転するんだなぁと改めて感じさせられる。 また海外に行くことがあれば、このエッセイのことを思い出しながら、光浦さんが大変だった思いなどを追体験しながら楽しみたいなぁ。 まずは英語からだなぁ…。
- 2026年1月16日
身から出た闇原浩読み終わった昼下がりのカフェは人で賑わいを見せている。 横並びのカウンター席のひとつで、ブレンドコーヒーを飲みながら、足を組み、かっこつけて(かっこよくないけど)いる男がいた。 僕である。 もともとカフェで本を読むのが好きだ。 なんかカフェで本を読んでいるだけでカッコいい度合いが4割り増しくらいになるような気がする。 あと、家だと本当に落ち着かない。 家そのものが娯楽と言ってもいいほどに、僕は家が好きだ。 家にいるとゲームだったり、動画編集であったり、未だに消化しきれていないお正月特番に目移りしてしまうため、集中して読書をするのにはカフェはお誂え向きな場所である。 しかし、今回は違う。 いくら側から見て僕がかっこよかった(よくない)としても、今回ばかりはいつもとワケが違うのだ。 原浩さんの『身から出た闇』という本を読んだ。 この本はSNSや、橋、エレベーターなど、生活のすぐ側にある恐怖を描いた短編集である。 ホラーというジャンルに、僕はほとんど触れてこなかった。というか避けてきた。 ホラー映画なら割と見てるかも知れない。 呪怨とか、着信アリとか、そこらへんの有名なやつは多少。相葉ちゃんのやつも見た。あれは怖くなかった。ドキドキよりもベトベトの方が勝ってた。 けれど、ゲーム実況という活動をしているのにも関わらず、ホラーゲームはほとんどやったことがないし、ホラー小説なんてものは特に一人で臨むものである。 そうなのだ。 映画だって、ゲームだって、誰かと一緒に堪能することができるじゃないですか。 それに比べてホラー小説はけしからん。実にけしからんぞ。 基本ソロプレイじゃないか小説さんはヨォ。 誰かと楽しみたければ音読しろってか?いるか?そんなやつ。ホラー小説音読って怪談師になるための練習かなにかなのか?稲川淳二になるための訓練なのか? ホラー小説に対する感情が怒りへとシフトしてきたので、ここで一旦冷静になりたいと思う。 ふー。 よし。 そんなわけで、読み始めたワケですよ。 『身から出た闇』。 まず角川ホラー文庫の装丁ね。 なんで縁が黒いんだよ。ふざけるな。 そんでなんだこれ、どこかのオフィスなのかな。 その中心に女性がいます。 でも顔にモザイクがかかってます。 絵なのに。 なんでだよ。 絵なのに、肖像権あんのかこの女性。 あと、タイトルがガビガビ過ぎだ。 どうやったら生まれるんだよこのフォント。 一回書いた後に歯医者さんのドリルとかで削ってんのか?歯医者ドリルフォントなのか? 先ほども書いたように、この小説では身近に潜む恐怖を題材にしていて、しかもご丁寧にそのお話をどのように書き進めて行くのか、という会議まで載せてくれている。 ただ、読み進めて行く内に、この会議自体にも暗雲が立ち込め始める。 なにこの小説、抜け目ないんですけど〜(おぱんちゅうさぎ風)。 エレベーターとかって怖い話聞く前から怖いじゃないですか。 狭いし、薄暗いし、機械音声の女の人が喋ってるし、なんか上がったり下がったりするし。 橋って怖いじゃないですか。 なんか渡れるし、下に水が流れてるし、グラグラ揺れると恋とか始まるし。 ただ読み進めて行くと、この『身から出た闇』は思っていた以上に、真相解明パートにかなり魅力があるということに気づき始める。 さっきも書いた通り、そこまでホラー小説を読んだことがないので、他のタイトルでもそうなのかは分からないけれど、もっとただただ怖い展開が続くジェットコースター的なジャンルかと思っていたのだけれど、蓋を開けてみれば、リアル脱出ゲーム的、というか、明らかになった瞬間が一番ゾッとする、と言った形式になっていて、エンタメとして、そこが面白かった。 初めてに近いホラー小説体験だったのだけれど、この本は自分の中でもちょうどの怖さだったように思うので、また次なる表現力向上の旅…また次なるホラー小説への旅…を続けるために、次の作品を追っていきたいと思います。 なんかおすすめのホラー小説があったら教えてください。 あと、結局カフェで読みきれなくて自宅で読み終えました。 家が怖い、好きなのに、寝れるかしら今日。
- 2026年1月15日
無敵化する若者たち金間大介読み終わった比較的若者だけれど、若者だと胸を張って言えない年齢になってきた。 職場では、おじさん客への愚痴を言いながら、大学生くらいの同僚には「へへっおじさんには分かんねぇや」と言ってしまうようなターンに入ってきている。 なので、このタイミングで僕は「おじさん」についても、「若者」についても学ばなくてはいけないのかもしれないと気づいた。 そこで購入したのが金間大介さんの『無敵化する若者たち』だ。 この本の中で言われている「無敵化」というのはニュースなどで取り上げられる「無敵の人(守るべきものなどがないことから犯罪行為などを行ってしまう人のこと)」ではなく(以下引用) 若いというだけで勝ち組と思えるような恵まれた環境が与えられ、自己評価が高く、かつその権利主張をしっかりするような存在を指す。 『無敵化する若者たち』p.15 のことを言っている。 この本を読んでいて興味深かったのが、現在の若者たちは自己評価自体は高いということだ。 「興味深い」と書いたけれど、それは意外だった、ということではなくて「やっぱりそうなのか!」という納得感からくるものである。 確かに周りの同僚たちは、立場的にはフリーターであったり、学生だったりが多いのだけれど、やりたくない事に対してはハッキリと「NO」を発するし、自分が持っているスキルを存分に発揮(友人にVtuber用のイラストを描いてる人や、パソコンを1から組み立てることができる人もいる)しているし、一番感じるのは休むことに抵抗が全く無いように思う。 最後のに関してはモヤっとするけれど、まぁ体調不良だもんなぁ…と思うしかない。 自分の場合は、もし体調不良になって職場を休むということになると結構な緊張感が襲うので凛とした態度で「今日休みます、すみません」的なLINEがくると「おぉ…」と面食らってしまう。いや、仕方ないけどね?悪いんだもん、体調。 でも、ついこないだすげぇハードそうなスケジュールこなしてたよね…うん、そりゃ…疲れるよね…うん。と、なっている。 でも本を読んでいると、こういった若者たちのベースとしては大きな「諦念」が含まれているということも分かった。 「今よりもいい世の中を、いい社会を作ろう!」という考えが、そもそも現在の若者には無いらしい。 わ!それは確かにおれも思っちゃってる! ニュースや、ネットを見ていると、明るい話題なんてものはほとんどないに等しい。 むしろ明るい話題をしているつもりなのか知らないけれど、ネットで見かける政治的な発言をするユーザーは「日本人このままだとヤバい!」とか「誰々に任せといたら日本終わる!」みたいな言説が目立ち「なんでそんなに煽り口調なの?」と思うことが多い。 本当にヤバい事柄こそ丁寧に伝えるべきなのではないだろうか。 誰かの思考を排除した上で自論を語るのは、ただの押し付けでしかないのではないだろうか? と、思ってしまう。 話がズレたけれど、昨今の世の中に対する不満や、ヘイトをネットで眺めていると、やはり「諦念」を世の中に感じてしまうのは分かるような気がする。 それでも若者の自己評価が高いというのはどういうことか。 つまり、「自分たちはもっとやれますけど、やらないっす」ということらしい。 意外にも、若者たちはスキルアップや、勉強自体はとてと意欲的に望むとのことだ。 皆すごい、おれ勉強嫌いだもん(今は割と好き)。 ファスト教養(すぐに身につけることができるスキルなど)で知識を手にして、就活への臨み方(攻略法)なども熟知しているというのが現在の若者だ。 けれど、働き始めると、やりたいことがあるわけでもないし、自ら成長しにいこうとするわけでもない。 どうせ頑張っていても「日本社会が良くなることはない」と思っている人は若者だけでなく沢山いることだろう。 その考えが染みつきまくっている若者は結果として「やれるけど、やらない」がベースの考えとなってしまっているとのことだ。 ただ、彼らの、若者たちのそう言った考え方が「悪」なのかと言われればその限りではない。 こういった若者たちが誕生してしまったことには、今の大人たちの育て方にも原因の一端があると言ってもいい。 「モンスターペアレント」という言葉がこの世に爆誕してきてからかなりの時間を経たが、大人たちは子どもたちを過保護に育て、自分の子どもが間違ったことをしないように必死になって正解を教え続ける。 その教え込まれた正解、正解、正解が積み重なって、子どもたちは「選択」する体験をすることなく大人に片足を突っ込むことになるのだ。 これも大人たちを否定したい訳ではなく、これだけ過保護にやっていれば、熱意がなく、上昇志向もなく、自分から動いてくれない、子どもができあがってしまっても文句言えないっすよね?ということである。 他の詳しいことは、本を読んで頂くとして、最後に僕の話をさせてもらいます。 僕は現在、ゲーム実況という活動をしていて、「やりたい事のための努力」ということがとても楽しいということに気づけた。 本を読むこともそうだし、週に8本近くの動画を投稿しているのもそうだし、ある意味、努力を努力とも思えていない状態、結果につながることを期待している時間がとにかく楽しい。 ありがたいことに、誰も言ってはこないけれど、「頑張ってなんか意味あるの?」「金になるの?」「そろそろハローワークに…」と思っている人たちももちろんいると思う。 でも、正解にしないといけない。 今、自分が何かに賭けるということであればラストチャンスかもしれないという年齢に入ってきているの思う。 もちろん、何かをやりたければ年齢なんて関係ないという言説もある。 けれど、体力面や、金銭面、など漠然とした不安は常に付き纏う。 あと何年本気でやれるか分からないけれど、このモチベーションという燃料が燃え続けている限りは必死こいて活動を続けていきたい。 今の若者は熱い上司とかお呼びじゃないらしい。 上等ですね。 なんなら、僕がそいつらの心を燃やしてやりたいくらいですよ。 と、足をガクガク震わせながら、今日もなんか言ってます。 おじさんなのか、若者なのか、分からん自分ですが、とりあえず何者かになれるよう精進して行きたいですね。
- 2026年1月14日
黙って喋ってヒコロヒー読み終わった人が好きだ。 人と関わることが、とても好きだ。 とはいえ、いつまでも人見知りめいたコミュニケーションの取り方をするし、おしゃべりのキャッチボールができた人の事を簡単に好きになってしまうし、逆に上手くいなかった時には酷く落ち込んでしまう。 それでも楽しい瞬間を知っているから、人と関わることはやめられない。 僕にとってのコンプレックスでもあり、一番関心があることだ。 高校生の頃、貪るように心理学の本を読んでいた時期があった。 今思い返すと、自分でも引くくらい、人とどう接したらいいのかということに悩んでいたのだと思う。宇宙人なのかおれは。 俯瞰して見れば、他人はそんなに他人に興味がないことくらい分かるのに、それでも他人のことが知りたくて仕方なかった。 ただ、その心理学の本が役に立ったかと聞かれれば、首を縦に振ることは難しい。 本が悪いのではなくて、本に向き合う自分の姿勢が正しくなかったように思う。 その時ほど、読書を手段にしていた時期はなかった。 手段にすることが悪いことだとは、もちろん思わないけれど、僕の場合はやっぱり間違った向き合い方だったと思う。 その時の自分に必要だったのは、気にしない力や、無駄に高いプライドを捨てることだった。 それを頭のどこかで、相手の考えている事を完全に理解しよう、なんて烏滸がましい考えだったのである。 それから時が流れて、今でもコミュニケーションや対人関係について考えることが一番多い。 やっぱり、今でも人と関わることが得意とは言えない。 けれど、やっぱり好きだ。 相手の気持ちを考えるというより、相手の気持ちに寄り添ったり、理解したり、そういう事を意識するようになった。 こちらから探る、というよりも、受け入れたりするという姿勢になったのかなと、なんとなく感じてる。 もっとたくさんの人と話したい、けれど、自分の生活圏内のみだとそれにも限界があったりする。 そうして、読書を通して、色んなものの見方をするのが、今はとても楽しくなった。 ふと思う、恋とはコミュニケーションだと思う。 ヒコロヒーさんの『黙って喋って』を読んだ。 この本はお笑い芸人のヒコロヒーさんによる初めての恋愛短編集である。 恋愛といってもピュアピュアな少女漫画的なものというよりも、もっと人間の奥の中にある感情が書かれていて、自分と向き合うための恋、友達以上の関係に進めない恋、今にも消え入りそうな恋、誰も彼も、どうしようもない恋愛をしている。 その、どうしようもないがとても愛おしくて、清らかで、尊い。 本物が一番汚れている、ということを思い出させてくれる。 その汚れの中で、人はもがき、考えて、強くなっていく。 時に我慢ができなくなるほどの怒りが込み上げて、作り上げた土台は簡単に崩れ去ってしまうことを胸に刻み込む。 それでも次に向かっていく姿はあまりにも気高くて美しい。 最近人と話していると、「長生きはしたくない」というような言葉を聞く。 その気持ちも十分に分かる。 分からないけれど、分かる。 その人たちは、僕と生きている環境も違えば、性別や、人種、恋人がいるか、家族がいるか、など様々だ。 だから簡単に「えー、長生きしてよ」なんてことは言えない。 無責任で、理想論だ。 けれど、僕としては出来るだけ、長く、強く生きていたいとそんな風に思ってしまう。 たくさんの映画を見て、本を読んで、ゲームをして、コミュニケーションを取って。 傷つくこともたくさんあるだろうし、しんどかったり、死にたくなる日だってあるかもしれない。 それでも、人の気高さを、信じたいと思ってしまう。 やっぱり、この本に書かれている恋愛模様はどう考えたって「どうしようもない」。 だけど、すごく混じり気がなくて、そこに人と人が存在して、血が通っている。 こういう文章を読むと、自分ももっと強くなりたい、と思わせられる。 これからも長い人生を生きていく中で、辛いことがあった時のお守りとして、この本をそばに置いておきたい。 読み返した時、「ばかだねぇ!」と言ってくれる友人が、そこにいる気がするから。 - 2026年1月13日
東京百景又吉直樹読み終わった小さい頃、母に呼び出されて、小学生ながらよく1人で東京の夜へと足を運んだ。 母子家庭で、ひとりっ子な僕にご飯を食べさせるためである。 今思うと、そもそもその時点で母はまだ仕事が終わっておらず、その食事の席で僕自信にご飯を食べさせてあげながら、同席している大人の方と仕事の話をしていたのかもしれない。 時間と場所を伝えられて家を出る。 ちゃんと鍵が閉まっているかを確認して、母からもらっていたパスねっとの入ったお財布を握りしめ、最寄りの駅へと向かって行く。 夕方の電車は酷く混み合っている。 出来るだけ扉の近くに努めていたのは、もしかすると目的地で電車を降りることが出来ないのではないかという不安があったからかもしれない。 基本的に地下鉄に乗ることが多かった。 急行に乗っていると、グレーな景色が急に明るくなったり、たくさんの人の顔が一瞬で過ぎ去っていったり、風を切る音が激しくなったりして、僕はそれをじっと眺めていた。飽きもせずに。 混雑は電車を降りた後も続く。 小学生の小さい手足を動かして、体を運んでいく、時々、人の波に運ばれて、現在地を見失ったりもする。 いつもの改札口から出られないと、強い不安に襲われることもあった。 公衆電話に100円玉を入れて、母に電話をかける。 この頃は100円玉を入れれば制限時間なしで通話する事ができると思っていたけれど、どうやらちゃんと決まっていたらしい。 多分、100円玉分の会話を公衆電話でしたことはない。人生のトータルでもなさそうだ。 なので、ただの小さなブルジョワボーイが、ただただ目的地に着くことができたぞ、と報告している姿が今思い返すと面白い。 仕事モードの服を着た母と合流し、ご飯屋さんへと向かう、先に座っていた大人の方に「イツモハハガオセワニナッテオリマス」と母に仕込まれた挨拶を棒読みでしてから僕も席に座る。 ご飯を食べ終わった後も、母と大人の方の話は終わる気配がない。 そんな時は小さいバッグにパンパンに詰め込まれた星のカービィの漫画を読んだり、ゲームボーイアドバンスの音をギリギリまで絞って聞こえるか聞こえないかの音量で遊んで時間を潰した。 話は終わり、母と帰路に着く。 「あんたを連れてくると相手も気を遣ってくれて早く帰れるからありがたいわ」 と、言われると自分が役に立てていることが嬉しかった。 都心の電車は21時や22時になっても未だに混雑している。 それでも行きで感じていた不安も、緊張感も、母といれば感じなかった。 家に着き、手洗いうがいをして、お風呂に入る。 緊張から完全に解き放たれた僕は、連続ドラマや、深夜のバラエティを一頻り見て、眠くなったら寝る。 小さな僕の冒険はこうして終わりを迎える。 神奈川県に住む、僕にとっての東京は遠出でも無ければ、無理をしていく場所でもなかった。 けれど、お腹を満たした思い出や、涙を流したライブ会場や、小さな劇場でしか見られない映画や、初めて行った古着屋や、アルバイトをしたあの店、全て東京にある。 ピースの又吉さんの『東京百景』を久しぶりに読んだ。 この本は又吉さんが上京してきて、お笑い芸人として活動していく中での生活や、思い出を書き綴るエッセイである。 お金がなかったり、職務質問されたり、先輩や後輩と過ごしたり、恋をしたり。 又吉さんの目に、東京がどのように写っているのか、それを読むのが楽しい。 色んなバンドや、作家さんが「東京」について書いていると羨ましい気持ちになる。 先にも書いた通り、僕と東京の距離は思いを馳せることが出来るほどの距離ではないからだ。 だから僕も「東京」について書きたいと思った。 この機会に思い返してみると、意外と東京という場所にはたくさんの思い出があることに気がついた。 むしろ、思い出すことのほとんどが東京だった。 未だに自分があの場所に馴染めているようには思えないけれど、東京を知るということは、自分を知るということでもあるのかもしれない。 渋谷、新宿、水道橋、八王子、下北沢、二子玉川、代官山、秋葉原、銀座、池袋、それらの場所に僕の思念が存在している。 その場所を書くことで、僕は自分自身をより知ることができるのかもしれないという啓示があったような気もする。 やっぱり好きな本を久しぶりに読むと色んな発見があるものですね。 このエッセイには、又吉さんの小説『劇場』のベースのお話があって、そのお話がとても大好きです。 ぜひ読んでみてください。 - 2026年1月12日
青い壺 (文春文庫)有吉佐和子読み終わった「価値」って難しくないですか? 母が旅行好きなため、僕は小さい頃から海外旅行に行くことが多かった。 いわゆる観光地に行ったり、その土地ならではの食事を摂ったり、キッチン付きのゲストハウスに宿泊する際には地元のスーパーで買い物をして(母が)料理をしたりもする。 それだけでも十分良質な体験と言えると思うのだけど、僕が「マカオに行った時にカジノに行かなかった」という話を職場の同僚に話した時に言われた「それは経験の放棄ですよ」という言葉がなかなか忘れられないのである。 「経験の放棄」 なんと残酷な響きなのだろう。 実際にカジノをプレイしないにしても中がどんな風になっているのかは見たかった。 けれど、その時たまたまパスポートがリュックの奥の方に行ってしまい、取り出すのが面倒になって諦めただけなのだが、それを言われた瞬間にめちゃくちゃ勿体無いことをしたんだなぁという感覚に陥った。 確かに、こうやってマカオの思い出を書こうとしたところで、カジノについて書くことができないというのはすごく残念な気がしてきた。 なんか…すごく…骨が多い川魚を食べた記憶しか思い出せない。あばばばばば。 経験とは財産であり、その人の価値を磨き上げる行いなんだなぁ、と同僚の言葉で考えさせられたのである。 有吉佐和子さんの『青い壺』という本を読んだ。 『青い壺』は無名の陶芸家が生み出した「青磁の壺」が、売られたり、盗まれたり、お礼に使われたり、忘れられたり、海外に行ったり、と巡り巡って、その陶芸家のところへと帰ってくるまでの物語が書かれた短編集だ。 有吉佐和子さんの作品は以前『閉店時間』という本で初めて読んだのだけれど、その本は600ページ近くあるのにも関わらず最後までとても楽しく読むことができたのに自分でも驚いて、一冊でファンになってしまった。 そして今回『青い壺』を購入して読んでみたのだが、これもめちゃくちゃ面白い…! 『閉店時間』の時もだけど、昭和中期(閉店時間の時系列だと昭和30年くらい)の背景が読んでいて新鮮というのがあって、もちろん平成生まれの作家さんが平成を書けばそういう空気感になるのだろうけれど、その空気感を感じることが出来るのが楽しい。 家族の形であったり、お金の使い方であったり、当時の人から感じる譲れない想いやプライドなどが作品を通して見ることができる。 ある意味、読書を通して人間観察をしているような気持ちにさせてくれる。 『青い壺』は長い期間を経て、色々な人の手に渡り、長い旅を繰り返す。 全13章の物語の中で、その価値もコロコロと変わり、しかし、その見た目の美しさから、大切に大切にされながら、旅を続けていく。 その壺が与える影響は人それぞれで、中には800年前の中国で作られた物だという人物も現れる。 ちなみに壺が製作者の陶芸家の元に戻るまでの期間は10年余りである。 陶芸家は「は…800…?」の状態である。 壺は10年かけて、様々な人の手に渡ったことで、その美しさを変容させていった。 真新しく、美しかった姿から、歴史を物語る骨董品になったのである。 最初に書いた通り、経験とは財産であり、価値だ。 その経験は、自分への自信にもなるし、人の見られ方にも影響を与える。 ゲーム実況という活動を始め、初めて動画を投稿した時、もっと言えば、録画する機械を使って動画を撮った時、めちゃくちゃ恥ずかしかった。 ネットという大海に、不特定多数の誰かに、自分の声が届いたり、評価されたりするのが怖いというのもあった。 けれど、始めてみればだんだんと緊張感は無くなってきて、今は見てくれる人のことも考えて活動できるように少しずつだけどなってきたと思う。 もちろん、まだまだ至らないところも多いし、もっと面白い人だと思ってもらいたい。 何より、価値観は人それぞれだ。 僕の話し方や、声が好きだと言ってくれる人にはより楽しんでもらえるよう努力が出来るけれど、どうしたってハナから興味がない人に、僕のことを好きになってもらうことは難しい。 壺を高い価値で見る人も、安い価値で見る人もいるように、そこには千差万別の物差しがある。 だから今の僕に出来ることは、とにかく自分の価値を磨き続けることにあるのだと思う。 僕のことを好きと言ってくれる人にも、たまたま通りかかった人でも、素敵な人だと思ってもらえるよう、たくさん頑張りたい。 だから、明日からもゲーム実況を撮る、出来るだけハキハキと聞き取りやすいように声を出して。 だから、明日も本を読み、ここに本の感想を書く、出来るだけ自分の想いを上手に伝えられるようになるために。 みなさんの手に渡ることで、どんどん味付けされたいのですよ、私は。 そんでもってたくさんの人に動画を見てもらえるようになるのが、僕の最終目標です。 - 2026年1月11日
[映]アムリタ 新装版野崎まど読み終わった感動できるものが好きだ。 映画やドラマ、小説やアニメ、それにゲーム。 これらには物語があり、その中にたくさんの感情がギュッと詰まっている。 物語で、笑わせたり、怒らせたり、悲しませたり、モヤモヤさせたり、イライラさせたり、ドキドキさせたり、ワクワクさせたりする。 感情を揺さぶるために、その道のプロが、大人たちが必死こいて一つの作品を作り上げる。 そして、それは超感動的な物語があるだけではまだ物足りないということが、この小説を読むとよく分かる。 野崎まどさんの『[映]アムリタ』を読んだ。 映画サークルに所属する主人公・二見遭一は、とある天才新入生・最原最早と出会う。 最原が書いた絵コンテ(台本を絵に起こして読み手に分かりやすくしたもの)を読んだ瞬間に二見は尋常じゃないレベルに引き込まれ、気づけば56時間もの間、絵コンテを読み続けていた。 そんな異常事態に怯えながらも、二見は最原が作る映画制作に参加していくのだが、やはりそれはただの映画ではなかった…。 というのがこの小説のあらすじである。 これを読んでいるあなたは、映画や、小説、アニメなどを見る際に、何を意識していますか? 最近はアニメの放送が決まるとまず初めに制作会社を気にするファンが多いように思う。 「あぁ、あそこのアニメ会社ならまず失敗はないな」 「あそこは作画に定評があるからな」など。 逆に「前に作画崩壊させてたよな」とか「かつて自分が見てたアニメが汚されたからやめて欲しい」など言われたりもする。 ドラマや漫画でも同じことを言われていたりする。 「あのプロデューサーが作るドラマはいつも面白い」とか「この時は今あのヒット漫画を描いてる人がアシスタントについていたから」など。 こうやって見ると、作品のことを純粋に楽しんでいる人というのは、むしろ稀有なものなのではないかと思うことがある。 子どもの頃に比べて、大人はより、それらの付加価値について目を向けていることが多いのだなぁと感じるのだ。 子どもの頃は「テニスの王子様」のアニメを見て「こんなプレーありえねぇだろ」とは1ミリも思わなかったもん。 それが良いことなのか、エンタメが世に広がっていくという意味で、悪いことなのかは実際にはよく分からない。 けど、個人的には、ボーっと読み進めたり、見ていくうちに、自然と笑わせてくれたり、泣かせてくれる作品に出会えると、この上ない幸福感に包まれる感覚がある。 例えば実写版の映画『ちはやふる』を見た時はとても純粋で綺麗な涙が流れたのを今でも覚えている。自分で言うのもなんだけど、清原果耶くらい純粋で綺麗だったと思う。 もちろん、脚本が素晴らしかったというのもあるけれど、あとから思えば僕の中で感動できたポイントをあげると二つあった。 それは、音楽と自分の記憶である。 言わずもがな『ちはやふる』は競技かるた(めちゃくちゃハイレベルな百人一首)を題材にしているため集中した時の無音になる瞬間は呼吸を忘れるし、そこから勝ち上がったり、登場人物の感情が高まった時に流れる音楽は、自分自身の感情を解き放ってくれるかのような爽快感があった。 その心の隙間を突いてくるバランスがとても上手いんだなぁと僕は思った。 そして、自分の記憶、というのは、僕の学生時代にやっていた部活動が背景にあったりもする。 僕自身、あまり部活動に熱心なタイプではなく、大会にも選ばれるような実力はなかったし、出たいという意欲もないし、練習もそこまで頑張ることができなかった。 ただ、この『ちはやふる』を見て「なぜあの時、もっと頑張らなかったのだ!」と強く自分を非難した。僕の心の中の野党が気づけば涙の涎を撒き散らしながら怒っていた。 あぁ、私はなんという失態を犯してしまったのだろう、失脚。 そのくらい、この映画には、自分の中の後悔などを無理やり引き摺り出してくるパワーがあるように感じたのだった。もちろん個人差はあります。 今書いたような、映画に対しての向き合い方というのは、僕個人としては全て通して見終わってからするものだと思っている。 昨今では切り抜かれた一部分だけで、作品の全体を評価する潮流があるような気がするのだけれど、まずはなんの感情もなく、ただ純粋な気持ちで作品を見たいという欲求がある。 そして見終わったあとに、自分の心と向き合って、何が面白かったのか、何に感動したのか、何がつまらなかったのか、それらについて考える。 最初から最後にまで、製作者のこだわりというのは詰まっているはずだからである。 それを踏まえて、この『[映]アムリタ』を読んでみてもらいたい。 天才・最原最早は何をもって天才なのか、天才の理解し難い行動は一体何を意味するのか、彼女が作り上げた映画は人の心にどんな影響をもたらすのか。 ネタバレや、切り抜きでは味わうことのできない、作品作りの美学かここに記されていると、僕は思う。 - 2026年1月10日
読み終わった僕はいとも簡単に憧れてしまう。 面白い話ができる人、ゲームが上手い人、文章が上手い人、何かひとつのことに熱中できる人、自分なりの考え方を持っている人、人付き合いが上手い人、若槻千夏。 こういう人たちをテレビや、職場などで目の当たりにすると嫉妬よりも先に尊敬というか、驚嘆の方が勝ってしまうのだ。 むしろここで悔しくなれればいいのにとすら思うけれど、自分という人間には他人と張り合うという感覚があまりにもない。 ひとりっ子ということもあるのかもしれないけれど、誰かと競争したり、比べたりすることをほとんどしてこなかった。 しかし、こうやってゲーム実況の活動などをやっていると、我ながらもっとガッツが欲しいなぁ、誰かを出し抜いてやるという気合いが欲しいなぁ、という考えが芽生えてくるものである。 それに「憧れている」と言っても、僕は2023年のWBCで大谷翔平選手が言った「憧れるのをやめましょう」レベルでの「憧れ」を抱けたことが無いのではないだろうか?もう少し噛み砕くと自分の中での「憧れレベル」をもっと上に引き上げる事ができていないのではないか、と感じている。 つまり、ひとえに憧れていると言っても、どういったところに憧れて、自分自身はその人たちのどういうところを取り入れたいのか、といった事が明確化されてないのではないか。 僕はどうやったら若槻千夏のようにトークが上手くなるのだろうか。 あからさまに「ぜってぇ嘘だろ」と思われるようなエピソードトークを語って人を笑わせる事が僕にはできるようになるのだろうか。 バカにしているように書いてしまったが、本当にすごいと思うのだ。 嘘だろうが本当だろうが、あんなに強いトークをいっぱい持ってる人たちの中で目立つ事ができるのってシンプルにすごくないですか? 上田さんからマンキンでツッコミ入れられてるのすごくないですか?マジリスペクトである、若槻千夏。 どうやったら憧れを、自分の中でハッキリと認識する事が出来るのか。 池田貴将さんの『ユニークな行動を取れる人がいつも考えていること』という本を読んだ。 タイトルの通り、ユニークな人、つまり「前例に倣わない行動」や「意外性のある選択」、「他者との差異を生む振る舞い」は普段どういう行動をしているのか、ということを心理学や行動科学の視点で明らかにしようという本である。 正直この本は僕にはちょっと難しいところが多かった。 ただ、難しいなりに、なにが自分にとって難しいのかを考えてみる。 多分この本は「実用的過ぎる」のだと思う。 著書が悪いということは一切なく、シンプルに僕の理解が追いついていない部分の方が大きい。 それは僕自身が実践よりも感情を優先してしまう性格だからなのか、なんとなく「受け入れられない」というところが多くなってしまうというところにあると思う。 例えば、新しくアルバイトを始めた時に挨拶の練習にめちゃくちゃ時間をかけられるのが僕は苦手なのである。 「いらっしゃいませ」の声のトーンや「〇〇円お預かりいたします」なのか「〇〇円ちょうだい致します」なのかの言葉尻の言い方とか、笑顔の練習とか、すげぇ苦手である。 一つ言っておきたいのは、僕は接客業がめちゃくちゃ好きである。 ゲーム実況の動画を見ていただければ分かると思うけれど、ずーーーーっと無駄話しかしていないのである。 根本的に人と話す事が好きなので、接客自体には何も抵抗がない。 それが故に、自分がやりたいようにやれない(もちろんお店の雰囲気に合った接客は考えるけれども)と拒否反応を起こしてしまうのだ。 個人的にそういうガチガチにルールが決められたお仕事は長く続かずに辞めてしまうことが多い。 考えるよりも、慣れろ、の精神が強いんですよねぇ、やだやだ、頑固頑固。 とはいえ、この本の中には自分に合う!と思う実践もいくつかあった。 パーキング・テクニックと言って、何かしらの作業中に、他の考えことが頭の中でグルグルしている時、一度メモなどでそれを書いておくと、脳が「忘れても大丈夫なこと」と認識して、ノイズが無くなるという方法だ。 これは実際に本を読んでいる時にやってみたら頭の中が静かになった感じがしてとても良かった。 その他にも頭の中のノイズを除去する方法がいくつか書かれていて、これらひとつひとつは大切に実践していきたいと思う。 あと「夜になると元気が出る」と感じているのは勘違いで、実際には意思のブレーキが利かなくなって、何も考えることができないアッパラパーな状態になっているだけらしい。 確かに深夜にnoteなどのSNSで文章を書いていると筆が乗っているような感覚に陥るけれど、あれは深夜テンションなだけだったか。 文章にボケが多めの時は容量が空っぽな右脳に任せて書いてもらっている。 いつもありがとう右脳くん。 今度提出するレポートとかもやっといて欲しいし、先に学食で席取っといて欲しい。あと出席カード書いといて。 それとイライラした時や、面倒臭いときは、言い方で遊んでみると良いらしい。 例えば「めんどくちゃい」とか「イライラするなり」とか「ローソンの自動レジはなんであんなにも手順が多いんだマジでキレソウソウ♪チキチキソウソウチキソウオウレツゲノン♪ハジケリャイエースナオニグー♪」と言い換えてしまえばストレスな気持ちとも距離を置くことができるらしい。なるほど、おもろい。 やっぱり、成功している人たちはすごい。 一番最初に書いた憧れの人たちもきっと無意識だったり、この本に載っているようなことを努力して身につけたりした結果、誰かの憧れになっているのだろうなぁと思うと、ちょっと悔しい。うん、これはちゃんと悔しいぞ。 実践ができないということは、まだまだ自分に足りてない部分がハッキリと見えてきていないんだなと思う。 やはり、自分の憧れ癖は止まらない。 これからもたくさん本を読んだり、文章にして頭の中を整理することで、またこの本と向き合いたいと思った。 成長したと思った時にまた読んで、自分がどれだけ素直に本の内容を受け入れられるようになったのか、それともやっぱり読みづらさを感じるのか、未来の自分が楽しみである。 僕にとっては難しかったけれど、色々な見方が書いてあるので、今すぐ何か試したい!という人にはおすすめです! ぜひに🙏 - 2026年1月9日
読み終わったあなたは相手に直接毒を吹きかけるタイプですか? それとも、相手が理解できるかどうか微妙なラインの言葉を遅行毒のように与えるタイプですか? まぁ出来ることなら、そもそも毒とは無縁で生きて行きたいと思うのが常であると僕は思うのだけれど、そうは問屋が卸さない。 職場の上司の嫌味を言われれば、給湯室で同僚と愚痴るだろうし、パワータイプの人間であれば直接上司にカウンターを交わすだろう、拳で。 他にも世の中には毒を溜めやすい場所が至る所に存在している。 スーパー、映画館、書店、電車の中、学校、有名な観光地、マニアックな観光地、電気屋、愛想の悪いコーヒー屋、愛想の悪いラーメン屋、MacBookユーザーの方が偉いとされるカフェ、ドリンクバーと山盛りポテトフライだけで4時間近く居座り続けることができるファミレス、絶対に席は譲らないという強い意志を持ってママ友たちと交代交代でトイレや買い物を済ませようとしているフードコート、自宅、などなど。 我々は毒沼の中を生きていると言っても過言ではない。 なんなら毒から逃げることは不可能という見方をしても良いのかもしれない。 しかし、もっと身近に毒を感じる場所が今みなさんがお持ちのスマートフォンにもあるではないですか。 そう、SNSである。 昨今のSNSによる毒沼はなんかもうすごい事になっている。 毒をもって毒で制すのは当たり前で、毒をもって毒で制したあとにもう一回毒で制してくることもあれば、急に別の味の毒をもってくる人まで現れる。別の味の毒に関しては、1トピック、1ポイズンであれよ。 反町隆史もドン引きレベルの誹謗中傷や、謂れのない悪意が充満し、それを擁護しようものなら、その人にもまた石が投げつけられる。 怖い世の中になったものである。 とはいえ、毒要素が多い現代だからこそ、毒を吐く場所というのはある程度必要なのだと思う。 なんでも制限すればいいってものでもない。 言論の自由だとか、声をあげないと世の中は変わらない!みたいな意見ではなくて、やり方や、言い方みたいなものを見直すことはできるはずだ。 中野信子さんの『エレガントな毒の吐き方』という本を読んだ。 この本では「帰って欲しいお客様にはぶぶ漬けを出す」で有名な京都の方の言い回しを研究対象として、相手に物事を伝えたい時、どのような言い方をすればこの場を丸く収めることができるか、というのを主題としている。 先に書いたように現代のSNSでは「YES」か「NO」があまりにも跳梁跋扈している。「正義」と「悪」と言ってもいいかもしれない。 どちらにしても強すぎる意見というのは不毛な争いしか生まない。 その先の解決に何を求めているのだろうか。 相手を言い負かして気持ちよくなりたいだけなのではないだろうか。 時には多くを語らずに身を引いたり、相手にあとからジワジワとダメージを与える遅行毒のような言葉を投げかけて立ち去ってもいいのではないだろうか。 この本によれば、もとより東京ではハッキリとした物言いが、京都では婉曲な言い回しが多いという歴史があるらしい。 それは東京は比較的に言えばまだ歴史の浅い土地であり、色んなタイプの人が入り混じる流動的な場所であったことと関係していて、その場限りの関係であることも多いことからハッキリとしたコミュニケーションの方が話を円滑に進めやすいという利点があった。 逆に京都は歴史が長く、何代にも渡って同じ場所にその一族が暮らすということも珍しくはないという。 つまるところ、ご近所付き合いである。 ご近所付き合いが上手くいかないことでの弊害は予想に難くないだろう。 息子・娘の出来不出来についての嫌味を言われたり、燃えるゴミを出せば袋の中にビンを混ぜられて玄関に戻されたり、駐車場のシャッターに「バカ息子」と書かれたりする。 最後は長嶋家以外では聞いたことないけれど、このようにご近所付き合いを大事にしていないと生活や精神に支障をきたすことは請け合いである。 こう言ったトラブルを回避するための「言い回し」がいわゆる“京言葉”と言われる所以であると書かれている。 会いたくない相手に予定を聞かれれば「また空いた時に連絡しますね♪」と言い、汚い部屋を片付けて欲しい時には「風通しがいい部屋は風水的によろしいらしいですよ?」と言い放つ。 確かにこれらの言い回しに気付かされると、普通に注意されるよりも怖い気がする。 しかも京都の人たちはこう言った皮肉に気づかなかったとしても特に気にしないという。 それはむしろ「この人は皮肉が通じない人だ」というレッテルを貼り付けて自分が優位に立てているという感覚になるらしい。 もちろん全員が全員そういう人たちではないと思うけれど、歴史的背景からトラブル回避、リスク回避の技として“京言葉”があるというのはとても面白いと感じた。 僕ももし、圧倒的な悪意を含む言葉が投げかけられたらエレガントに回避したいと思う。 「お前の動画面白くねぇんだよ!」の言われたら、 「あら、オモロない動画にまで目を通してはるなんて、随分勉強熱心な方どすねぇ」 と、返したい。 多分だけど京都弁である必要はない。 - 2026年1月8日
殺人都市川崎浦賀和宏読み終わった浦賀和宏さんの『殺人都市川崎』を読んだ。 神奈川県川崎市といえばまず初めに「治安が悪い」というイメージを抱くと思うけれど、浦賀さんが描く川崎も甚だエグいものである。 まず伝説の殺人鬼がいる。 あまりにも低所得で、職も人間関係もすべてを川崎で完結せざるを得ないという暗黙の了解がある。 高層マンションが立ち並ぶ武蔵小杉に住む人間が「川崎に行く」と言えば「お前は我が一族の恥だ」くらいのことを言われる。 ここでカミングアウトすると僕の地元は川崎である。 おいおいおい…怖すぎるだろ川崎。 おれが知らないだけでこんな場所だったのか川崎。 物語は、殺人鬼がいるという場所にやってきた主人公とその彼女がマジで殺人鬼に出くわして、彼女を鉈でぶっ殺されるところから始まる。 ちなみに主人公は素行不良が目立つ生意気な(卒業して間もない)中学3年生なのだけれど、主人公を補導して警察に通報しようとした区役所の職員も彼女が殺される直前に殺されている。 読み始め20数ページで人が2人死ぬ。 それは流石にあんまりじゃないか、川崎。 ここで、このあとの主人公の川崎に対する結論を見てほしい。 俺は目の前で二人も人が殺されるのを目撃した。映画とは違う。ゲームでも、漫画でもない。現実の人間の死は、あまりにも悲惨で痛々しく、生臭い血に溢れていた。俺は思い知った。これが川崎なんだと。 『殺人都市川崎』p.90 「これが川崎なんだと。」 じゃねぇよ、怖ぇよ川崎。 おれが知っている川崎じゃないよ。 表しか見えてなかったのか?おれは。 ラゾーナと、TOHOシネマズと、チネチッタしか行かないムービーキッズはお呼びじゃないのか?川崎よ。おれはまだお前という場所の一員になれてなかったのか?なぁ川崎よ。 ブラザーだと思っていた川崎にまさかこんな形で裏切られるなんて思ってもいなかった。 しかし安心して欲しい。 なぜならこの後もたくさん人が死ぬからである。 たくさん死ぬならいっか♪となる人はいないと思うけれども、その違和感を持ち続けることで、この小説はグッと楽しくなってくる。 素行不良マイルドヤンキー主人公とは別に、日本のド底辺である川崎から抜け出し、武蔵小杉という名の超高層マンションが立ち並ぶブルジョワな地域で暮らす少女も別の視点の主人公として描かれる。 この少女は素行不良マイルドヤンキー主人公(略して、マイヤン)の元カノであり、新聞を読み先述した殺人事件について知ることとなる。 親の都合で武蔵小杉に引っ越して来ただけなので、まだマイヤンに対しての未練があり、川崎に様子を見に行きたいという気持ちに駆られる。 しかし、親はやっとの思いでド底辺シティ川崎から抜け出せたので実の娘に対して全力のブチ切れである。 川崎のやつが嫌われ過ぎて不憫である。 おれの地元である。 そこに母親のお目付役としてやってきた“いとこ”が湧いて出てきて、そのいとこが20年前に起こった“後藤家殺人事件”について一緒に調べたいと言ってきやがる。その例の“事件”の犯人というのが最初に主人公たちを襲った殺人鬼である。 そしてなんやかんやあって、元カノといとこクンは共にその事件を明らかにするために動き始めるのであった…。 殺人鬼の圧倒的な恐怖感であったり、スプラッタな殺人描写、そして主人公のプライドの高さが垣間見えるイキり具合、主人公の元担任に高鳴る俺の鼓動。 それぞれ要素がページをめくる手を加速させ、そして最後にはとびっきりのサプライズが用意されている。 その真実はどうぞご自身の目で確かめてください。 最後にちゃんと言っておくと、川崎は普通にいいところである。 カツアゲは一回だけされたことあります。 とてもいいところです。 - 2026年1月7日
夜の墓場で反省会 (TOKYO NEWS MOOK 410号)ワクサカソウヘイ:著読み終わった大切な日に限って口内炎ができる。 幼き頃から一定の間隔とも、順不同とも言えるタイミングでできるそれは発生するたびに「これは定期的なものなのかどうかをハッキリさせようぞ!」とカレンダーアプリに書き記そうと決心しては、その次の瞬間に「グラコロ美味しそうだな〜」という空虚な欲望に掻き消されては忘れ去られる。 しかも口内炎ができる場所は年代によって変わったりする。 小中学生の頃は奥歯の横の頬裏によく発生していたような記憶がある。 これの厄介なところは、口内炎が腫れ上がることで口の内側に小さな乳首のようなものが生まれることで、多少なりに口の中の間取りが狭くなることだ。広々ワンルームに突如として「これ必要か?」という柱が急に生えてきたようなものだ。 口の中の間取りが狭くなることでちいくび(口の裏側の小さな乳首の略称)がある生活を強いられるのだけれど、突如として現れた柱との生活は予想外の障害をもたらす。 鍋をテーブルに持って行こうとしては肩をぶつけ、スマホをいじりながら近くを通れば足の小指をぶつける。 「痛って!なんでこんなところに…なんだちいくびかよ…」 突如として生えてしまった柱に遣る瀬なさを覚えるばかりか、その狭さに慣れてきて調子に乗って嵐の『愛を叫べ』などを踊っていると逆サイドの頬にもちいくびが発生していたりする。 「あ!?昨日までなかったよな!?」 これは口内ルームが狭くなったことで、かつ片方の柱を避けるあまりに、逆サイドの歯での咀嚼を意識し過ぎ、逆サイドにも口内炎が出来てしまったということだ。 「ぎゃぁぁぁぁぁあ!!!!!」 住み慣れた真四角のワンルームは気付かぬうちに持ち手部分が狭すぎるダンベルのような形となり、住みづらさを倍増させて行く。 少し大人になると今度はベロの付け根に口内炎が出来るようになった。 え、まって、そんなところにも出来るの?口内炎って。 どんだけ自由なのだ。 龍が如く極の時の真島吾朗なのか。 この口内炎も非常に厄介で、いかんせん話す度にベロの付け根からビリッとした痛みが登ってくるのだ。 この時ほど、人は話す時に舌を酷使しているのだと気付かされることはない。 夏のボーナスとか、有給とか、星野リゾートのペアチケット(二枚舌だけに)とかあげた方が良いのかもしれない。 そして現在、timeleszの東京ドーム公演に向かっている電車の中でこの文章を書いている。 そんな大切なハレの日だろうが意に介すこともなく、口内炎のヤツがやってきた。一昨日から。 もちろん対策はした。 クリーム状の薬で口内をベチョベチョにして、歯医者さんからもらった消毒液のボトルをがぶ飲み(⁉︎)し、「もう大丈夫お前は一人じゃないよ」と少年漫画の主人公気分を味合わせてやった。 これで2日かければ治るだろうという見込みも虚しく、ぼくの口内炎は現在、下唇の裏側に鎮座している。 ここが今日の寝床なのである…ムニャムニャ。 と、お気に入りスポットでシエスタをキメる猫の如くそこでアンモナイトのように丸まっているのである。本当にちいちゃい猫が口の中にいたら良かったのに。 これから東京ドームでtimeleszメンバー生で拝むことが出来るというのに佐藤勝利を見ながら「勝利も口内炎出来るのかなぁ」と考えたり篠塚大輝を見ながら「おれの口内炎もお前のようにみるみると成長しているよ(泣)」と言った雑念がチラつくのだろうか。 それはあまりにも悲しいけれど、ここまで自分の口内炎と向き合ってなんだか愛着が湧いてきたまである。 寺西拓人を見ながら「この口内炎もいつか国民(おれ)の元カレになっちまうのかなぁ…」とセンチメンタルに陥る可能性だって出てきた。 猫だったり、元カレだったり、大変である。おれの口内炎。 ワクサカソウヘイさんの『夜の墓場で反省会』を読んだ。 相変わらずワクサカさんの文章を読むと執筆意欲が湧く。 もしかすると、もしかしなくても、この感情は常軌を逸しているのかもしれない。 彼の文章は自他共に認めているであろうほどに「ふざけている」からである。 ふざけていて、無意味に近い文章が、僕の救いであり、笑顔にしてくれる。 本当の意味での現実逃避をもたらしてくれるその文章はきっとワクサカさんが本気で現実逃避に臨んでいるからかもしれない。挑んでると言ってもいいかもしれない。 僕は基本的に働きたくない。 けれど、ゲーム実況をやったり、こうやって文章を綴っている事がとても楽しい。 でも好きな事しかやりたくない、という感覚ともまた違う。 多分ゲーム実況や、文字を書くという事が生活になりつつある。 生活は当たり前に続いて行く、くだらなくて、楽しくて、面白い、時には辛くて、しんどくて、果てしない未来に不安を抱く。 いつか生活で食っていけるようになったら最高じゃないですか? そんな余裕ができたらこの口内炎のことももう少し好きになれるんじゃないだろうか。 いや、嫌いだわなんだこいつ。痛ぇし。 - 2026年1月6日
ぼくには笑いがわからない上村裕香読み終わったぼくには言葉がわからない。 相手に想いを伝えるというのは案外難しい。 どんなにおしゃべりな人でも、どんなに仕事ができる人でも、それが相手に伝わらないと、言葉はただの音でしかない。 ゲーム実況を始めてから、ほぼ毎日のように、自分が話す言葉について考える。 こう書くと、ストイックに感じるけれど、全然そんなわけじゃなくて、ちゃんと伝わっているのか、不安になる。 動画を撮って、編集する作業をしていると、ゲームの音と自分の声が聞こえてくる。 正しい間でツッコミを入れられているのか、キャラクターと声が被ってしまっていないか、不適切な発言はしていないか。 そんなことを考える。 一番の懸念は、ちゃんと、このゲームの面白さが伝わっているのかということだ。 今プレイしているような『龍が如く』や『FF15』はキャラクターも個性的で、プレイしていてとても楽しい気持ちになる。 その中で僕がやりたいのは「作品をより面白いものにしたい」ということである。 それがもし、自分のお喋りでゲームの邪魔になってしまっていたりしたら本末転倒である。 とは言えねぇ〜余計なこと喋っちゃうんだよなぁ〜、喋るって難しいのよ、生放送になるともっと大変、言葉の回路が詰まってる時あるよね、あれダメね、あーとか、えーとか、言っちゃうもん。 そんな自分の動画でも、最近では「元気になれます」と言ってくれる人が少しずつ増えてきた。 僕の言葉や、感動がちゃんと伝わってるということが何よりも嬉しい。 迷うことも多い活動だけど、やってて良かったと思える瞬間が存在していることはとても幸せなことだと僕は思う。 上村裕香さんの『ぼくには笑いがわからない』を読んだ。 主人公の耕助は「好きな人を笑わせたい」という一心で言語学を専攻する真面目な大学生なのにお笑い芸人を目指すことになる。 お笑いのことも全く知らないので、まず初めに「お笑いの起源」や「最初の芸人」について調べたりする。 耕助の近くに鈴木雅之がいてくれればすぐに止めてくれたのだろうけれど、残念ながらいなかったので、なんかもっと間違えて怖い話とかしてしまう。彼いわく不合理性の実践だったらしい。ナニソレオイシイノ? 彼のまっすぐさはたくさんの人を巻き込んで行くこととなる。 幼馴染で耕助の理解者である将吉はM-1に出るための相方に選ばれ、腕に「松本人志」と書かれた入れ墨が入った週6で焼き鳥屋のバイトに入っているほぼ焼き鳥屋さんのお笑い芸人を師匠にして、恋した女性に対して「M-1で優勝したらキスしてください!」と言い放つ。 さすがに真っ直ぐ過ぎないか、耕助よ。 とどまることの知らない耕助の知的好奇心は、耕助自身の言葉となり、いつしか、耕助はなぜお笑いにのめり込んで行ったのかが明かされる。 “自分たちで新しく作らなくたって、すでにあるコンテンツを消費するだけで、人生はそこそこ楽しい。 苦しい思いをして新たなネタを作ろうとするなんて、バカだ。” この言葉が個人的にはめちゃくちゃぶっ刺さった。 物を作る上で、これは一生付き纏い続ける感覚だ。 世の中にはたくさんの映画、小説、ゲーム、音楽、YouTube、お笑い、見切れないほど膨大なコンテンツが存在している。 その中で、自分は何を生み出すことができるのか。 どうやったら、楽しんでもらえるのか、感動を与えることができるのか、感情をぶつけることができるのか。 耕助のことを目で追っていたら、気づけば、僕自身も言葉を伝えることの素晴らしさに目覚めてしまったのかもしれない。 これからもたくさん本を読んだり、そして書いたり、ゲームをしたり、言葉を届けたり、それを続けていくと思う。 そしてそれに反応をもらえたら、とても嬉しいんだと思う。 だってそれは、ことばが届いたってことだ。 最後の数ページ、耕助の真っ直ぐさと覚悟に鳥肌が立ちました。 あのページを何度も読みたくなるのと同じくらい、人はたった一瞬の感動のために努力するのかもしれないと思った。 最強のお笑い青春劇がここにあります。
読み込み中...