みーる
@Lt0616pv
2025年11月2日
カフネ
阿部暁子
読み終わった
借りてきた
じんわり心が温かくなるそんな作品だった。
「52ヘルツのクジラたち」の読後感に近い。
薫子、せつな、春彦、それぞれがその人にしかわからない痛みを抱えている。薫子は不妊治療の失敗と離婚、せつなは自死遺族と白血病、春彦は味覚障害、周りからの印象と自らのギャップ。3人とも自分のしたことの結果ではなく不条理なものによって。
薫子は主人公として非常に感情移入できた。
薫子自身の再生を描くことで「救われた人が今度は救う側に変わる」「救った人が救われる」読み進めるにつれ、そんな人間の素敵な部分が浮き彫りになっていった。
カフネという家事代行サービス。「おいしい」と感じるとき、悩みごとや辛いことはその一瞬吹き飛ぶ。その一瞬が明日を生きる一筋の光になる。「食べること」は人を良くすること。まさにせつなの料理で薫子が救われたように。
掃除も同じかもしれない。一生ついて回るが、メンタルが不調のときは部屋も荒れている。片付けられないはうつ病の症状の一つ。片付けるにはエネルギーがいる。誰かに片付けてもらうことでその片付けに使うはずだった分のエネルギーが心の余裕になる。家事代行はお金持ちの特権ではなく、子どもを育てる親が当たり前に使うものとして機能するといいなと感じた。家事代行の利用=怠けてる、なんてステレオタイプな価値観は捨てよう。僕も積極的に使おう。自分の心の余裕にお金を使おう。
そして、「他人のことはどこまでいってもわかない、わかったと思い込んでいるだけ」特に春彦は愛情という思い込みに縛られてしまって自分を出せずにいた。周りの理想の春彦でいることはどれほど辛かっただろう。対立しているより悪気のない善意の方が苦しいのかもしれない。相手のことを知ったつもりにならない、何かは分からないが、自分の知らない一面がある。そのことは忘れずにいたい。
一方で、薫子がせつなに「ただあなたといたい」と伝えた場面、これも真理だと思う。ただ一緒にいる、その人と話していたいという欲求に理由なんてない。人のことなんてわからないけど、自分が一緒にいたいかどうかはわかる。それがエゴだとしても相手を思いやってのことならば素敵ではないだろうか。
薫子と公隆が離婚後、カフェで再開するシーン。本当は子どもが欲しくなかったと打ち明ける公隆にそのことを離婚前に行ってくれればと言いかけて辞める薫子。「仮に言っていたとしてそのことをそのときの自分は受け入れることができただろうか」赤の他人になったからこそ受け入れられる悲しさ、夫婦だからこそ生まれる言えないことや受け入れられないこと。時間が経てば受け入れられること。すれ違いの連続を経験して人は生きるんだなと、印象的な場面であった。
人が再生するとき、必ず食べることときっかけがあると思う。時間が解決するというけど、何もない空間にただ1人で過ごすわけではない。誰かと関わり、食べて寝て起きる。その中に一瞬でも辛さを忘れられるときがある。「カフネ」ではそれが「おいしい」という感情だった。そういった一瞬の救いの連続の中で生きるとき自然と再生に向かうのだろう。薫子が「おいしい」に救われ、カフネに出会ったのもそう。ラストシーンで繕った自分の中に入ろうとしてくれた薫子に救われたせつなもそう。
キャッチコピーの「おいしいから再生ははじまる」本当にその通りの小説だった。