中野本町の家

中野本町の家
中野本町の家
後藤暢子
住まいの図書館出版局
1998年1月1日
2件の記録
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2025年12月31日
    人々は家にもっと奥深い生への欲求を内在させているにちがいない。それこそが「もうひとつの家」「ヴァーチャルな家」である。建築家はこの「もうひとつの家」に関わらないかぎり、住まい手とのギャップを永遠になくすることはできないであろうー (p.160) 「にちがいない」 そんな仮説からはじまる(広義の)アーキテキチャーの創造。 ユーザーはいつも裏切る。 アーキテキチャーの意図を超えたユーザーの解釈が、涌いて出てくる「ひび」が、必ずそのアウトプットに現れる。 「どんなものにもひびがあり、そこから光が射し込む」 (レナード・コーエン) その「ひび」は、アーキテキチャーの目には映らない。 それはユーザーの日常(日々)により、徐々にあぶり出されるものである。 特殊な状況にあった住まい手が非日常的な空間の美しさを求めてつくられた家が、二十年後に今度は住まい手が日常性を求めて解体される、この状況の変化を建築家としてはどう受けとめればよいのであろうか。 (p.187) もし建築に命があったとしたら、自分はなぜ命を絶たれなくてはならないのかと悲痛な叫びをあげたにちがいない。 それは保存か解体かというたぐいの問題とはまったく関係がない。住まい手にとっていかに正当な理由があったとしても、みずからが設計した建築の死はあまりにも傷ましい。 (p.188) 「にちがいない」は、アーキテキチャーの はじまりにおける仮説であり、 失敗であり、叫びであり、 最期における祈りである。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2025年11月16日
    「これはとてもリアルな表現かもしれませんが、なんというか、(中野本町の家、話者の母が施主である住宅が)「墓石」みたいな感じがするのです。未亡人になった女性がその時点で個人に戻り、ひとりの女として人生を新しくはじめたいと思うのはごく自然なことではないでしょうか。わたしでもきっとそう思うとおもいます。ところが小さい子供がいるとなると、そのような気持ちも抑えなければなりません。母であり家庭の人であるということに自分の人生を統合した、というふうに理解しました。そのときわたしにはこれが「墓石」みたいに思えたのです。」 夫との死別に伴う感情と決意が、建築の裡に含まれているということ。 「思い」が「かたち」になったもの、それが「墓石」と感じられるということ。 住宅史において歴史的な価値を認められながら、それが壊される宿命に至ってしまう。 「資産」という普遍的合理性から一般的に導かれる「保存」という判断よりも、感情とか決意といった(過去における)刹那的な非合理性に対する「断絶」や「破壊」という個人的合理性が勝るということ。 そして極めて個人的な合理性こそ、ときに悲劇性を伴う非合理として現れる。 つまり、合理的な都市に暮らす人間は、個人単位としては「自然」ではなく、基本的には「非合理的」な存在であるということ。 いわゆる一私人における「負の遺産」に対する、どこか切なさと寂しさを伴うドキュメント。 「思い」が「かたち」になりたがっている、そんな衝動を自己の裡に感じるときに読み返す本。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved