
読書猫
@bookcat
2025年11月19日
これがそうなのか
永井玲衣
読み終わった
“ひとつ言えるのは、自分の言葉とは決して、わたしがひとりだけでつくりだしたという意味ではないということだ。そうではなく、わたしの口からまさに語りだされようと這い出しつつある言葉であり、その言葉はどこまでも「わたしのもの」ではない。言葉は、わたしが好き勝手に管理できるものではない。他者によって耕され、育てられるものであり、あるいは言葉それ自体が自律的に動いているものである。”
“「口」はわたしの身体である。わたしの身体はわたしのものであり、わたしの意志によって身体を動かすことができる。そう思われている。だが、実のところ、身体はわたしの身体であるにもかかわらず、わたしを超えて存在する。
ゆで太郎の口になってしまったのならば、もうわたしたちはどうすることもできない。わたしの意志など関係なく、わたしの口はもうゆで太郎の口なのだ。頭からゆで太郎が離れないとか、とても食べたいとか、そうした欲求以上の、なにか言い切れない身体のままならなさがこの言葉には表れている。”
“わたしたちはさまざまな苦悩を抱える。共に生きることが苦手で、誰かを傷つけて、そんな自分にも傷ついている。尊大で、ちっぽけで、未練がましくて、自意識にまみれている。だからこそ、誰かと生きなければならない。弱くて、みっともなくて、しょうもないからこそ、誰かに話をきいてもらったり、話をきいてあげたりしながら、何とか一緒に生きようとする。虎になってしまうと怯えながら、あるいは虎になってしまいたいと欲望しながら、それでも人間でありつづけようとする。だが、そういう生き方はたしかに存在するのだ。”
“最近は特に、対話の核心とは、共に座ることではないかと思うようになった。”
“他者と共に座るとき、本を読むとき、また文章を生み出そうと原稿を書きつけるとき、他者に問われるとき、わたしはあなたと出会っている。他者は可能性である。広々とうつくしく、はりつめた可能性なのだ。”