綾鷹 "YABUNONAKA-ヤブノ..." 2025年12月31日

綾鷹
@ayataka
2025年12月31日
YABUNONAKA-ヤブノナカー
・俺は一つの、現代的に言えばトキシックなマスキュリニティに到達する。この世は女性ばかりが優遇されている。レディースデーも女性専用車両も、おじさんはおじさんなだけでバカにされることも、ハゲやデブが人外の扱いを受けることも、女は何歳になってもそれなりの扱いを受けるのに、男は雑な扱いばかりされることも、マチアプでも外食でも男ばかりが課金を強いられることも、唐突に許せなくなっていく。俺だって好きで男に生まれたわけじゃない。 三十を過ぎた頃からどんどん脂ぎって、肉がつき始めて、毛穴が開いて、髪が薄くなって、何故か足まで少し短くなったように感じられる。何もしてないわけじゃない。リアップ的なものを使ったり、肌を整えるための化粧水や乳液を使ったり、美容室の頻度を高めたりもしている。二十歳前後の頃は見方によってはイケメンと自認したこともあったのに、加齢の波には抗えず、ここ数年自分がどんどん汚いおじさんになっていくのを自分でもハラハラしながら見守ってきた。自分でも自分のおじさん化が辛い。そしておじさんは社会に軽んじられ、虐げられている。自分は腹を立てていた。社会性のない、理不尽な怒りに、震えていた。自分を癒すのは、同世代の平均よりも、ほとんどの女よりも高い収入だけだった。行く当てのない漠然とした怒りは、性欲には変化せず、ただ胸の奥に振動のような寂しさを残した。 ・僕は告発自体よりも、告発されて、自分の何がそんなに彼女を傷つけたのか、全く分からなかったことにショックを受けたんだよ。僕は彼女を物のように扱ったことはなかった。普通に、人として敬意を持って接してた。昔から、切り離すと決めたものには冷たいって言われてたし、自分でもそういう質だとは自覚してたけど、それは自分自身を納得させるために必要な経緯でもあって、別れ際に冷たくしたのは相手のためでもあると思ってた。別れたい相手から優しくされたって、嫌なだけだろうしね。小説のことだって、最後には恨まれたけど、親身になって考えた結果だよ。もちろん、僕の赤入れを採用するかどうかは自分で決めてくれとは言ったけど、それはそれこそ人として尊重したからだし、読んでくれって言われて、急かされて、プロの作家の原稿を差し置いてまで赤入れして、でもこんな修正したくないとか、感覚が古いとか言われたらカチンとくるし、恨み言はいくつか言ったかもしれないけどね。でも僕だって彼女にひどいことをたくさん言われたんだよ。それはもう、ひどい罵詈雑言を浴びせられた。もちろん、自分に都合の悪いことは忘れてるんだろうけどね。僕も彼女も ・結局、まあお互い言い分があるってことなんですよね。恋愛関係とか肉体関係のあった二人の間の善悪なんて、その二人の間にしかないし、どっちかの話だけ、いや両方から聞き取りしたって、どっちの方がどっちより悪いとか、僅差でこっちの方がましとか言えないわけで。 ・どんなに慎ましく生きてても、どんなに言動に気をつけて生きてても、変な巡り合わせで恨まれることはあるんだって、思い知らされたよ。僕より悪質なことしてたやつなんていくらでもいたのに、なんの制裁も受けずにのうのうと生きてる。僕だって、ハメようと思えばハメられるやつは会社にも作家にも何人もいる。まあ、録音とかしてないから証拠はないけど、でもそれ言ったら彼女の告発にだって別に証拠はないんだよね。だからあれは厳密には告発じゃない。あれは、いわば彼女の回顧録で、小説みたいなものなんだ。彼女もあの中で書いてたしね、これは私の復帰第一作だって。僕は彼女の創作に、実名出されて付き合わされただけなんだよ。世間的には、女子大生を性的に搾取して、ぞんざいに扱った罰だって言われるのかもしれないけどね ・今自分の中に湧き上がっているのは、怒りではなく虚しさなのかもしれないと、駅前まで戻ってきて、高架下で一定間隔を空けて拠点を作っている路上生活者たちの脇を顔を背けて通り過ぎながら思った。俺はATMとしての機能しか持たなくなった木戸さんの姿に、未来の自分や、現在の自分の空虚さ、そもそも人に生きる意味があるのかという、思春期に抱いていたような哲学的、文学的な問いとは一線を画した、ただひたすら数学のように無機質かつ単純な、意味と無意味の足し算引き算を経て導き出される「自分には特に意味がない」という結論を突きつけられたような虚しさを感じたのだ。妻もいない子供もいない彼女もいなければ今いい感じの女もいない、友達は数人いるけど皆年一か二くらいでしか会わないし、会っても特に人生や人格に影響を与えあうような存在ではない。どんどん知識と経験を積み重ねて仕事ではやりたいことを実現できるようになってはいるけど、その事実は自分の存在意義を裏付けしない。なぜなら社内に「仕事や会社に依存するのは恥ずかしいこと」という認識が愛延っているからだ。それは、仕事も結婦も育児もこなすのが女性の役割とされ、そういう女性をバックアップしていますと表明するためにそういう女性が役職を与えられ地位を得ていったことが原因の一つだろう。彼女たちは会社の滞在時間を極限まで削り、まるで片手間のように仕事をこなしては保育園が夕飯がという枕詞と共にさっさと帰っていく。もちろん彼女たちは彼女たちで本当に手一杯なのだろうが、そういう女がいると、俺みたいな家庭もなく子供もなく会社に長時間いるような人間は怠け者のように認識されてしまう。長時間労働が美徳とされ、会社に行けば仲間と呼べるような人がたくさんいて、公私の線引きなんて馬鹿馬鹿しい。そういう時代を経験してきた木戸さんが羨ましい。定年間際にそれが通用しなくなったからって何だっていうんだ。頭の中でそう腐して、はっとして「加齢臭消えない対策」でググった。 ・私たちは常にグラデーションの中にいる、理性と感情、精神と肉体、セックスとしての男と女、ジェンダーとしての男と女、悪と善、モラルとアンモラル、知性と反知性、常にグラデーションのどこかにいる。現代だって、過去と未来の間にしかない。常に移ろいゆくものだ。でも絶望にグラデーションはない。絶望は死と同じで、グラデーションがない。絶望には、あるかないかしかない。だとしたら私は、正義感でも怒りでもなく、絶望に依存しているのかもしれない。そう思いついた瞬間鼻で笑って、小説に使えるかもと思ってスマホのメモに書き留めた。私にはまだ小説という乖離がある。現実世界での乖離がなくなったとしても、小説があれば大丈夫だ。乖離に依存して結局煮詰まってパンパンになっている自分の最後の砦がやはり小説であるということに鑑みると、やっぱり小説はもうオワコンなのかもしれないと、不吉な予想にまたゾッとした。 最近こうして、あらゆる方面から、自分が詰んでいっている気がする。身体中から汁を出して死んでいるあらゆるタイプの虫の姿がよく脳裏に蘇る。自分が気づかないうちに踏み潰してきた生き物の呪いだけで死ぬほどに、私は弱っているのかもしれない。着々と料理を続ける一哉だけが私の救いで、でもそんな生き方、きっと時代にそぐわないのだ。まるで私は、時代という呪いにかかっているようだ。 ・「いや、なんか若い男はすごく軽んじられるってしょげてて。女性は若くてもそれなりに歳がいっててもチヤホヤされるのに、若い男は空気みたいな扱いを受ける、って。女性はいいですよねとか言われて、はあ?って思っちゃいました」 「だって、若い男性を軽んじてるのって、男性ですよね?女性は基本的に誰かが蚊帳の外になってたら、気を使って話を振るじゃないですか。でもそうやって、権力のある男性から受けた屈辱が女性への憎しみに転化して、自分が権力を持ったら女性を蔑むようになるパターンって意外と多いのかもしれませんね」 ・人は唐突に、自分の魂がどこにも紐づけられていなかったことに気づく。生まれた時から、親と、親の親と、環境と、そして未来に自分を愛してくれる人々と、繋がっているのであろうあらゆる糸を感じていたあのうざったい感じ、あれが全て幻想であり、自分は一人、たった一人で誰もいないホルマリンの海の中で胎児のように丸くなっているのだと気づく。全てへの怒りや共感や慈愛が、全て自分から出ているもので、自分には何も入ってきていないことに気づく。つまり人は人と溶け合わない。その皮膚をもって断絶していることに気づくのだ。そしてそのことに気づくのは、往々にして中年や高年の、もうそのことを嘆くこともできない歳になってからだ。 私たちは個人として閉じた存在である。性器や際の緒を通じて誰かと繋がったとしても、筋口と傷口を擦り合わせても、私たちは己の持つ思いを一つも交換できない。ある程度の歳になり吹き荒ぶ風に晒されながら唐突に、嬉しいわけでも悲しいわけでもないその寒々しい真実にたどり着く。 そしてその時気づく。正しいか間違っているかが問題ではない。そんなことは問題ではない。 この世には正しい真理や間違っている真理、適切な真理や不適切な真理、色々な真理があって、その中でどれだけ多くの真理に触れ、把握できるかが重要なんだ。結局のところ我々はどうしたって、混ざり合うことのない生き物なのだから。 ・何が間違っていて、何が正しいのか、ここ数年そればかりに心を奪われてきた。でも私の人生はその判別のために存在しているわけじゃないような気もしていた。 ・自分は色々なことを、測り兼ねている。ずっとそんな思いの中にいた。十五年くらい前からうっすらと、十年くらい前からはっきりと、少しずつ時代の流れについていけなくなった。それは奇しくも世の中が激変している中途のことで、私は少しずつ自分が何を発言するべきで、何を発言してはならないのかを判断できなくなっていった。自由に発言すれば必ず誰かの安全基準に引っかかり、気をつけて発言していても時に誰かを傷つけ怒らせた。何も言えなくなった後に待っていたのは、ただ消化していくだけの人生だった。ヘマをしないだけの人生。それでも時々へマをして責められる人生。なんの喜びもない人生。 ・中年、高年層が抱く昔は良かったの正体は、直感的に惹かれた仕事をしていれば、自分が時代の先端を走っていられた、あの全能感なのだろう。自分は今、何が正しいのかも、何が求められているのかも、何が忌避されているのかも、何がウケるのかも分からない。今の時代の若者は可哀想だと嘆く高齢男性は自分が若者の頃から生息していたけれど、自分が高齢に近づいている今は、当時より解像度高く理解できる。彼らは現代的感覚を喪失したことを受け入れられず、若者たちを蔑み憐れむことでしか自尊心を保てず、過ぎ去った時代にしがみついていたのだ。哀れな存在ではあるが、そうしてがむしゃらにしがみつける人はまだいい。彼らは哀れな人間として周囲の目には映るだろうが、彼ら自身は己の哀れさに決して気付かないからだ。自分はしがみつけないし、自分が哀れな存在であることをよくは分からなくとも、何となく分かってしまい、しがみつくことすらできないからこそ、より哀れなのだ。 Twitterやインスタを見れば訳のわからないものがバズっていて、今話題だという映画も漫画も小説も特に面白くなく、人との会話も仕事の愚痴と病気の話と誰が死んだ誰が金に困ってる誰が儲かってる、がほとんど。皆、何が楽しくて生きているのだろうと思う。でも明らかに皆は楽しそうで、自分だけがポカンとしていた。自分だけが、この世界の楽しさを忘れてしまったようだった。 そうしてあらゆる喜びを無くし続けた私には、責任だけが残った。息子や親を養わなければならない、妹の入院費を払わなければならない経済的な責任だ。毎月の支払いのために「どんな意義があるのかよく分からない」仕事を続け、なんとなく「ここにいるべき人間」の顔をして、会社に居残り続けた。それは「パーティで手持ち無沙汰な時」に似ている。顔見知りはたくさんいるけれど、特に一緒に連れ立つ人はいなくて、一通り挨拶をするが、皆挨拶と当たり障りのない世間話をすると僅かに気まずそうに「じゃ」と姿を消し、自分は一人になる。招待されていることも、そこでそれなりの立場があることも無意味で、誰一人として盛り上がって解散できないほどの楽しい会話をする人がいない。そういう状態だ。自分には居場所がない。それでも、ここにいろと言われたからこの部署の、このポジションにいる。人事とはその言い訳のために用意された部署のようだ。 ・もう終わったんだ。そう思うと、終わるということが内包する深遠なものに気づかされた気がした。終われば、もう誰に文句を言われることもない、生きること生活すること働くこと人間関係の煩わしさもなく、毎月金を振り込む必要もなく、誰に何を言われるか、自分が何をどれだけ分かっていないのか、怯えながら生きる必要もない。 家族席ではなく後ろの席についた妹は、もう疲れた、頭が痛い、薬を飲みたいから水を買ってきてと彼氏に喚いていて、恥ずかしいと思うけれど、どこか自分は別の世界に生きていて無関係という気もした。バーチャルな世界にいるように、現実味がない。五十を過ぎた頃から、ふらりと訪れたこのバーチャル感、現実味のなさが、高齢男性が所構わず威張り散らしてキレ散らかせる所以なのではないだろうかと、私は考えてきた。彼らにとって、全ての人はCPUなのかもしれない。つまり自分は、この世に存在していない方が良いのだろうという確信により自死に向かいつつあるが、同時にこの世の誰の視線も別にどうでもいいという現実味のなさによって自死を回避している状態、なのかもしれない。 ・あの熱式からだ。自分はこの世にいない方がいいのだという思いと、別に自分も社会もどうなっても構わないんだからいてもいいのだという投げやりさのバランスが、確実にいない方がいい、という急流に飲み込まれ始めたのは。ラフロイグの三杯目を注ぎ、舐めるのではなく喉を焼くように液体を暖奥に押し込んでいく。 今自分は社会のことなど何も考えていない。文学の行く先や哲学的苦悩、遠い国の戦争もどうでもいい。子供が何人死のうと自分には全くリアリティのある情報として把握できない。憂うことなど何もない。人生の中で最高齢でありながら最もアッパラパーな時間を生きている。もう何も、自分を煩わせることはないのだ。世界も社会も世の中も周囲の環境もどうでもいい。自分は正義など求めていない。正しさも、誠実さも、崇高さも、切実さも、高尚さも、何も求めていない。 いかに世界の悲惨な話をスルーして、いかに残りの人生を消化して、いかにあらゆる支払いを終え、いかに自分の老後を快適なものにしていくか。これがポジティブな方向の自分のハイライトだ。そしてそんなハイライトはない方がいい。 「何か、ないのか?」 恵斗の言葉は、何だったのだろう。答えはもちろん「何もない」でしかない。自分には何もない。SDGs的に言っても、自分は消えている方がいい。こんな存在が酸素を消費していることや、ゴミを出したり水を汚したりしていることは、世界にとって申し訳ないことだ。私はえている方がいい。圧倒的に無駄な存在だ。無駄すぎる。 ・私は自分が告発される告発文を読みながら、傷つきながら、どこか感動してもいた。同時に、起こっていることがどんなことなのか、分からなくなるような攪乱を感じた。でもそれは決して不誠実な攪乱ではなかったと言い切れる。そもそも人生とは常に攪乱の中にあり、その中で何を決定的なものとしていいのか分からないのだという諦めに似たあの達観を得られたことで、私は何かを諦め、何かを受け入れ、何かを切り捨てることができたように思う。それが私があの告発に、決定的なまでには打ちひしがれなかった理由だ。 ・私は吉住さんと木戸さんを見ていると、社会の生き物だと感じるのです。 戦後の経済成長の中で、男性たちは社会と共に生き、社会と共に育ってきました。 そして今、新陳代謝の激しい日本で、吉住さんや木戸さんのような、かつての時代を象徴する存在が、社会とともに死につつあるのではないかと感じたんです。 社会はずっと緩やかに死に向かっていましたが、ここ数年でその速度を一気に早めています。 きっと戦後日本を支えてきたこれまでの社会が一度完全に潰える過渡期に、私たちはいま直面しているのです。 男女雇用機会均等法が施行されて以来、女性たちも社会と連動しながら生きてきましたが、女性は男性ほど社会と同化しませんでした。 男女の賃金格差にも明確に表れていますが、女性は社会に優遇されておらず、ただの労働力とみなされいいように使われてきたため、女性は利害関係抜きには社会と関わってこなかった。 だからこそ同化を免れたのでしょう。(もちろん名誉男性的な女性など例外はいます) 男性もいいように使われていたのは同じですが、彼らの最大限のパフォーマンスを引き出すため、社会は男性たちに幻想を見せていました。 自分は社会の重要な一員、大切な家族、社会の重大な構成員であるという幻想です。 吉住さん、木戸さんの世代はおそらく、その旧社会を体現した最後の構成員になるのではないかと私は感じています。 最後の構成員たちも幻想が幻想であったことに気づき、その母体である旧社会の死を感じ取りつつある、今はそういう時なのではないかと。 この過渡期を木戸さんがどう生きていくのか、私は楽しみなのです。 木戸さんはどうやって現社会と折り合いをつけていくのか。それとも拒絶してドン・キホーテながら幻の旧社会を生き続けるのか。それとも旧社会と共に死にゆくのか。それがいま、自分にとって一番ホットなトピックなのです。 ぜひまたお話を聞かせてください。 ・改めてこのメールを読んで思うのは、私は社会と共に死に始めていたということだ。それまで何かあれば自分を仲間とし擁護し救ってくれた社会が、もう私を救わないものになり変わりつつあることを感じ取り、権力や影響力も会社内などの小さい村の中でしか作用せず、つまり自分は世界、あるいは社会を変えようと思っていたけれど、その社会自体がかつての影響力、権力を喪失し限りなく矮小化し、得体の知れないものに変化しつつあるのだという、根本からひっくり返されじわじわと真綿で首を絞められるような確倉の中で鬱になり、鬱になったことで逆に、私は社会から追放され個に戻ったのかもしれない。そうして還った個には、何もなかった。恵斗に言われた通り、何にもなかった。ただの老いたおっさんだった。元妻や息子、母親や妹に金を送り続ける、金はあるがセックスはできない老いた身体だった。何もなくてもガンガン生きれる奴はいくらでもいるのだ。そういう奴らは腐るほどいる。そして自分がそういう人間になれなかったのは、文学のせいなのかもしれなかった。文学は人の心にブラックホールを作歪みとも言えるかもしれないし、暗闇とも言えるかもしれない。そしてそれが作られることによって、人は耐え難き苦しみの中を生き抜くことができたりする。文学とはそういうものだ。 しかしそれによって死に追いやられることもある。文学に触れずに生きていたら、私はこの旧社会と心中などせず、時代の終焉や変革など我関せずで、老害として堂々と生き続けられたのかもしれないのだ。 自分は新しい顔を見せ始めた社会から転げ落ち、個としての存在の意味のなさに緩やかな自死を始めていた。そして自死がとうとう肉体に辿り着いて、あの自殺未遂となったのだ。長岡さんに会いたかった。自分は旧時代と共に死ぬこともできず、何もなさに絶望して自死し続けているんですと、酒を酌み交わしながら自嘲的に話して笑われたかった。そして彼女は言うのだ。人間なんてみんな死に損ないですよと。そんな自分の想像に飲み込まれ、取り込まれ、現実から綺麗さっぱり消失してしまいたかった。 最初の離婚の時にほんやりと感じたのが最後だった寂しいという感情が、二十年以上ぶりに訪れた。改めて、私はこんなにも寂しくない人間だったのかと思う。自分はこんなにも寂しくなくて、寂しくないほどに虚しい人間だったのかと思う。寂しいを封殺され社会にいいように飼い慣らされた五十男が、今ようやく、寂しくなったのだと思った。誰かに話したかった。誰かに。 ・いま改めて振り返ると、新しいことに出会えるのは、三十代までだった。四十半ばを過ぎると、新しいものはほとんどなくなった。あっても、これまでの経験と比較できる内容で、本当に新しいものには出会えなくなった。全ての体験は仕系化され、体感するものではなくどこかに分類されるものとなった。何かを享受した時「あれに似てる」「あれの系譜」「誰々と誰々の影響を感じる」などと経験済みの何かに当てはめて分かった気になるのが楽しかったのは三十代までで、それから先はもう、「当てはめられるが感想がない」という思考停止状態に陥った。あれは、自分が思考する生き物として終わった瞬間だったのだろう。思えば思考停止に陥ったのは、今の長岡さんと同じくらいの歳だったはずだ。そう考えると、私たちは同じ享年と思ってもいいのかもしれない。 ・ 確かに自分は彼女を傷つけたのだろう。彼女の告発が嘘だなどとは思わない。でも私も傷ついていたのだ。でも私はそんなことを告発しなかったし、同僚にも話さなかったし、飲み屋でさえも話さなかった。中年男性が傷つくことは、世間的に恥ずかしいことだからだ。傷ついた中年男性は、目も当てられないほどましい存在だからだ。中年男性は、誰からも慰めてもらえないからだ。何をしても「自業自得」と笑われるからだ。同類の中年男性には慰めてもらえるかもしれないが、そんなことをするよりは「傷ついていない自分」を装った方が楽だからだ。そうして私は感情のない男になり、何一つ反論もせず、静かに死のうとしていたのだ。そんな男にどうして恵斗は、「よく来れたね」などと軽蔑の目を向けられるのだろう。肩じられない心地で、横山さんに椅子を勧める恵斗を見つめる。 ・もし長岡さんにも鬱や更年期障害の症状が出て、彼を思いやれず別れていたら。 長岡さんも十年後に告発されていたかもしれない。今はこうしてヒーロー扱いされて美談になっているが、彼女が若い男と不倫していたことが公になったら、皆掌を返して非難するのではないだろうか。今はそこまでではなくとも、きっと十年後には、そこまでの年齢差の相手と恋愛関係になること、そして不倫に、今よりずっと強い批判が起こるはずだ。そして長岡さん自身も、自分の罪が許されなくなる時がくることを予期していたのではないだろうか。自分が蔑まれる日、斜弾される日がくることを。 ・でもそれは、今の時代は、でしかない。時代は唐突に人を裏切り、蹴落としていくのだ。それを見越して、長岡さんは逃げ切ったのかもしれない。 ・でもあなたに死なれたら困る。あなたが死んだら私が告発したせいだって、私が叩かれて死に追いやられるから。告発してから、そういう人がたくさん湧いた。お前のせいで一人の男が命を絶つかもしれないんだぞって何度も言われた。それで、もしあなたが自殺して私が責められて自殺したら、今度は後追い自殺って言われる。皆私のことを勘違いするために生まれてきたみたいな反応しかしない。こんな世の中に向けて告発したのが間違いだった
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