これがそうなのか
203件の記録
*:.。.MiKi*:.。.@miki_06032026年2月8日読んでる横文字 知ったかぶりと相手に合わせるの違いは確かになんなんだろう。 確かにビジネス横文字って戦うために使っちゃってるのかもしれない。 難しい言葉で分からなくても使いたくなくても 負けてはいけないって意識なのかな。 そもそも負けるってなんだ。 知ってる人が偉くて知らない人が劣ってるって そのルールはそもそもなんなんだ。



*:.。.MiKi*:.。.@miki_06032026年2月7日読み始めた"推し" 推しを愛することは、推し自身の喜びであり苦しみである。 推すという行為は、親しい他者を愛することと何が違うのか 推しとの向き合い方は年々難しくなってる気がする。 推し活は楽しいだけじゃなくなっている。 推しがいる毎日は彩りがあって楽しくて日々の活力になるけど。 数字やら記録やら呼びかけやらいろんなものが増えすぎた。 単純に楽しくファンをやれてた時代とは 変わってしまったのかな… って思う最近の推し活。
nica@nica2026年2月2日読み終わったKindle古本屋紙の本と電子書籍と両方購入 読む前から、というか購入前から絶対付箋だらけになるのはわかっていたから 電子書籍で読んだ 案の定マーカーだらけ 永井さんの本は毎回そうなる
中根龍一郎@ryo_nakane2026年1月22日読み終わった大学時代の終わり近く、学生のころ鋭い問題意識を持っていたはずの学友が、就職してしばらくしてから会ったところ、ひどく凡庸な考え方の人間になってしまっていた、というエピソードを教えられたことがあった。院進せずに、仕事を始めることを考えているという話のときに言われたことだった。 だから気をつけてね、というニュアンスだったと思う。今は問いを立てることができているけれど、社会に出て仕事をしていくうちに、そういうふうに問いを立て、問い直す能力は失われていってしまうものだから、という。気をつけてね。あるいは、覚悟してね、だったのかもしれない。 私は文学部にいた。そこには一定数、小説を書いていたり、批評を書いていたり、研究に打ち込んでいたりする、いわゆるちょっと浮世離れした人たちというのがいて、私はなんとなくそういう側の一員だった。文学が好きで、哲学が好きで、文学と哲学のまわりにある言葉を操作するのが好きで、つまり文学部で勉強をするのが好きだったのだが、その主な動機は楽しみだった。そういうことが好きだし、そういうことをついしてしまうからしているのだった。 走るのが好きでも、走るのを職業にするわけではない。歩くのが好きでも、歩くのを職業にするわけではない。でも職業にしなかったからといって、走ることが好きであったり、歩くことが好きであったりする愛が失われるわけではない。それは人格に根を下ろしている。だから問いを立てることの楽しさは、今も私のなかにある、ような気がする。幸いにして。 でも一方で、仕事をすることによって巡り合った「凡庸な考え方」への愛着も、また自分にあったりする。 『これがそうなのか』のなかに、「問いをかくす言葉」の一章がある。そこで永井が挙げる「問いをかくす言葉」は「ひとそれぞれだから」「結局、承認欲求ですよね」「人間の本能じゃないですか」のみっつだ。それをラストワードに、なにがしかの答えを与えてはいるのだが、しかし対話の場にいる人々がどこか納得することのできないまま取り残されてしまう言葉。紋切り型の言葉でもある。そんなことが答えでいいのだろうか、という違和感がある。もちろん、いいはずがない。私たちが問うとき、私たちは私たちがいまだ知らない答えを欲望している。もう知っている言葉が問いの答えになるなら、それは問うことの欲望が挫折している。 そうした紋切り型の答えを、「凡庸な考え方」ということもできるだろう。ひどく凡庸な考え方の人間になってしまっていた……という、学生時代に聞いた語りを思い出すとき、自分のなかに、いや、凡庸なんて、そんな悪い言い方をしなくてもいいんじゃないかな、という気持ちが湧いてくる(その点で、永井の「問いをかくす言葉」というのは、価値中立的でとてもいい)。 問いをかくす言葉は、問いを簡略にする言葉でもある。それは仕事のなかで避けることができない。限られた業務時間のなかで、複数の関係者がいる事柄について、問えることも、検討する時間も限られている。あるていどのイレギュラーなことは処理できるように業務のラインはつくられているが、一方で、単純化を施さなければ進まないことはたくさんある。 いわゆる差別表現、不快表現について、校正者が指摘することがある。でもある表現がどのように不適切な表現として問題視されるか、どれくらい〈まずい〉のかという文脈は、実のところかなり共有するのがむずかしい。むかしある現場で、ある表現について、さてどう説明したものかな、と思いながら、担当者にギモンを出したことがあった。これなんですけど……という言葉を半ばで引き取りながら、相手はすみやかに頷いて答えた。 「うちのコンプラ的にまずいってことですよね」 なぜその表現が使えないのか、どうした用法なら許容されうるのか、問題になったときにどのような説明がありうるのか……というさまざまな問いを終わらせる、すさまじい破壊力の「問いをかくす言葉」だった。 たしかにその通りであり、突き詰めればそういうことになる。でもそこではかなり大胆な縮約が起きてもいる。しかしいろいろな議論をし、長く対話をしたとしても、結論は同じところに辿り着いただろう。そこからその人がいろいろな関係各所へ説明をするときの言葉も、多少は礼儀正しくなるにせよ、似たようなものになるだろう。それならばひとまず、それで業務を進めたほうがよい。 そこには効用がある。その効用に私たちは助けられてもいる。問いをかくす言葉は、対話を終わらせる言葉でもある。そして私たちは終わらない対話を終わらせる言葉を、ときどき必要とする。対話というのは終わりないものだからだ。そして私たちはその終わらなさに耐えられないからだ。 永井は、この本の別の箇所で、「よろしくお願いいたします」に触れている。それが対話を終わらせる強力な力についておもしろがりながら、でも、対話が終わるということについての違和感にも触れている。「よろしくお願いいたします」は典型的な仕事の言葉だ。そこには業務を完遂させるための機能が備わっている。そのような言葉を、凡庸だ、とか、危険だ、とかいうこともできるかもしれないけれど、一方で私は、そういう言葉のなかに、きちんとねじの締められた工業製品のような機能美のようなものも覚えてしまう。 もちろそれはそれで、学究の徒ではなく職業者になった自分の人生を肯定したいという、「結局、承認欲求ですよね」と言われたら、まあ、はい、そうなのかもしれませんけれども……





中根龍一郎@ryo_nakane2026年1月17日読み始めた大学でサルトルを読んでいた。フランスの哲学ではデリダ、ドゥルーズが人気を博していたころで、デリダは私の在学中に亡くなり、大学生協にたくさん本が並んだ。サルトルは時代遅れの哲学者、終わった哲学者という評価が、もうほとんど固定されたものとしてじんわり続いていた。なまじブームになった実存主義だけに、ブームを恥じるような、過度に矮小化する視線があった、ような気がする。サルトルを読んでいる学生は周りにいなかった。 世代のちがう永井玲衣は私が大学を出てから世に出てきた人で、彼女が、おそらく彼女の世代にとっても〈時代遅れ〉であるだろうサルトルを研究対象として選んだところに(一方的な)親近感を覚えていた。 「これがそうなのか」という題を見て、まず考えたのは『出口なし』のことだった。「じゃ、これがそうなのか」と、ガルサンが言っていたような記憶があった……でも実際に確認してみたらそれは記憶違いで、原文は「じゃ、これが地獄なのか」という文言だった。じゃ、これは『出口なし』ではないのか。自分の勘違いをちょっと恥じながら目次を見ると、今度はあきらかに『出口なし』の言葉があった。「つづけるんだ」。continuons。ページを飛び越えて「つづけるんだ」の章を開くと、なつかしい伊吹武彦訳が並んでいた。中学生のころにサルトルに出会ってから、何度も読み返した『出口なし』の台詞だった。そこへたどりつくのを楽しみにしながら、今は、頭から読んでいる。 永井の知識やものの見方はもちろんサルトルだけに由来するものではないだろうから、なんでもサルトルに結びつけるのも性急だし、よくないだろう。でもそこここにサルトルの面影があるような気がしてしまう。たとえば「問い」と「他者」を大事な概念にするところ。自分の言葉が、意識が、外からの言葉によって変わってしまうことを大切にするところ。 校正者がゲラに鉛筆で書く指摘は、ギモンと呼ばれる。私たちは他者の言葉に対し、他者に対する他者の言葉として、ギモンを投げかける。それは時に余計なもので、時に破壊的で、時に無意味なものだ。でも時にはそれがうまくいくことがある。上手な問いを投げかけることで、ある遠い他者に、なにかをもたらすことができる。そしてその他者の言葉について考えることは、私たち自身もまた変質させる。他者の言葉に触れ、同化しながら差異を保ち、この私としてギモンを投げかけ、そしてそのギモンがさまざまな形で消えていくことが私は好きだ。そして、そうして投げかけるものがギモンと呼ばれていることが好きだ。ギモン。question。問い。呼びかけるものであり投げかけるもの。それは私の読んできたサルトルの語彙に不思議と似ている。

kur@korokkoro392026年1月16日一日一章「笑いは防衛であり、逃避であり、慰めであるかもしれない。同時に、主体性の回復であり、力能のしるしであり、連帯のきざしである。」 「わたしたちはいっしょにいることに何度も失敗する。わたしのまぶたは痙撃し、目の前の状況を何度も終わらせる。だが、何度もはじめることができる。まばたきは、世界を終わらせたあと、世界をまた開始させる。終わって、終わって、終わって、終わって、そしてまたはじまる。」 サルトルについての章 すごくよかった 笑いが「主体性の回復」だなんて考えたことなかったかも どうしても前者の方の使い方ばかりして自分を誤魔化すためにしか使ってこなかった 『そうでしかないことを全身で受け止める。そこに訪れるのは「笑い」だ』 積読してる『嘔吐』も『出口なし』もよまなきゃなー


🐰@s_weetest_u2026年1月12日読み終わった読了。どうしてこの言葉を選んだのか、どうしてこういう行動を取ったのか、ということを、よく考える。それは、自分に対しても、自分以外に対しても。それぞれの言葉や行動には背景があり、それを選ぶ意識がある。大抵は無意識に選び取るそれらについて、振り返って考える。 「なぜあらそうの」の章を読み、自分のこと、自分の周りの人のこと、社会のことを思う。そして、もう一度自分に立ち返り、心の中にある「嫉妬」の感情と向き合っては、この激情とどう付き合っていくべきか、と考えていた。


y u k a r i@ykr6302026年1月11日読み終わった二部構成。 いつの間にか日々の中に立ち入ってきて、何食わぬ顔で居座っている「新語」に問いを見出していく第一部。 過去の読書で出会ってきた「言葉」の話が展開される第二部。 同著『水中の哲学者たち』での忘れられない一文が、この本からもぼわーっと浮かび上がってきて、わかっちゃいたけど、やっぱり最高だった。 “世間は一見まともなようで、実はかなりすっとぼけている。” ―『水中の哲学者たち』より 第一部では「ラン活」に痺れ、第二部の「あなたはきっと」は『黒い雲と白い雲との境目にグレーではない光が見える』を再読するきっかけを与えてくれた。 今年も光っている「言葉」をたくさん見つけてゆきたいなあ。

はな@hana-hitsuji052026年1月11日読み終わった図書館本図書館で借りた自分が学生の頃、戯曲や芥川龍之介の「奉教人の死」やサルトルに出会うことはなかった。 「ライ麦畑でつかまえて」や「悲しみよこんにちは」さえ読んでもピンとこない世間知らずには、ハンセン病も水俣病も原爆もどこか過去とか自分の行けない場所の出来事のようで現実的ではなかった。 今は著者の言うように「なぜ自分は今までそれを知らずに生きてこれたんだろう?」と心から思う。 総じて歴史や史実のようなものに深い興味を持っていなかった気がする。 他のことで頭がいっぱいだった。 でも知ってしまったことを受け取って、自分が何をどうするのか、どんな心持ちで生きていくのかを著者の問いと共に考えている。 以前読んだ「なぜあらそうの?」という絵本の話や、ケストナーがここでも登場して、段々と自分と距離のあった本が近づいてくる気配を感じる。 最近読んだ本が立て続けに自分に問いかけてくる。 あなたはどう思うの?「ずるい」とは何か? おれたちがこわいか?何が脅威なのか








ぼんじり@bonjiri_2026年1月6日読み終わった身近に溢れる言葉たちに立ち止まり考える、第一部「問いはかくれている」。そして「本に育てられた子ども」だったという著者が、これまで創作のなかで出会った言葉たちと現実のなかでふたたび出会い、考えたことを綴る、第二部「これがそうなのか」。 自分自身も、本や音楽や映画といった創作物の世界に閉じこもりがちな幼少期を過ごしていたので、現実で出会うものごとや感覚に対し、「進研ゼミでやったやつだ!」的に、これがそうなのか、と思う感覚というのはわかる気がする。 創作のなかで見知り、既知になったつもりでいるものごとは、結局は自分の解釈を鏡のように見つめているだけであり、現実や他者はそうした”既知"を飛び越えてくるものだ、と、大人になるほどに思う。 言葉や他者のもとでねばり強く立ち止まること、対話のテーブルに立つことを、つねに書き続けてくれる永井さんの文章には、いつも勇気をもらう。2026年は、踏ん張る、をテーマにしようと思った。 【好きだった文章📕】 わたしたちはさまざまな苦悩を抱える。共に生きることが苦手で、誰かを傷つけて、そんな自分にも傷ついている。尊大で、ちっぽけで、未練がましくて、自意識にまみれている。だからこそ、誰かと生きなければならない。 (第二部『これがそうなのか』/「その姿を見なかった」p272)

間欠泉@_geyser_2026年1月4日読み終わった第一部では、新語や身近にある言葉の前に立ち止まり、その言葉が持つ問いについてが書かれ、 第二部では、著者のそばにいる言葉たちがどのような本によって育てられ、形作られたのかが書かれている。 印象的だったのは、第二部の「あなたはきっと」に書かれていた、 「困難さや、ままならなさのかたわらに、表現があること。あるいは、詩があること。そしてそれを受け取ること。それはどういうことなのか。ただ息をのみ、うなだれて、本を閉じるのではないだろう。きいてしまったこと、出会ってしまったこと、うけとってしまったこと、そのことから考える。そこからしか、出発することはできない。自分はどうすべきなのか、どう生きるべきなのか、もがきつづける。だが、もう出会う前の自分には戻れないのだ。」 という箇所。 これをみて、枡野浩一が詠んだ歌「気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで」を思い出した。 本を読んだり、物事を経験したりすることで得た知識が鎖となり、自分の体を縛り上げる。行動するときにあれこれと考えてしまい、行動できなかったことや、曖昧で中途半端なことしか言えなかったことがある。 知ってしまった以上はもう元の自分には戻れない。だからこそ自分なりに、時間はかかっても答えを見出し、恐れずに表現していく。そんなふうに、時には自らの手で鎖を引きちぎりながらもがきつづけていこうと思った。
🐰@s_weetest_u2026年1月2日読んでる普段何気なく使っている言葉の奥にある使い手、ひいては自分の意図について改めて考え直す。特に強い言葉を使いたくなるときの気持ちについて。 「ラン活」から延長線を引いた先の「生活」への繋がりにはっとする。「生」があらゆる活動の集合体であることを改めて実感し直す。

m@kyri2025年12月29日読み終わった@ 自宅ずっと17歳だった自分のことを考えながら読んでいた どうしたらあのとき、よりよく生きられただろう、わからないものをわからないものとしてちゃんと認識して、他者に対して暴力的にもならず、自分なりの思慮を身につけられただろう ひとつ言えるのは、17歳のとき、もっと本を読むべきだったってこと 17歳のときにこの本に出会いたかった


Pさん@ahaha_8882025年12月18日読み終わった今回も考えされられることだらけ。「テロ」など、本来は強い意味を持つ言葉だけど、飯を付ければ身近にある言葉になってしまう。この本を読んで、もっと自分の発する言葉に責任を持つべきだと感じた。



はな@hana-hitsuji052025年12月13日まだ読んでる図書館本図書館で借りた『圧倒的』という章で声を出して笑ってしまった。 黙っている人がこんなに色んなことを考えていると誰も知らないのが面白い。 でもこの本を読んでいる人たちは一緒にニヤニヤしてるんだろうな。 所々引用してある本にも興味が湧く。 p131「おばあさんになった私の傍にいて いなくてもいて 山が光るね」 ヘクタール 大森静佳 『はせがわくんなんか』 この絵本のことを多分、今年初めて思い出した。私の好きじゃないタイプの絵なんだけど、すごく衝撃を受けた絵本だ。 育てるということは、なんて大変なことなんだ。そして自分を育てることは、誰かの育ちを手助けすることとはまた違った大変さがある。








はな@hana-hitsuji052025年12月3日読み始めた図書館本図書館で借りた新刊が図書館に入ってくるのはいつも2ヶ月くらい待たないと無理だと思っていた。 だからこの本と目が合った時、右手が残像に。 「さみしくてごめん」しか読んだことのない人の本だけど、面白くてウーウー小さく唸りそうになる。 物事をじっくり考える人が本の中には沢山いて、不完全で未熟な自分が安心しているのを感じる。 本当はよくわかっていないことを、なんとなく通り過ぎて、時に分かったような顔のまますごしていることがとても多い。 それらのひとつひとつと向き合って考えたことなんか実はなかったじゃないか、と自分で自分にビックリするのが面白い。 こういうことをじーっと考え続けるのが好きだなと思う。 「愛とは何かわかっていないのに、なぜ愛していると言えるのか」 確かに感情とか気持ちって、本当に同じような感覚で捉えているんだろうか。 何一つ分かってないのにすれ違いながらも奇跡的に話が伴走できているだけかもしれない。









ふるえ@furu_furu2025年11月19日読んでる現実を知る手段としての本、という話として読み取る部分が作中にあって、自分はどうやって現実を知ったのだろうと振り返る。 本なのかテレビなのか、音楽なのか、漫画なのか、少なくとも人間ではなかったように思う。 誰かが描いた現実を、何かしらのメディアで現実として受け取って、その齟齬に苦しんだり助けられたりしながら、チューニングしていくような時間もあった気がする。


読書猫@bookcat2025年11月19日読み終わった(以下、本文抜粋) “ひとつ言えるのは、自分の言葉とは決して、わたしがひとりだけでつくりだしたという意味ではないということだ。そうではなく、わたしの口からまさに語りだされようと這い出しつつある言葉であり、その言葉はどこまでも「わたしのもの」ではない。言葉は、わたしが好き勝手に管理できるものではない。他者によって耕され、育てられるものであり、あるいは言葉それ自体が自律的に動いているものである。” “弱くて、みっともなくて、しょうもないからこそ、誰かに話をきいてもらったり、話をきいてあげたりしながら、何とか一緒に生きようとする。虎になってしまうと怯えながら、あるいは虎になってしまいたいと欲望しながら、それでも人間でありつづけようとする。だが、そういう生き方はたしかに存在するのだ。” “最近は特に、対話の核心とは、共に座ることではないかと思うようになった。” “他者と共に座るとき、本を読むとき、また文章を生み出そうと原稿を書きつけるとき、他者に問われるとき、わたしはあなたと出会っている。他者は可能性である。広々とうつくしく、はりつめた可能性なのだ。”
ふるえ@furu_furu2025年11月19日読んでる「はいチーズ」のタイトルのお話で、自分の住んでいる街や、旅先で、誰かに写真を撮って欲しいと頼まれたことを思い出す。相手にとってはきっと旅行中での大切な写真になるこの数枚を、どのようなかけ声でシャッターを切ればうまく撮れるのか、撮影する時はいつも緊張する。 何かを誰かと同じタイミングでする時の合図やかけ声を外さないような、そんなトレンドを知りたい。



阿部義彦@xtc1961ymo2025年11月16日読み終わった永井玲衣さんの著書を読むのは『水中の哲学者たち』に続き2冊目。現在の著作は多分4冊。この本は二部構成で前半は新語に関する考察、だいたい知ってはいたが、『ラン活』だけは初耳でした、売らんかなの業界の匂いのするまあ何ともたまらない言葉で、これだけは、『普通に』知りたく無かった。そして第二部の本に関することば達がとても響いた。想像は付いてたが小さい頃は、人と交わることが苦手で本ばかり読んでた子供だったそう。私とは30歳も離れていても、ウンベルト・エーコ、カフカ、長谷川集平、サルトル、中島敦、芥川龍之介、等そんなに読書遍歴は違わなくて親近感を抱いた。松尾スズキは私も好きです「クマのプー太郎」だけ知らなかった。サルトルに関する『続けるんだ』そして、芥川龍之介の悪巧みを暴いた『もっとください』が特に良かった。本を読んで『これが本で言ってた事なのか』「これがそうなのか」と気付く体験は何事にも変え難い。
























































































































































