
JUMPEI AMANO
@Amanong2
2026年1月2日
生類の思想
藤原辰史
まだ読んでる
@ 自宅
「Ⅰ わずらう」と「Ⅱ あそぶ」を読み終わる。
いつものことながら、藤原さんのエッセイは読み手を触発してやまない。特にⅡを読みながら、去年担当した友田とん『「手に負えない」を編みなおす』や西本千尋『まちは言葉でできている』(特に栗生はるかさんの章)との繋がりを感じ、とても嬉しくなっている。自然と同じ思想的課題を共有してしまっている。あわせて読んでもらったら刺激的かもしれない。
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〈私たちがだれかに与えつづけている苦しみは、[急性的ではなく/というより]慢性的ではないか。その苦しみは、農家が少量の毒性のある農薬を散布のたびに肺に取り入れるように、あるいは鉱山労働者が粉塵を日々肺に取り入れるように、徐々に、与えている側がほとんど罪悪感を抱かぬままに、だれかを傷つけていないだろうか。〉(48頁)
〈免疫がうまくいかない時代は[...]「自己する」ことが難しくなった時代なのである。「自己する」とは、自己を動的に保ち、まわりの生類に影響を与えながら自己を変化させることである。自己の境界があまりにも膠着していて、動きがなく、境界領域の「あわい」が直視されていない。〉(58頁)
〈私たちの腸内の延長にすまいは存在するのである。[...]身体もまたすまいであるという視点がないために、ハイデガーの建築を自然と結びつけるプロジェクトは未完のままなのである。〉(65頁)
〈細菌の目線(というものがあればの話だが)からすれば、「いきもの」も「たてもの」も大きく変わらない。[...]「すまうこと」とは「すまわせること」を抜きにして語ることはできない。〉(67頁)
〈家庭科の哲学とはなにか。それは「人間とはなにか」という問いにかかわることである。ただし、家庭科は、「生きる術」を扱う以上、その問いを「なにか」という問いで静的にとらえるのではもったいない。[...]問いは「人間する」という日本語には存在しない動詞について考えることであると私は思う。〉(73頁)
〈人格は形成されるものではない。人の格、つまり、自分というもののあり方とは、鉱物や生物や海や川や泥などにもみくちゃにされて、世界に向けてほどくあり方である。ブロックのように積み上げるものなどないのである。〉(88頁)
〈どうして、私たちは、その[「欠けている」とされる]空白部分を、別の生きものの生活空間、共同生活者の興味関心、新しい表現の空間、そしていたわりの空間が「ある」として見られないのか。空いたスペースに建物を建てることしか関心のない開発者は、どうして、木を植え、アスファルトを剥がすという発想にたどりつかないのか[...]〉(89頁)
〈育てるとは、組み立ていくことではない。子どもに傷がついていくことだ。[...]ヒビが入ったり、穴が開いたり、破けたり、欠けていたりしていきながらも、そこに手当をしていくことこそが、育てることではないだろうか。〉(91頁)
〈人間は文を「作れる」という考えから、少なくとも子どもたちを解放するのはどうだろうか。[...]「作文」にはたわむれが足りない。〉(95頁)
〈「まちづくり」とは、まちの風通しをよくすること、つまり「まちほぐし」なのではないか。[...]「作」や「造」という言葉には、「壊」や「解」という言葉がいつも潜んでいる。〉(99頁)
〈「作者」はすでに初めから解体を始めつつ、「解者」のいる場所から「ワーク」が浮かびあがるのを、あるいはその場から「ワーク」が漏れるのを待つ。〉(108頁)





