
ジクロロ
@jirowcrew
2025年12月31日

中野本町の家
後藤暢子
かつて読んだ
人々は家にもっと奥深い生への欲求を内在させているにちがいない。それこそが「もうひとつの家」「ヴァーチャルな家」である。建築家はこの「もうひとつの家」に関わらないかぎり、住まい手とのギャップを永遠になくすることはできないであろうー
(p.160)
「にちがいない」
そんな仮説からはじまる(広義の)アーキテキチャーの創造。
ユーザーはいつも裏切る。
アーキテキチャーの意図を超えたユーザーの解釈が、涌いて出てくる「ひび」が、必ずそのアウトプットに現れる。
「どんなものにもひびがあり、そこから光が射し込む」
(レナード・コーエン)
その「ひび」は、アーキテキチャーの目には映らない。
それはユーザーの日常(日々)により、徐々にあぶり出されるものである。
特殊な状況にあった住まい手が非日常的な空間の美しさを求めてつくられた家が、二十年後に今度は住まい手が日常性を求めて解体される、この状況の変化を建築家としてはどう受けとめればよいのであろうか。
(p.187)
もし建築に命があったとしたら、自分はなぜ命を絶たれなくてはならないのかと悲痛な叫びをあげたにちがいない。
それは保存か解体かというたぐいの問題とはまったく関係がない。住まい手にとっていかに正当な理由があったとしても、みずからが設計した建築の死はあまりにも傷ましい。
(p.188)
「にちがいない」は、アーキテキチャーの
はじまりにおける仮説であり、
失敗であり、叫びであり、
最期における祈りである。