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みっつー
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  • 2026年3月1日
    地方創生大全
    たまには全く知らない分野についての本も読んでみようと思いたち購入してみた。 言うてもね。 私、大学では社会学を学んできたので、人と地域の結びつきとかね、余裕っしょ…なわけなかったです。ごめんなさい。 いや〜正直、頭パンパンなことの方が多い本でした。 しかし、「知らない分野」だからといった理由で購入しただけあって、その中身はとても刺激に満ちていた。 地方創生は、2014年に施行された「まち・ひと・しごと創生法」とともに打ち出された、地方活性化を目指す政策または取り組みを指します。国と地方自治体は現在、各々の人口ビジョンと総合戦略に基づいた地方創生戦略の推進に奔走しています。加えてSDGsと絡めた取り組みも各地で進んでいます。 ジチタイムズ『地方創生とは?』 そもそもなぜ「地方創生」についての本を読もうと思ったかというと、職場の同僚が山梨県で宿坊(参拝者や僧侶がお寺や神社にとまるやつ)体験をしてきたとの話を聞いて、ほとんど忘れてしまったけれど「地域の人とのうんぬんかんぬん」みたいな話が頭の片隅にあったようだ。 結局のところ同僚から聞いた話と、関係があったのか、なかったのかは分からなかったけれど、地方創生、つまり地域活性化についての興味深い話が山盛りに載っていたことは確かである。 特に、新幹線は本当に地域活性化に役立ってきたのか?という問いかけである。 個人的に新幹線はただの移動手段としか思っていなかったのだけれど、表向きの理由としては高速移動による広域交流の促進、駅周辺の再開発、観光誘致を通じて地方創生を支える重要なインフラということになっているらしい。 そのため新幹線を引いたからには、その分、魅力ある土地づくりを本来考えなくてはならない。ちゃんとリピートをしてくれる観光客を生み出さなければならない。 しかし、そこの詰めが甘くなっている部分もあるし、加えて駅周辺にはだいたい東京・大阪などの大都市資本企業が入っていて、そこで買い物をすれば結局ほとんどのお金が都市部に流れていってしまい、地方が潤うというわけではない。 それに新幹線が通ったことで、その地域から人が出て行きやすいという状況(ストロー効果)を作ってしまっているという問題もある。 その他にも、地方創生のためにどれだけの補助金や税金が使われているか、同調圧力や好き嫌いで事業が進めたり、潰したりしていたり。 これらをただの「地方創生の現場ってこんな感じなんだぁ〜」という目で見ても十分に楽しめるけれど、自らが働いている会社や、自分ごとに置き換えて読んでみると、なかなか笑えないものも多い。 事業という大きさではないにしても、自分もゲーム実況をYouTubeでしていて、失敗という失敗はもちろんないけれど、見てくれる人が増えるための行動が出来ていないこととかを考えながら読んでしまった。 とにかくトライアンドエラーで、色々やってみたいですね。 個人事業主だと支援してくれる制度とかもあるっぽいんですけど、お金もらったあとの自分が怖くなるような本でしたね…、およよよよ。
    地方創生大全
  • 2026年2月28日
    ミニマル脳習慣
    なんかちょっとエンジンかかっちゃってるな、という日が増えてきた。 毎日ゲーム実況をしていくうちに、「もっとこうした方がいいかな」みたいな自分が思っている努力と結果のバランスが釣り合わないな、と感じる時がある。 それでも根はポジティブなので、「仕方ねぇ、やれることをやるしかねぇ」という気持ちで切り替えることができる自分は褒めてあげたいけれど、そうなると次はどこか「やり過ぎ」になってしまいがちだ。 一日に四本ゲーム実況動画を撮ろうとすれば喉も痛めるし、パソコン作業をやり過ぎれば首から肩にかけての神経痛を起こす。 でもやる気だけはあるという状態。 これがいわゆる「かかってる状態」である。 この状態は自分の視野を狭くすることがあるので、扱いに気をつけなくてはならない。けれど、かかっている状態だからこそ、出せるモチベーションも存在する。 どのようにすればこの「アツい」と「冷静」をうまく同居させることができるのだろうか。 ただこうやって「どうしたらいいのか」と考えている時間、大切らしいです。 「こうなりたい」 「こんな状態になったらいいのに」 と考えること自体が、 すでに脳にいい影響を与えている。 菅原道人『ミニマル脳習慣』p.11 私はお金持ちになる想像をよくする。 勘違いしないでいただきたいのは、「うまい肉を食って、イイ女を抱く」のような「お前は海賊か」といった妄想ではなく、人からこういうふうに見られたいとか、見てくれている人から頂けたお金でどんなことがしたいか(新しい機器を買うとか、旅行に行きたいとか)を考える。 人のために頑張って稼いだお金を使って何かをするって、めちゃくちゃ素敵なことじゃないですか? なんか、そんな妄想しちゃいますね。 こんないいイメージを持ったり、いい妄想をするだけで脳からはドーパミン(やる気を生み出してくれる脳内物質)が発生すると、この本には書かれていた。 なるほど、ここまで自分がゲーム実況を続けてこれたのは自分がいい妄想をたくさんしてきたからなのかもしれない。夢見がちと言われれてしまえばそれまでな部分でもあるだろうけれど。 本を読むこと自体も常にいいモチベーションで臨むことができている。そもそも、本を読んでいることがカッケェ〜と思っているので、そりゃ続けたくもなる。 で、実際に知識がついたり、メンタルのコントロールが上手にできるようになれば、本当にカッケェ〜人間になれる可能性だってぐんぐん上がるのだ。スッゲェ〜。 脳には、「面白いから笑う」だけでなく、 「笑っているうちに、面白く感じてくる」 という面もあるのです。 菅原道人『ミニマル脳習慣』p.42 これを読んだとき、嵐の相葉雅紀さんの言葉を思い出した。 「ひみつの嵐ちゃん!」という番組内で、学生さんの悩みに答えるという企画があった際に、「楽しいから笑うんじゃなくて、笑っていれば楽しいことがあるかなと思って笑っています」と答えていたのがとても印象的だった。 他人を見ていても、仏頂面をしている人であったり、つまらなそうにしている顔の人よりも、笑顔の人の方が話しかけやすいし、幸せそうに見える。 実際、人は口角を上げるだけで楽しさを実感することができるらしいので、気になった方はやってみよう。おれはもうすでに口角アゲアゲでこれを書いてます。怖いか? その他にも真似しやすい、小さな習慣がこの本にはたくさん書かれている。 脳のための、運動習慣、食習慣、ストレスのかからない人との付き合い方。 たまに思い出したように読むことで、「今日からこれを試してみようかな」という気持ちにさせてくれるので、ぜひ試してみてください。 おれの口角はまだアゲアゲです。 これを読んでくれたあなたもアゲアゲで行きましょう⤴︎
    ミニマル脳習慣
  • 2026年2月27日
    私が間違っているかもしれない
    私が間違っているかもしれない
    はじめはタイトルに惹かれただけだった。 「私が間違っているかもしれない」 ここ最近、人と話をしたり、SNSを見たりしていると、「正義」と「悪意」がフィルターを通すことなく吐き出される瞬間をたびたび目撃していた。 その度に私は「この人たちが言っている正しさは本当に正しいのだろうか」と思っていた。 それはときに、自分を守るため、他人を守る(守っている気になっている)ために振りかざされる正義、一般論であり、そこに本当にあなたが考え出した正義はあるのだろうかと考えてしまう。 誰かが誰かに「正義」を振りかざすとき、相手の「正義」は無視される。 そういった議論が行われた末に存在しているのは、そんな勝ち負けや、白と黒をはっきりさせなくてはいけないものなのだろうか。 「私が間違っているかもしれない」 この言葉は魔法の言葉だ。 その呪文は自らの「正しさ」を殺すものではない。 相手の「正しさ」を受け入れようとする姿勢だ。 人は誰でも、自分のことを多かれ少なかれ合理的、理性的で、現実的に物事を考えられる分別のある存在だと思っている。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.48 これらの違和感は慢心だ。 自分よりも知識のない相手、立場が弱そうな相手、間違いを犯した相手に対して、人は容赦なく正義を振りかざす。 私自身にだってそういう感情がゼロで、全く感じたことがないのかと聞かれれば、それは嘘になるだろう。 陰口や、悪口で、人との距離を縮めたことがないとは言い切れない。 しかし、その日の帰り道はどこか、胸に痛みを覚えたりもする。 「なぜあんなふうに言ったしまったのか」とか「むしろ相手に嫌われてしまったのではないか」「もしかすると今日話した内容が本人に伝わってしまうのではないか」など、負の感情が巡り始めてしまう。 何度もいうように、幾許かのそういった状況に巻き込まれたり、踏み込んだりしてしまうのは、人間社会で生きる以上仕方のないことである。 だが、自分を顧みることなく、相手の言い分を無視して、自分の正しさを主張し続ける姿勢に、納得することはできない。 誰かに対して「こうあるべきだ」と思ったからといって、その人がその通りの人間に生まれ変わったりすることは絶対にない。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.86 人にものを教えたり、ときには怒ったりするのはとても難しい。 皆誰しもが引用部分のようなことを、なんとなく理解しているからだ。 人には人に合った教え方や、怒り方、受け取り方があり、けれど、自分への責任の重さなども相まって、それらの気遣いを忘れてしまう。 むしろ、気遣う必要などない、というふうに思う人もいるかもしれない。 私は「こうあるべき」の「べき」の部分は、特段強く否定はしない。 「べき」の部分をどのよう伝えたら、相手は、相手なりの「べき」を感じ取ってくれるかが重要だと思う。 自分が「毎日勉強をするべきだ」と相手に伝えたいのであれば「毎日勉強しないことでのデメリット」などを自分の体験などを通して説明した方が相手に伝わるかもしれない。 相手を、自分が求める人間に仕立て上げようとするのではなく、相手の考えを受け入れたうえで、どのようにすれば自分の考えを伝えられるかということを意識するのが、コミュニケーションなのではないかと、私は思う。 自分に対して優しく寛容になれば、自然と周りの人たちにも同じように接することができるようになる。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.237 ここまでかなり他者に対しての言葉を連ねてきてしまったけれど、それは自分自身にも言えることだ。 とにかく自分を大切にする。 人にばかり向けている目を、自分の内側へと向けてみる。 自分は、自分が思っているほどまともではない。 だからこそ、そんな「まともじゃなさ」を認めてみる。 すると、相手の「まともじゃなさ」も自然も受け取れるようになる。 嫌な言葉遣いをするあの人も、あの人なりの生きてきた環境や、育てられてきた環境で培ってきた言語なのかもしれない。 そこに、「悪意」はないのかもしれないし、あるのかもしれない。 大切なのは、完璧を求めず、「自分はできる限りのことをしている」と考えるようにすることだ。また「他の人も同じように、できる限りのことをしている」と考えよう。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.238 しかし、それでも相手は相手なりに大変なんだと、認めてあげることで、今ネットで感じているようなモヤモヤを少しでも軽くすることができる。 まぁ、そもそも見なくていいという意見もあると思うけれど、さまざまな思考が渦巻いているSNSは、あれはあれで面白い。 受け入れない姿勢でSNSを活用するのではなく、受け入れた上で、どんな感情を抱いて、でも、「間違っているかもしれない」という一歩引いた目で見ることで、新しい景色に連れてってくれる可能性を、私は信じたい。 勝ち負けや、白と黒にばかり気を取られないように、色んな意見を取り入れつつ、生きていきたいものですね。
    私が間違っているかもしれない
  • 2026年2月26日
    透明なルール
    透明なルール
    どちらかというと周りに合わせるということをしない学生生活を送ってきた。 多分それは学校の雰囲気的なものもあったんだろうし、私が知らないところで繰り広げられていた可能性はいくらでもある。 ただ、高校の二年生か、三年生のときに、部活の同級生から言われた「お前は八方美人だ」という言葉を今でも時々思い出す。 「なんてことをいうんだこいつは」と思ったし、実際、心当たりが1ミリもなかった。 そもそも八方美人であることが悪いこととも思わないし、誰にでもいい顔できるやつはそれなりにすごいのでは、とすら思う。 まぁだからといって「おれ八方美人!?ありがとう!ひゃっほーう!」となれるほど私は達観していない。達観ってこういうことなのかも分からん。 ちゃんとそれなりにダメージも負い、その日から今日までずっと、その言葉を時々思い出しながら過ごしている。 とはいえ、その同級生に言われたことよりも、なにを持って「八方美人」と言われたのかが、私は気になっている。 今思えば同級生は、誰とでもお喋りできる私の性格に嫉妬心なるものを抱いていたのかも知れないし、衝突を避けようとする(そもそもしない)性格に対して懐疑的だったのかも知れない。 それならわりかし説明ができると思うのだけれど、私は基本的に周りに興味がなかった。 というと冷たいニュアンスが出てしまうだろうが、個人に対して「どんな食べ物が好きか」とか、「どんなアイドルが好きか」みたいな話には興味があるけれど、クラスにうっすらと存在しているヒエラルキーであったり、誰と誰が付き合っているみたいな話にはまったく興味がそそられなかった。 特段、そういう空気に嫌悪感を抱いていたわけでもなく、本当にどうでもよかったし、なんならそういう話が自分には舞い込んでこなかった。 多分そういう認識すらされてない存在だった。 あれ?悲しい話だったっけ?これ。 たまに学生時代の友人と食事に行くと「そういえばこないだ〇〇とも飲んで〜」みたいな話になり、「え!おれも呼んでよ!」というと「いや、お前〇〇たちとかとも仲良いから色んなところ誘われるでしょ」と言われた。 誘われてない!!!!!! 誰とも会ってない!!!!!!! このザマである。 そうなのだ。 さっきまで「俗世に興味ないのかっこいいと思ってる系」に見えたかも知れないけれど、違うんや。シンプルに大人になっても遊んでくれる交友関係の築き方をしてこなかっただけなんや。 そういう意味ではあの日言われた「お前は八方美人だ」といわれた理由が少しわかる気がする。 誰とでもフラットに話せる代わりに、誰とも深い仲にならない美人だと言われているのだ。 (よかった〜美人だった〜) まぁ、それはそれで楽なのでいいんですけどね。 はい、解決〜。 ってなるわけでもないけれど、やはり私としてはこの「八方美人」と言われたことは、それなりにすごいことだなぁと思う。我ながら。 出来たかも知れない大切な親友を失う代わりに、それなりにのほほんと生きる術が備わっているというのは、なかなか悪くない。 気づけば「八方美人」は「言われて嫌だった言葉」から「指針」のひとつとして考えられるようになっていた。 八方美人は生き方だ(ドンッ!!)。 たくさん友達がいるのも絶対楽しいし、家族や恋人とは違った楽しさが確実に存在しているはずだ。 けれど、人と緩やかに繋がりつつ、自分の時間を持つことが出来ている今の環境も大好きだ。家にいるのも好きだし。 人に合わせることは、大事だ。 同時に人と違うことを感じたり、その違うという気持ちを相手に伝えるということも、大事なのだ。 この物語の主人公は、クラスで「ぼっち」になることを恐れている少女。 本当は良い結果を残してきた実力テストにも本気で臨みたいし、今在籍(?)している一軍女子たちとの心の通わなさのようなものを感じている。 ただ目立つことも、ひとりぼっちになることも怖くて、ずっとモヤモヤとした感情を抱えたままで学校生活を送っている。 英文が自然に読めない。みんなの前でいい発音で音読するのが、なんだか恥ずかしい。 佐藤いつ子『透明なルール』p.29 実家には父親のレコードがあり、それを聴いて、歌ったりしているうちに主人公の英語のイントネーションは卓越したものになっていた。 けれど、「人にどう思われるか」が常に気になる主人公は英語の音読の時は周りに合わせて下手なイントネーションを使ってやり過ごしている。わかるぅ〜(わからない、発音がいいなんて羨ましい)。 「ね、萩野くん。あえて目立つようなこと、しない方がいいかもよ。いじられちゃうよ」 佐藤いつ子『透明なルール』p.35 主人公にとって、目立つということは死活問題だ。 けれど、それは学生時代だれもが感じ、悩みの種のひとつだったであろうことは想像に難くない。 周りを気にしてなかった私でも少なからず「八方美人」と言われたことにはダメージを負った。というか「周りは違うんだ」と思った。 「心ひとつって何それ。三十五人いれば、三十五通りの心があるんだから」 佐藤いつ子『透明なルール』p.78 急にこころ界隈のアンミカさん登場である。 体育祭のスローガンを決めているホームルームの最中に現れた不登校気味の転校生の登場により、主人公の常識は大きく覆される。 どうして、わたしは、素直に愛(著者注釈:転校生)のことが気になる、と言えないのだろう。 どうして、わたしは、愛の「三十五通りの心」に衝撃を受けた、と言えないのだろう。 どうして、みんなはどう思ったのか、と聞けないのだろう。 どうして、わたしは、瞳子(著者注釈:一軍女子)の考えることを、いつも先回りして予想しては、気をもんでいるのだろう。 どうして、どうして、どうして…。 佐藤いつ子『透明なルール』p.90 周りの同級生の主張も意に介すことなく振る舞うことができる転校生に、主人公は徐々に惹かれていく。 そして転校生の過去が告げられたとき、主人公は自分の中で作り上げていた「透明なルール」に気づくこととなる。 ひとりぼっちではいけない、中学生らしい行いをする、といった「透明なルール」から解き放たれることで、主人公は次第に周りが自分を受け入れてくれること、自分が周りを受け入れられるようになっていく。 これを読んだ私自身、自分に「透明なルール」を課していないか考えるきっかけになった。 ゲーム実況という活動をする中で「こういう言い方をしたら不快に思う人がいるかも知れない」とか「このやり方は良くないに決まっている」といった意固地な部分が出てくることもある。 もちろん前提として人を不快にさせないに越したことはないけれど、自分の気持ちを伝えたい場面では、しっかりと誤解なく伝えられるように努めてみたり、動画を見てくれている人のことを信じて発言してみようとか、そんなことを考えていた。 中学生の物語だったけれど、そんなことは関係なく、心のもやもやはいくつになったって抱えるもんだよなぁ、と10代の青春物語に触れて、10代の頃の自分を思い出したりして、面白おかしく悩んだり、考えたりしてたとさ。 ちなみに私の八方美人はネットではまったく機能しない。 SNSなどの顔が見えない人と話す方がよっぽど緊張する。 「気兼ねなく話しかけてください」と常に受け身な現在進行形の私であった。
    透明なルール
  • 2026年2月25日
    「書くこと」の哲学 ことばの再履修
    書き出しに迷ったので、とりあえず、「書き出しに迷った」と素直に書いてみることにした。 上の「書き出し」を書き出して、5分が経った。 なるほど、全然書き出せない。書き出したのに。 本を読み終えてすぐにnoteを開き、思ったこと、感じたことを書こうというモードに入ったにも関わらず、なんだかボケーっとしてしまう。 書きたいと思っているのに頭が空っぽになっていて、あ、今寝っ転がってるんですけど、スマホが重いなぁとか、部屋の明かりが眩しいなぁとか、そんなことばばかり考えてしまっている。 そもそも、書くことについて書かれた本の感想を書くということはとても難しいことなのかもしれない。確か前もこんな感じになったような気がするもの。 とてもややこしいことである。 書くことについてを書く人(著者)が、書くことについて悩んでいる人(読者)に向けて書いていて、それを読んだ私が書くことについて学び、学んだことを書こうとしている。 だからこの場合、自分とっての「書くこと」とはなにかを、私の頭の中で考えて、本の引用なんかも挟みながら書き進めていけばいいのではないだろうか。そうだ、そうしよう。 では、さっそく。 私にとっての「書くこと」とは、「視野」だと思っている。 うそです、いま考えました。 だけど、自分の中で腑に落ちた答えがこの「視野」だということを、今から、説明してみたいと思う。 これを読んでくれているあなたと、私自身にも。 そもそも書くことを始めたきっかけは、正確にいうと「本を読む」ことを始めたきっかけは、ゲーム実況をするにあたって、自分のゲームへの反応が一辺倒になりつつあるなぁと感じていたことにあった。 他のnoteでも書いたと思うけれど、実況動画を撮っていると、視聴者なら集中して見たいシーンでも、「ここは喋っておきたいぞ!」というところでお喋りを挟みたくなるタイミングがあったりする。 せっかく喋るのだから、芯を食っていたり、ちゃんとリアクションとして受け取ってもらえるものであったり、なによりそこのリアクションを楽しみにしてくれている人に伝わる表現をしたい、と思うようになったのが主なきっかけだ。 そこで本を読んで、感想を書く、せっかくなので日記も始めた、そういったことで少しでも表現力を高めよう、深めようと色々模索している。 そして書いていくうちに、今回のような「書くこと」について書かれている本を読んでいくうちに、これは「視野」を獲得、拡大するための下積みなのかもしれないな、と感じた。 ことばの使い方を学ぶこと、書くことを学ぶこと、言語表現を学ぶことの目的は、究極的には、自分が自分だからこそ書けることば、ある意味では自分にしか書けない文章を書けるようになることだと思います。 佐々木敦『「書くこと」の哲学-言葉の再履修』p.17 本を読むということが新たな「視野」の獲得となり、書くということは新たな「視野」の拡大に繋がる。 この自分で出した答えを持ち続けながら、読むこと、書くことを続けていけば、努力の先に、なんとか、自分にしかできない表現が見つけられるのではないだろうか。 自分の文章のクセをある程度客観的に把握して、他者たちの文章との望ましい差異化の武器として利用可能か吟味すること。 ○多様性に埋没してしまわぬよう懸命に振る舞うこと。 ○「自分のことば」を書けるようになるためにこそ、「他人のことば」を読むこと、それもできればたくさん読むことが肝要です。 佐々木敦『「書くこと」の哲学-言葉の再履修』p.87 本の感想を書いていると、結局この答えに行きつきがちになってしまうのだけど、やっぱり、とにかく、「他人の言葉」を自分の体に取り込んでいく方法が一番個性を出す方法なんだよなぁ、と感じる。 自分の個性を知る、ことも大切だけど同時に、相手の個性を知ることが自分の個性を知るひとつのきっかけとなるということである。 読みの円滑な流れを一瞬、止めるようなことばに出会ったら、そこを何度か読み返し、なぜ自分がそこが気になるのかを考えてみて、答えが出なくても、とりあえずそれを覚えておく。そこに生じた違和感は、その書き手の個性や才能を示していることもあれば、そうでなくても、そこにあなた自身の言語感覚が現れていることがある。 佐々木敦『「書くこと」の哲学-言葉の再履修』p.108 上記のようなものの見方を、この本でしっかりと学ぶことができたのが、私の中ではかなり大きかったように思う。 確かに本を読んでいると、どうしても読み進められなくなる瞬間が訪れることがある。 理解できないわけではない、けれど、ちょっと読みづらさを感じる、読み飛ばしたいのに、なぜか惹きつけられるような感覚。 そうか、私は書き手が生み出した「違和感」や「個性」を感じ取っていたのか、ということに気付かされたのだ。 またひとつ「視野」が拡大された。 しかし、相変わらず書くことは難しい。 だけど、出会った本、一冊一冊から、段々と、新しい視野を獲得することができている、なんなら今回の本を読み、考え、もうすでにこれまでの経験が少しずつ力に変わりつつあるのではないかと実感が湧いてきたようにも思う。 あらかじめ全体像を描くことなく、だが最後には必ずや全体像が出現するのだ/させるのだという、もしかしたらいささか闇雲かもしれない確信(?)を胸に、とにかく書き進めていく。 佐々木敦『「書くこと」の哲学-言葉の再履修』p.207 今やっているゲーム実況の活動においても、書くことにおいても、未だ全体像、自分の中のゴールはまったくもって見えていない。 けれど、なんとかなる、なんとかする、という気持ちで臨みたい、臨み続けたい。 自分にとっての「書くこと」と「ゲーム実況をすること」は密接に関わり合っていて、もしかしたら同時にゴールできたりしちゃったりするのかもしれない。 そうなってくれたら、今日ここで頑張って文章を書いてた私を、めちゃくちゃ褒めてあげたいのである。
    「書くこと」の哲学 ことばの再履修
  • 2026年2月24日
    アリアドネの声
    「諦めたらそこで試合終了ですよ」 このセリフはマンガ『SLAM DUNK』でバスケットボール部の監督をしている安西先生の言葉である。 このセリフは気を抜くとどこからともなくやってくる。 学校や会社、SNSやビジネス書、安西先生は色々な場面で「諦めたらそこで試合終了ですよ」と発言しているのだ。 講演だったら年間にどれくらい稼げるのだろうか。 コメンテーターとしてテレビに呼ばれるときには名前の上に「諦めたらそこで試合終了ですよ」が空前の大ヒット!とか書かれるのだろうか。 そんな「諦めたらそこで試合終了ですよ」教徒の方々にこの本を送ります。 井上真偽さんの『アリアドネの声』です。 この小説の中では「無理だと思ったら、そこが限界なんだ」というセリフが繰り返し使われる。 ある日、とある計画で作られた地下都市に巨大地震が襲う。 その地下には目が見えない、耳も聞こえない、話すこともできない、三つの障害を抱えた女性が遭難している。 その女性を主人公の会社で取り扱っているドローンでなんとか救出するというお話だ。 え〜!無理だよ〜!な展開が、鬼畜かというほどに続くこの小説のジャンルはミステリなのだ。 著者は「探偵が早すぎる」や「その可能性はすでに考えた」の井上真偽さんなのでミステリなことに違和感は感じないけれど、災害もの、女性を誘導して脱出させるといういわゆる脱出もの、などの特徴からはミステリなのか?という疑問を持ちつつ読み始めたけれど、読み終わる頃にはこういうミステリもアリなのか、と思った。 主人公は女性の救出を通して、自分の過去と重ね合わせて、とある答えを導き出す。 俺はやっぱり、人間に「限界」はないとおもうよ。 だって人間には、本当に何が「無理」かも、想像できないのだから。 井上真偽『アリアドネの声』p.297 見えなくても、聞こえなくても、話せなくても、希望を胸に、前に進み続ける姿は、今頑張っている誰かの背中を押してくれる。 とにかく自分ができることを、できる範囲でやるのだ。 「無理だと思ったら、そこが限界なんだ」 安西先生のセリフとも同じようで、また違う。 このセリフを読んだとき、あなたはどのように受け取っただろうか。 その答えは小説の中に、そして、あなたの頭と、心の中に。
    アリアドネの声
  • 2026年2月23日
    自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学
    ゲームの中には自分に合った“難易度”を選択して遊べるものがある。 それは、「EASY」「NORMAL」「HARD」とか、「やさしい」「ふつう」「むずかしい」とか、「赤鬼」「妖鬼妃」「さくま鉄人」などのことである。 私は基本的に「NORMAL」を選択して遊ぶことが多い。 ノーマルと言われているくらいなのだから、制作者的に一般のゲームユーザーが遊ぶにはこれくらいで候、と決めてくれているのだろうし選ばない手はない。 しかし、我々が生きるこの世界はどうだろうか。 学校や会社では閉塞的な人間関係に疲れ、SNSのさまざまな意見に疲れ、繰り返すだけの毎日に疲れ、疲れすぎである。 人生の難易度設定は「HARD」である。 なぜだ。 初期値が「HARD」のゲームなんて認められない。そんなのクソゲーだ。「NORMAL」だ、「NORMAL」を連れて参れ。「EASY」でもよい、自動的に金が口座に振り込まれればなおよい。 そんな「メンタル戦国時代」の真っ只中にいる私たちはふと「虚無」を感じる。 がんばりたいのにがんばれない、もうどうでもいいや、なにもしたくない、なんの意味もない、そんなの関係ねぇ。 部屋でボーッとしてても時間は止まらない、残酷にも進み続けている。 だから、動かなくてはいけない。 けれど、頭と体のどっちかがいうことを聞かない。 そうなってしまったのなら、ようこそそこは「虚無の世界」だ。 「虚無の世界」にやってきてしまったあなたは、どうやってここから抜け出せばいいのだろうか。 そんなときは東洋哲学に手を出してみよう。 東洋哲学はインド、中国、日本などで産まれたもので、基本的には「どう生きればいいか」というのがテーマらしく、「答えがない」といわれがちな哲学だけれど、東洋哲学に関してはしっかりとした「答え」もある。 例えばインド哲学の有名人といえばブッダである。 ブッダは王子だし、めちゃくちゃお金持ってるし、頭もいいときてる。 なんか、顔もいいらしい。 全てにおいて恵まれていたはずのブッダですら、その実、半端じゃない虚無感に襲われていたという。 王子とはいうてもただの「恵まれた無職」だったブッダは「この人生にはなんの意味があるんだ?」「本当の自分ってなんだ?」みたいなことばかりを考えていた。 考えまくった挙句にブッダが取った行動とは「出家」である。 王子が家出して「出家」である。 「恵まれ無職」から「ホームレス」へと華麗なジョブチェンジを遂げたブッダは自分探しの旅をするために修行をしまくった。 中には「トゲで作ったベッドで寝る」とか「めちゃくちゃ髪の毛をむしりとる」とか「めちゃくちゃ息を止める」などといった体張りYouTuberのような修業すら存在している。 そんな苦行を6年間続けたブッダはふとこう思った「これ、もしかして意味ないんじゃね…?」と。 そのとき出会ったスジャータという女性におかゆをご馳走してもらったブッダは、回り始めた頭脳からある答えを導き出す。 それが「無我」だ。 それは「自分」とはただの「妄想」で、本当は、この世界は全て繋がっている。などと供述。 自分も、世界も、変わり続けていっているのに「自分を探す」なんて無茶をまだいってるんですか?といった話なのである。 そんなん苦しいに決まってるじゃん、と。 この「無我」が巡り巡って色々な考え方につながっていくのだが、そこは本書を読んでいただいて。 東洋哲学齧りたての私にはまだ噛み砕けていない部分が多いけれど、何よりも読み物として、この本はめちゃくちゃ面白いのだ。 著者であるしんめいPさんは東大卒で、有名企業にも所属したりしていたのにも関わらずチームプレイができずに退職。学生時代に先生から面白いと言われたことを思い出し、芸人を目指すも、自分が全く面白くないことに気づき、それも辞め。その後、実家に戻り子供部屋おじさんをしていたという。その間に離婚もしていたらしい。 なんて赤裸々な文章なんだ。 そんなしんめいPさんを救った東洋哲学、興味ありまくりである。 おかげさまでとても興味が湧いたので、別の東洋哲学の本もしっかり読み込んで、この本に戻ってきたいなぁ。 個人的には「インドの論破王」としんめいPさんが言っていた「龍樹(りゅうじゅ)」という人が気になっている。 初めての「推し」哲学者ができたかも。
    自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学
  • 2026年2月22日
    乳と卵
    乳と卵
    学校で自分の体について教えてもらったのは、なんの授業だったか。 理科なのか、保健だったのか、そのどちらでもだったのか。 体が痛くなると焦ったように柑橘類を食べてみたり、陽にあたってみたり、いつもよりも長めにお風呂に浸かったり、肩をぐるぐる回してみたり、目を瞑ってみたり、うがい薬を使ってうがいをしたりしてみる。 痛くなるたびに、体と向き合おう、次は気をつけようと思っているのに、何ヶ月後には忘れていて、また同じ箇所を痛めていたりする。 この時、心と体は乖離している。 『乳と卵』は大阪から上京してきたホステスの母親と、言葉を発することを拒絶する娘を中心に物語が進んでいく。 母親は豊胸手術を受けることに取り憑かれており、しかしなぜ手術を受けたいのかという理由までは明かされない。明かされないけれど、夜の商売をしていることであったり、娘を産んだあとに小さくなってしまった胸について思うところがあったり、体ががりがりに痩せていってしまっていたり、思い当たる節はあるけれど、そのどれでもない可能性すらある。 話すことを拒絶する娘は会話をする際はノートにペンを走らせて筆談する。会話する時は小さいノート、日記を書く時は普通のノートだ。 日記にはこれから自分に起こる、生理について、卵子について、子どもについて、頭の中を整理するように書かれている。 わからないことが、わからない。わからないことへの不安。 そして母娘ともに、相手に対して不安を抱えている。 なぜ言葉を発しないのか、なぜ胸を大きくしたいのか。 二人の不安が解消されないのは、二人ともその不安の答えを持っていないからだ。 想いが溢れてしまうそのギリギリまで、母娘は不安になり、不満を抱える。 『乳と卵』は110ページくらいしかないのに、あまりにも濃い時間が流れていた。
    乳と卵
  • 2026年2月21日
    作家で食っていく方法
    頑張らない人が増えている世の中だからこそ、自分を自分で追い込める人のすぐ側にチャンスが転がっていますし、多くの人を追い抜くことができます。 今村翔吾『作家で食っていく方法』p.52 ほんまですか今村さん、信じていいんですか…! どうも、YouTubeでゲーム実況をやっている者です。お金が好きです。 ゲーム実況を毎日のようにやっている。 撮ったあとはもちろん編集作業があるのだけれど、この時間がとても苦手だ。 編集自体が苦手なわけじゃない。 その理由は私の「ボキャブラリーのなさ」をひしひし実感する時間だからである。 衝撃的な展開を迎えれば「マジかよ!」と言い、登場人物に共感するシーンがあれば「ほんとよねぇ…」と言っている。 まぁゲームのムービーシーンを見ている以上、余計なことは喋らないでほしいという意見も世の中にはある。 けれど、やっぱり喋りたくなってしまうし、それが自分らしさであるならばどんどん自分の音声を使いたくなってしまう(最悪マイクの音声を消すことはできるので、流石に邪魔すぎておれも嫌、と思うときは音声バーを下げることもある)。 ただ、せっかく本来喋らなくてもいいところで自分のお気持ちを表明しているわけなので、さすがにそこのコメント部分は芯を食ったことであったり、誰かの気持ちを動かすようなことを言いたい。 それなのに私の動画では「マジかよ!」「うわぁ〜」「いたぁぁぁあい!!」「ふぃ〜(煽)」「死ねぇぇえ!!!!!」が跳梁跋扈しているではないか。 あと、なんかすごい痛そうなゲームである。 そんなこんなでボキャブラリーを増やそうと思いたち、去年の12月ごろから毎日一冊以上本を読むようになった。 現状あまり変わったかどうかは自分でも定かではないが、動画冒頭の「前回こんなことがありまして〜」という説明は以前よりも上手くなった気がする。やったね♪ しかし、まだ足りない。 どうすれば誰かの足(耳)を止める表現ができるのか。 そこで『作家で食っていく方法』という本と出会った。 作者はNetflixで実写ドラマ化もされた『イクサガミ』を書いた今村翔吾さん。 タイトルの通り、作家で食っていくためにはどんな心構えが必要か、実際本を出したときの収益はいかほどなのか、ということがふんだんに盛り込まれた作家のリアルを知ることができる一冊だ。 帯には「全クリエイター必読‼︎」と書かれており「あれ?おれっちも呼ばれてる?」と感じ、あれよあれよという間にレジに突き出していたのである。 そして、冒頭の「頑張らない人が増えている」という一節と出会ってしまったのである。 なんて甘美で、運命的な言葉なのだろう。 この一節が実在する女性だったのであれば今すぐにLINEを交換して、食事に誘い、何回目かのデートには告白してお付き合いしたい。結婚まで見据える勢いである。 頑張らない人…多いんですか…?(チラッ) そういったって、ある意味私もその一角を担っているようにも思う。 自分がいくら努力を重ねていても、それ以上に頑張っている人がいて、今以上の頑張り、というものがなかなか想像できない。 しかしこの本を読んだあとは、いかに自分はこれまでに努力することを、努力してこなかったのか、ということに気付かされた。 まずはトレーニングをしていない。 (作家になるために)必要なことはたった一つ。読書量です。多読、乱読、とにかく数を読む。浴びるほど読んでください。(略)読んで得られるものがゼロの本はありません。 今村翔吾『作家で食っていく方法』p.19 当然読書量に関しては、私自身まだまだ足りないと感じている。 けれど分かっていながらも、「いつまで読み続ければ結果が実を結ぶのだろうか」なんてことを考えてしまうため、この文章に救われたような気持ちになった。 そうだよな、とにかく読むしかねぇ。 ゲーム実況も、とにかくやるしかねぇ。 新しいことに、どんどん挑戦していくしかねぇ。 「この本はどうしてヒットしたんだろう」「この作者はどうやってこの物語を思いついたのだろう」と、なぜを考え抜くこと自体に意味があります。 今村翔吾『作家で食っていく方法』p.20 そしてなにより、分析である。 自分で活動を始めてから、なかなか自分以外のゲーム実況を見る機会が減ってしまったように思う。 本来、ゲーム実況が好きだから始めたはずなのに、忙しさにかまけて見なくなってしまうのよねぇ。 自分もゲーム実況をやるようになったのだから、競合調査によって新たな扉が開かれるかもしれない。 これからはそんなドキドキとワクワクを持って、ゲーム実況を楽しむことができそうだ。 それと「目に映るものを全て文章化する」というトレーニングも少しだけやってみた。 なるほど、部屋の中にあるものを書き出すだけでも、普段そこに置いた覚えがなかったものが目につくようになったり、目の付け所を強化していくにはもってこいのトレーニングだと感じた。 もちろん、ここで書いているような読書感想文や、いつかエッセイも書きたいと思っているので、文章力の向上にも効果がありそうである。 作家でも、ゲーム実況でも、やはりクリエイターとして食っていくということのゴールは似ていたりする。 クリエイターであろうが、社会人的な常識、マナー、コミュニケーション能力は必須だし、ひとりだけでは成し得ない結果がある。 まだまだクリエイターなんて呼べるほどの実力があるとは到底思えていないけれど、YouTubeは収益化していて、お金をもらっている以上、見てくれる人を楽しませたい。 そのための弛まぬ努力は怠ってはいけないと、改めて身を引き締め直すことができた。 いつか自分の努力が実を結ぶまで、正解になるまで、今後も努力を続けていこう。 今頑張ってる人、みんな、今すぐ手を抜いてくれ。 おれがそこを出し抜く。マジでお願い。
    作家で食っていく方法
  • 2026年2月20日
    WHYから始めよ!
    WHYから始めよ!
    私は疑問の立て方を学ぼうとこの本を買ったはずだった。 『WHYから始めよ!』を書店で見つけたとき、自分の悩みが晴れるかもしれない。そんなことを思った。 悩みというのは、文章を書くとき、問題提起が苦手かもしれない、と思ったからである。 日記や、読書感想などは、元になっている記憶や書籍があるため、比較的文章を書くことにそれほど苦労はしない。 しかし、いざ小説やエッセイを書こうと思うと、なかなか筆が進まない。指のタプタプがしない。 いろんな要因があると思うけれど、ひとまず私はそれを、疑問の立て方が分からないのかもしれない、と仮定した。 「どうして海は青いのか」とか「なぜ火は燃えるのか」とか「なんで私のお父さんは分からずやなのか」と疑問をパート・オブ・ユア・ワールドすることが今の私に足りないものなのではないか、そんなふうに考えたため、この本を購入した。 ただ、ここで問題が発生する。 中身を読み進めていくうちに、どうにもこうにも、疑問の立て方的な内容の話が見えてこない。 「あれれ〜?」と思って読んでいたけれど、どうやらこの本はいわゆる「リーダー論」の本であることに気づいた。 なんなら表紙の副題が「インスパイア型リーダーはここが違う」と書かれていた。 めっちゃリーダーの本だった。 TOKIOなら城島茂で、嵐なら大野智で、『ミッキーマウスマーチ』ならミッキーである。 しまった、社会に出ていないフリーター風情の私がリーダー論の本なんか買ってしまった、これが職場に知れ渡ったら「こいつ我が社に対して反逆を企てているに違いない、殺せ」と言われ、翌日には海に沈められ、それをアリエルに救われ、なんかんやあって、真実の愛を育みハッピーエンドを迎えてしまうかもしれない。ハッピーエンドならまぁいいか。 勢いで買ってしまったリーダー本に後悔しながらも、せっかくだし…という思いで引き続き読み進めていった。 いや…?これ普通に面白くないか? 人々はあなたのWHATを買うのではない。あなたがそれをしているWHYを買うのだから。 サイモン・シネック(訳:栗木さつき) 『WHYから始めよ!』 p.50 急に英単語が出てきてしまったけれど私の正体がルー大柴だったわけではない。 この本では「WHY(大義、理想)」、「HOW(手法)」、「WHAT(成果)」という言葉が過剰摂取気味に登場する。 これを踏まえて上記の引用部分を自分なりに解釈すると、 人が商品を買うとき、素敵な機能やかっこいい見た目などで決めるのではなくて、その商品がどのような大義、理想を持って生まれたのか、で選ぶ。 知らない人はいないであろうアップルも、アップルの製品がとにかく素晴らしいから購入するのではなくて、スティーブ・ジョブズという天才の理想に惹かれて商品をカルト的に購入するのではないか。 そういったジョブズのようなリーダーたちは常に自分にとっての「WHY(大義、理想)」を貫き続けている。 というのがこの本の主張だ。 アップルは目的をもった会社だった ーー既存の権力に対抗する力を個人に与えるという目的を。 サイモン・シネック(訳:栗木さつき) 『WHYから始めよ!』 p.243 商品で例えたけれど、これは人に対しても同じことがいえる。 社員たちはそんな優れたリーダーの理想に惹かれて着いていくことを決める。 その理想についていけば絶対に安心、という気持ちを社員たちは持ち続けながら働くことができるのだ。 逆で考えてみても分かりやすいかもしれない。 ろくな理想も持たず、お金を稼ぐことや、保身のことしか考えていない。 他の店が値下げをすれば自分の店は更に値下げし、他社製品がヒットすれば同じような商品のマイナーチェンジを出すだけの上司。 社員は、そういった上司のもとで働きたいと思えるのだろうか。 確固たる「WHY」は人々にインスパイア(鼓舞)を与える。 優れたリーダーを信じるということは、ある種の信仰だ。 しかし、自分が世の中のためになることを出来ているという実感を持って働けるというのはなんて幸せなことなんだろう、とも思う。 この人についていきたいと思える相手がいることは確かにカルトともいえるけれど、自分は鼓舞されている、心の底からやる気がみなぎってくる、自分から動きたい気持ちにさせてくれる。 結論、私自身が学びたかった「疑問を構築する方法」は分からなかったけれど、「WHY」、つまり問いは信念に近いものだということが学べてよかったと思っている。 私は根本的に、自分のコンテンツを見てくれた人に笑って欲しいと思っている。 YouTubeでのゲーム実況も、この感想文も。 なにより、自分が楽しい、面白いと思えるコンテンツを、お客さんに楽しんで欲しいと思う。 期待とは違っていた出会いから、まさかの学びを感じることができた読書体験、なんかいい日になりましたな。
    WHYから始めよ!
  • 2026年2月19日
    すべて真夜中の恋人たち
    “時間が溶ける”という表現を耳にするようになったのはいつからだろう。 時間の溶け方を想像する。 冷蔵庫から取り出した氷のように、ゆっくりと、汗をかくように、だんだんとその身を小さくしていくのだろうか。 もしくは、火をかけたフライパンに砂糖を入れて、それが焦げると、茶色くなって別もののようになってしまうあれだろうか。 時間が溶ける。 サルバドール・ダリが描いた『記憶の固執』を思い出す。 「柔らかい時計」や「溶ける時計」ともいわれるこの作品は、ぐにゃぐにゃになった時計が描かれていて、ダリはこの絵に、死への恐怖や関心、硬さと柔らかさ、夢と現実の境界などのテーマを組み込んでいたらしい。 『すべて真夜中の恋人たち』を読み終えたあと、時間の溶かし方について考えた。 一般的にはパチンコや、スマートフォンでのゲームなどに触れる際に「時間が溶ける」といった表現を用いることが多いように感じるけれど、人は常に、時間を溶かしながら生きている。 仕事に打ち込む時間、本を読む時間、買い物に行く時間、子育ての時間、遊園地でアトラクションに並んでいる時間、カフェで友人と語り合う時間、好きな人といる時間、好きな人のことを考える時間。 それらの溶け方は、皆同じだろうか。 きっと人それぞれ違う。 氷のようにゆっくり、砂糖のように素早く、パスタを茹でる前に入れる塩のようにだんだんとざらつきをなくしたり、熱されたバターのようにジュクジュクと、早さも、溶け方も、それぞれ違う。 選んだ時間、選ばなかった時間、選んだ人の中で流れる時間、選ばなかった人の中で流れる時間。 成長や、個性という一括りにすることは可能だけれど、そう簡単に、自分の溶け方を変えることはできないのだと、そう感じた。 時間をかけて、私たちは今日も、私たちを溶かしていく。 それは、長い長い時間をかけて、命が尽きるその瞬間までに、色んな形を形成していく。 環境が変わって、溶け方が、変わる人もいるかもしれない。 どうにかこうにか折り合いをつけるけれど、それはまたそのときの話。 この読書体験が“時間を溶かした”ことのひとつだとするならば、とても最高なお湯加減だった。
    すべて真夜中の恋人たち
  • 2026年2月18日
    さみしい夜にはペンを持て
    「届け」と願いながら、今日も文章を書いてます。 なんてわかりやすく、なんて難しいのだろう、と思わせてくれる本に時々出会う。 この本もそうだ。 難しい言葉は使っていないし、ぷっくらと丸みをおびたタコやクラゲや泡のイラストが可愛らしいし、今知りたいことを教えてくれる実用書かと思えばタコの主人公とヤドカリのおじさんによる物語が展開されている。 この本をジャンル分けすることは難しい。 けれど読み終われば、そんなことはする必要ないということに気付かされる。 主人公の繰り返す苦悩と思考の旅を通じて、私たちは「私自信」を知る大冒険に出るのだ。 「日記を書くのはね、自分という名のダンジョンを冒険することなんだ」 古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』p.103 日記は基本的に誰かに見せるものではなく、自分が自分のために書くものである。 けれど、私は「なんのために書くのか」というところには意外と意識がいってなかったように思う。 記録として、記憶として、なんとなくの気持ちで書いていることが多い。なんならnoteに日記を書いているので、どちらかというと自分について深く考察するためのものではないとも言える。この場合、先ほど書いた「基本的に」の「基本的に」はまっていないのがとてもアウトローである。 「自分という名のダンジョン」を冒険する。 この例えはかなり好きだ。 私自信ゲームをするので、こういう置き換えで考えるととても分かりやすい。 ダンジョンと一括りにいっても、その内部にはさまざまな要素がある。 まずは敵だ。 これはきっと自分にとっての「悩み」や「悲しかったこと」「嫌いなアイツ」などに該当するだろう。敵をどう攻略するか、急所はどこなのか、ポケモンで言えばむしろ捕まえてみようか?そんなことが考えられる。 次に宝箱だ。 宝箱は見つけたら嬉しい。その中身は「やくそう」かもしれないし「武器」や「防具」もありえる。 ちょっとだけ嬉しかったこと、とても嬉しかったこと、後々に重要になりそうなもの。 ダンジョンには欠かせない要素のひとつだ。 宝箱の中には「カギ」が入っているかもしれない。 カギを使って、新しい扉を開く。 そこにはまだ見たことのない敵や、宝箱がまた配置されている。 そこは新しい場所だ。 深く潜っていくことで、次の扉を開いたり、下の階層、上の階層、進んだり、取り逃がしがあると感じれば戻ることもあるかもしれない。 これらを踏まえると思考を深めていく行為は、文字通り「ダンジョン探索」という例えと密接に関わっているのだと感じる。 記憶が曖昧なときには、いきなり『全体』を思い出そうとしないほうがいい。限定されたシチュエーションを、細かく思い出す。そうすると前後の記憶もよみがえる。 古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』p.124 1日というだだっ広いダンジョンを、ときに細かく、ときに俯瞰して探索していく。 取り逃がした宝箱や、その部屋にしか現れないレアなモンスター、物語を深めていくためのヒントが隠されていたりするかもしれない。 毎日ダンジョン探索を続けていると、他の旅人に出会ったりもする。 話してみて、「イイ人だなぁ」と思うこともあれば「いやな奴だ」と感じることもあるだろう。 その度に考える。 どこが「イイ人」で「いやな奴」なのか。 それを深く考えることで、自分も誰かに優しくできたり、誰かを傷つけないようにできたり、誰かと衝突せずに分かり合える日が来るかもしれない。 ここまで書いた文章は、これを読んでくれる誰かに向けて書かれたものだ。 けれど、これを読む、自分に書いたものでもある。 もし道に迷ったとき、この本を読んだことを思いだして、自分のこの感想文を読み直すかもしれない。 そうかこんなこと考えて書いてたよな、とそのときの自分が安心できたなら、しっかりとここに書いた想いが届いたということなのだろう。 自分の思ったことを書いてたら、息切れのような感覚になってきた。 だけど、今はそれがとても気持ちいい。
    さみしい夜にはペンを持て
  • 2026年2月17日
    本をすすめる
    本をすすめる
    人になにかを薦めようと思ったことがなかった。 誰からも理解されない、と思っていたわけじゃない。 誰かに理解して貰える言葉が、私にはないと、そう思っていた。 『本をすすめる』というタイトルが目についたのはやはり、自信のない自分への後ろめたさが働いていたのかもしれない。 好きなアニメ、好きなゲーム、好きな小説、好きなテレビ番組、たくさんあるけれど、人にその良さを伝えようとするとうまく言葉にすることができなくなってしまう。 自分にはいくらしつこくしてもいいんですよ。粘着してかまわない。「なんでこの本をいいと思っちゃったんだろう」という疑問を、掘り下げる。みんな、あっさりしすぎてると思う。 近藤康太郎『本をすすめる』p.43 そうか、私は、私自信の「好き」という気持ちを掘り下げず、置いてけぼりにしていたのだ。 小学生・中学生の頃はアニメ(特に深夜アニメ)を見ていると「オタク」と形容されることが、まるで恥ずべき存在のような扱いを受けることがあった。 今でこそオタクはポジティブな意味合いで捉えられることが増えてきた。 オタクといえば作品・アイドルについての専門的知識を豊富に蓄えている人物であり、「推し活」という言葉が出てきてからはオタクは立派な趣味を持っている人であり、公演グッズを大量に購入すれば社会的にはちゃんと経済を回している人にだってなれる。 しかし、以前は影で「あいつオタクらしいよ」「オタクってキモいよね」なんて囁かれていた時代もあったのだ。 とにかく陰口を言われないように、自分の想いに蓋をして、言葉にせず生きてきたためか、気づけば、自分の気持ちを言葉にするのが苦手になっていた。 まぁ、他にも思い返せばいくらでも原因はあるだろうし、シンプルに努力不足ともいえる。 そのツケが今、回ってきた、ただそれだけだ。 ツケが回ったきたのなら仕方がない。 勉強あるのみである。 なにかをかっこいいと思うセンスがすごく大事。かっこいいと思うことに、あまり理由ってない。 近藤康太郎『本をすすめる』 p.131 『龍が如く』のようなハードボイルドな内容のゲームをしていると、男たちの信念、野望、生き様がコントローラーを通して、目と耳を通して直に伝わってくる。 なぜ、今までそのかっこいいを、記録したり、記憶してこなかったのだろうか。 この時点で怠惰である、終いじゃ終い。 その時その時で、ブワァっと鳥肌が立つような瞬間に立ち会えているのに、どうも、私は、私の感覚を蔑ろにしてしまいがちである。 ロックバンドのRADWIMPSが『愛にできることはまだあるかい』でこう歌っている。 何もない僕たちに なぜ夢を見させたか 終わりある人生に なぜ希望を持たせたか なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい それとも、きれいかい RADWIMPS『愛にできることはまだあるかい』 私たちが目標に向かって立ち上がるとき、ままならない現実が次から次へと押し寄せてくる。 やりたいこと、好きなこと、諦めたくないこと、愛していること。 呑まれて消えてしまいそうな想いを強くその手に握りしめて、抗い、しがみつく。 本をすすめる、という話からかなり飛躍してしまったように感じるけれど、人に愛を伝えるということは、これだけ、自分の中に壮大な物語を紡ぎ出すことなのではないかと、この本を読んで、そう感じた。 残り数ページ、私の頭の中は「書きたい」という熱でいっぱいになっていた。 ※noteで書いたので引用部分が分かりづらくなってます🙇‍♂️
    本をすすめる
  • 2026年2月16日
    時をかけるゆとり
    『何者』『霧島、部活やめるってよ』などを書いた朝井リョウさんによるエッセイ。 正直に言って、ここ何日かゲーム実況が立て込んでおり、この本を読んでいるタイミングが一番「脳がシエスタをかましています」という状況にあった。 僕の脳がスペイン旅行をしているため、「内容が頭に入ってこ“ないよう”」というクソつまらないことしか考えることができない状況にも関わらず、気づけばずっと「へへへ」と笑っている自分に気づいた。 それがこのエッセイの凄いところである。 帯には「頭を使わず読めるエッセイ」と書かれており、たしかに何も考えずに読んでいるうちに、なんか口元が緩んでんな、おれ…笑えたのか…?と笑うという感情を久しく忘れていた主人公のような感想を覚え、気づけば本を読み終えていた。 朝井リョウさんの学生時代、めちゃくちゃ楽しそうである。 めちゃくちゃ歩いたり、めちゃくちゃチャリを漕いだり、お腹が緩くなったり、ピンク映画を見たり、カットモデルをやったり、痔になったり。 ちょこちょことお尻関連の話題が「あれ?お前さっきもいたよな?」という風に登場することがあるのだけど、お腹が緩いのも、お尻が痛いのも、人間の本質である。純文学といってもいい。 YouTubeの動画などでもお見かけすることが多い、朝井リョウさんだけど、見るたびに明るい方だなぁと思っていたら、エッセイの文章までもが明るくて、キラキラうきうきしていて、楽しい。 人を楽しませるには、自分も楽しむことが大切なんだなと改めて思わされる一冊でございました。 次は俺の脳がちゃんと来日してるときに読みたい。 来日したらちゃんと言っときます。
    時をかけるゆとり
  • 2026年2月15日
    裸足で逃げる
    裸足で逃げる
    今、僕の頭の中で、見たことも、会ったことも、顔も知らない人たちの記憶と記録が、焼きついて離れない。 沖縄のキャバクラで働く女性を対象に行われた調査が書かれたこの本は、感情のおきどころを探すのが難しい。 歳若くしての出産、家族や旦那からのDV、レイプ、援助交際、自分の脳の中にある現実を受け入れるための扉がまだ開かれることなく、僕はその扉の内側で浅い呼吸を素早く繰り返している。 そう、僕が、僕自身が内側にいる。 内側にいれば、あらゆることがらから、目を逸らしていいと、この期に及んで、まだそう思っているということに、嫌悪感を抱く。 先日『半うつ(著・平光源、SUNMARK)』という本を本をテーブルに置いておいたら、母親に心配された。 そして「あんた大丈夫?」と声をかけてくれた。 確かにここ最近、シフトに入っていないときは、ずっとゲーム実況を撮るか、本を読むか、もしくは文章を書いているか、という生活をしていたので、「こいつ、何かを抱えているのでは…」と思われてもおかしくない状況ではあった。 しかし、当の本人は現状、鬱のような症状は実感しておらず、ゲーム実況も、本を読むことも、文章を書くことも、ある意味でのストレス発散になっているので、脳はむしろイキイキとしているように思う。 けれど、心配させてしまっている時点で自らが変な生活をしていることに自覚を持たなくてはいけないし、そもそも誰の目にもつくような場所にうつの本を置くべきではなかったのかもしれない。 けれど、こうも思う。 「うつの本を見て、怯えてしまうのはどうなのか」 何度も書くけれど、母が不安に思う気持ちも、もちろん分かる。 だけど、僕が本を買ったのは「うつ」について知りたいと思ったからだ。 僕はこの「怖いままにしておく」という思考こそが、とても怖いと感じている。 知ることで、見なくもいいものを見てしまうこともあるだろう。 知ることで、無視できなくなることも出てくるだろう。 考えが変わることで、昨日まで友達だった人と、気軽におしゃべりができなくなるかもしれないだろう。 でも、知らなくてはいけない。 読み終えたとき、その気持ちはより一層強くなる。 この本に出てくるような女性たちを救えるような立場に、今自分がいるとは到底思えない。未だに僕は内側で閉じこもっているだけなのだから、自分のことすらも、ままならないのだから。 だけど、少しずつ、知っていくことができるはずだ。 他人を、自分を、傷つけてしまうかもしれない機会を、一つ、減らせるかもしれないということだ。 誰かの傷を和らげたり、軽くしたい、なんて大それたことはまだ出来ない。 でも、一緒に笑ったり、泣いたり、喧嘩もするけど、仲直りしたり、そういうことはできるかもしれない。 他人を知るということは、自分知ることだと、改めて思う。 今日も、この世のどこかで、誰かが笑ったり、泣いたりしている。 それらはドラマじゃない、確かな現実だ。 その現実が存在していることを、胸の中で確かめながら、今日も、今日を生きている。
    裸足で逃げる
  • 2026年2月14日
    先生はえらい
    人の話を聞いていたり、本を読んでいたりすると、スラスラと頭に入り込んでくるときと、まったく頭に入ってこないときがあるなぁ、とぼんやり考える。 当然、自分があまり知らない事柄について話していたり、哲学書や専門書などを読んでいたり、内容に興味がない場合や、そのもの自体が難しいだけということもあるのかもしれない。 けれど、不思議と、そういう興味がなさそうな話、難しい内容の本、なのにも関わらず、うまく人に伝えることが上手な人と、時々出会う。 そうなると僕は、もうそれを書いた人、その話をしてくれた人のことが好きになってしまう。 内田樹さんの『先生はえらい』を読んで、なおさら、この自分が「好きになる人」について頭を巡らせた。 憧れとも言えるし、自分の知らない知識を持っている先生とも言えるし、学問ということから離れた人間的な魅力を放っている人のことは師匠とお呼びしたいほどである。 個人的にはアウトプットができる人であったり、人の話を静かに聞いてあげてからほんの少し自分の話を入れてくるようなバランスの人を見るとうっとりしてしまう。 なんでこんなにたくさんのインプットを活かすことができるのだろうとか、おれならすぐ喋っちゃうのにこんなに人の話聞いてくれててすごい!えらい!と感動する。 しかし、それは僕自身が勝手に憧れを抱いたり、この人すごい!という感想を抱いているだけで、本人は意識してやっているわけでもないのかもしれない(それが一番すげぇなって思ってしまうけれど)。 逆に、こんな僕をすごいと思ってくれる人もいるかもしれないし、言ってもらったこともある(えへへ)。 僕たちは、学びたい、という意思さえあれば、常に学ぶという姿勢に入ることができる。 何かを伝えようとしていない人から、何かを感じ取ることができる。 この人とは関わらないでいいや、という自分の精神を守るための逃避ももちろん大切なことだけれど、なんでこの人のココが嫌なんだ、自分にできないアレはできるのにこの人はコレを遂行しようとしないのはなぜなんだ、ということは日々溢れている。 常に周りから何かを感じとる、教えてもらうという姿勢で臨んでみる。 そういった積み重ねが、自分を一歩ずつ成長させる糧になるのかなと感じさせてくれる一冊でした。 内田樹先生の本、ほんまに面白い。
    先生はえらい
  • 2026年2月13日
    半うつ 憂鬱以上、うつ未満
    これまで、努力をしたことがなかった。 もちろん少なからず、部活動だったり、試験勉強であったり、受験勉強だったり、学生なりの努力はあったかもしれないけれど、それは限りなく、強制力が働いた、「やらなくちゃいけないこと」だからやっているという感覚があった。 自分に対して努力コンプレックスのようなものを感じさせている主な要因は、多分、就職活動を全くしなかったことにあると思う。 それも、何か目的があるわけでもなく、なんとなく、しなかった。 そして、卒業してからは自分に合った仕事を探してみようと、いろんな種類のアルバイトをした。 結果、長くは続くけれど、就職してまでやりたい事なのか、という結論に至ってしまい、未だに、定職というものに就けたことはない。 とあるタイミングからゲーム実況を始めた。 これにはかなり高いモチベーションを獲得することができた。つまり、めちゃくちゃハマった。 と、言っても再生回数がドカーンと回っているわけでも、チャンネル登録者数があっという間に10000人に…!というわけでもない。 細々とした活動だけど、現在は2500人以上の方にチャンネル登録してもらっているし、ごく稀に投げ銭もいただけるようになってきた。 この活動を、ずっと続けていきたい。 しかし、そのためには、もっとたくさんの人に見てもらったり、時にはコラボであったり、他の人と繋がったりしなくてはいけないタイミングがこの先、必ずやって来る。 この先は、努力だ。 そう思う。 そして、今まで、こういった壁に立ち向かうための努力を、これまでの自分はしてこなかったのだと改めて感じさせられたのである。 今自分ができることをやろうと思い立ち、読書と、それについての感想を書くことを決めた。 現状、80日近く、本を読んで書く、という行動を続けることができている。 そこに、ゲーム実況を撮り、編集をして、ショート動画を作って、とやっているだけで1日のほとんどが終わってしまうのだ。 本題までがバカみたいに長くなりましたが、要するに、今自分がやっていることが、「努力であって欲しい」と思う反面、「闇雲に走っているだけなのではないか?」という疑念も湧いているということなのだ。 正直に、ゲーム実況も、読書も、書く行為も、めちゃくちゃ楽しい。 しかし、忙しさのあまり、これが正しい努力なのかということを考える時間があまりにも少ない。 これこそ、あまり考えないようにはしているけれど、周りから見れば「プー太郎がなんかやってる」という状況に他ならないのである。 収益化しただけでもすごいことなんだけどね!(あと、別に誰かにそう言われたこともないです、勝手に思われてるかもという被害妄想です)  で、自分の自制心であったりとか、心のことを知りたくて今回購入したのが平光源さんの著書『半うつ』だった。 これをテーブルに置いておいたら母に心配されました。 確かに、心配されるくらいには、ここ最近、バイトに行くか、ずっと本を読むか、ゲーム実況をするかだったので、なんか思うところはあったのでしょう。ごめん、めっちゃ元気や。 けれど、そのうち、というか、何がきっかけで、この元気を失うか分からないじゃないですか。 だから、この本を読もう、心を知ろうと思い、買った次第でございます。 著者であり精神科医である平さんは、浪人時代、上手くいかずに自死を図ろうとされたこともあるらしく、この本では専門的なことをたくさん書くのではなく、自分の経験を通して、自分と同じ状況に置かれてしまった人が一人でも救われるように、という思いでこの本を書いたという。 食べることの大切さ、眠ることの大切さ、スマートフォンと離れてみることの大切さ、人から言われるだけだと飲み込みづらいようなことが文字を通すと、平さんの文章を通すと、スッと入ってくるような、そんな感覚を抱いた。 「もっとやれる」「もっとやらなくちゃ」という気持ちが、心のしんどさを生んでしまう。 そんな当たり前のことも気づけないほどに疲れてしまう前に、しっかりとブレーキを踏んで、再び動けるタイミングまで、止まって、休んで、しんどさと向き合ってみる時間の大切さを、知ることができました。 努力コンプレックスなこととか、すごい考えてしまうんですわ。 頑張ろうと、無理してしまうんですわ。 でも、休み休みやらないとね、周りにも迷惑かけちゃうし。 気をつけながら、活動を続けていきましょうね。
  • 2026年2月12日
    かがみの孤城
    かがみの孤城
    泣いた。マジ泣いた。 主人公はとある出来事をきっかけに、部屋に引き篭もるようになってしまった中学生の少女「こころ」。 こころは、人の目が怖くてカーテンが開けられない、少し遠めのスーパーに行くことができない、同世代の声が聞こえるだけで体が硬直してしまう。 五月、部屋にある鏡が突然光を放つ。 その鏡に手を伸ばすと、体が吸い寄せられ、光に包まれ、目を開けるとそこには「狼の面をつけた少女」がいて、その奥には「城」があった。 城に集められた7人の少年少女たちは狼の少女に「この城に隠された鍵を見つけだし、その鍵で部屋の扉を開けろ、さもなくば願いを叶えてやろう」と告げられた。 期限は来年の三月三十日まで。 少年少女たちによる一年間の「願いの鍵探し」が始まる。 この小説に出てくる少年少女たちはみな、こころのように、さまざまな事情を抱え、学校に通うことができなくなってしまった子どもたちだ。 同じ境遇の子どもたちが集まったからといって、すぐに意気投合するわけでもなく、なんとなく、相手の傷に触れてはいけないという暗黙の了解があったり、逆に考えをぶちまけすぎて衝突したり、自分のせいも、他人のせいもないまぜになって、少しずつ、本当に少しずつ、相手のことを理解していく。 分厚い本なのに、絵本を読んでいるかのような温もりに触れ、そして散りばめられた伏線が、繋がると同時に、感情が、感動が、涙が、押し寄せてきた。 読みながら「わぁ〜」とか「おおうぅ…」と変な嗚咽を漏らしながら、読み終えた。 「大人になって」 というセリフが、作中にある。 このセリフを読んで、今、あなたが脳内再生した時、どんなふうに再生されましたか? この本を読んだ時、その印象が少し、変わるかもしれません。 涙活して、とてもスッキリとした気分だ。 この世の人間、みんな幸せになあれ。 あといっぱいお金が欲し…(殴
    かがみの孤城
  • 2026年2月11日
    死なない生徒殺人事件 〜識別組子とさまよえる不死〜 新装版
    野崎まど作品は、『[映]アムリタ』、『舞面真面とお面の女』に続き3作目の読了。 『死なない生徒殺人事件』は、自称「永遠の命」を持っているという少女・識別組子が遺体となって発見されるところから物語が大きく動き出す。 前の2作品でも感じていたけれど、野崎まどさん自身の知識量がそりゃもう半端じゃない。 今作の主人公は生物の教師であり、生物の定義、不死の原理、それらについての専門的な知識を書かれていることに…いや…プロの作家として、本を出す者として当たり前と言われてしまえばそこまでなんだけど、やっぱりすごいなと思ってしまう。 得た知識をこうやってアウトプットできるということに憧れてしまうので、主人公は生物教師で行こうという決意、不死の人間ならこう考えるだろうというセリフの選び方、知識とキャラクター構成のバランス感覚が野崎作品を読んでいてとても楽しみにしている要素の一つだ。 おれなら尻込む。 参考文献が何冊必要なんだ…(遠い目)となってしまう。 知的好奇心を大切にしたいと、常々思っているのだけれど、色んな本を読んでいて、全く頭に入らないものから、するすると頭に入ってくる知識もあり、前者の頭に入ってこない方を、どうやって自分の中で落とし込めば良いのか、ということにいつも悩まされる。 好奇心だけには限界があり、難しいことを知る前の準備段階がいるんだということにも、ここ最近気付けてきた気がする。 先人たちから脈々と受け継がれてきた、今この世に存在している知識を全て知ることは出来ない。だけど、逆に知りたいことのほとんどを何かしらの方法で知ることは出来る。 まだまだ学ぶべきことが多い人生なので、これからもたくさんの本を読んで糧としていきたい所存です。 自己啓発本でも読んだのかという感想になってしまいました。
    死なない生徒殺人事件 〜識別組子とさまよえる不死〜 新装版
  • 2026年2月10日
    5秒日記
    5秒日記
    帯に「日記は1日のことをまるまる書こうとせずに5秒のことを200字かけて書くといい」と書かれている。 なるほど、確かに日記を書くという行いをする時はその日の朝起きてから夜寝るまでの間のことをみっちりと書きたくなってしまいがちである。 そもそも、「日記を書くぞー!やるぞ!やるぞ!やるぞー!」と自分の中のみやぞんが張り切って書いている日記はどこか空回りしている気がして、どことなく恥ずかしい感じがしたりもする。決して僕の毎日が恥ずかしいわけではない…はずだ。あとみやぞんも悪くない。いつもおれのやる気を出させてくれてありがとう。 この本の著者である古賀さんと、息子さん、娘さんによる家族3人を中心に日記は書かれており、中学生、高校生のお子さんから発せられる、どこか真理をついているような言葉が、日常的なのに刺激的だ。 僕が同じくらいの年齢の時に、こんなに物事を多角的に捉えることができていただろうか? 多分できていない。 mixiにて、なんとか足跡(自分のアカウントに誰が遊びに来たかわかる機能)を残さずに気になる女の子のアカウントを見ることができるのかということについては毎日のように考えていた気がする。 古賀さんの日記、とても良かったなぁ。 暑い夏も、寒い冬も、ぎゅっと閉じ込められている感じ。 お子さんたちとの友達みたいにアイスを分け合ったり、お餅が食べられるギリギリを探ったり。 そういう日々を宝物のように、アルバムのように、書いて、保存してみる。 家族という小さいようで、けれど狭い意味でとても大きな歴史を刻んでいくその過程を垣間見ることができて、いい読書体験だったな。 ごちそうさまでした。
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