
咲
@mare_fecunditatis
1900年1月1日
星のように離れて雨のように散った
島本理生
読み終わった
愛してるってどういうこと?一緒にいるってどういうこと?相手と同じでいたいという願望?
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」に寄り添われ、原春の物語が語られる。
ジョバンニとカムパネルラは、ずっと一緒に行くことはできなかった。
なぜなら、信仰が違うから。
大事だからこそ同化したいと願った相手と、対立してしまう。
だけど、宮沢賢治は少しずつ、自分の神様を信じることと、他者に違う神様がいることは矛盾しないと知っていく。
まったく一緒ではないけれど、少しずつ混ざり合っていることを、受け入れ始めていく。
「みんながカムパネルラ」という比喩。
「されどわれらが日々」と「ノルウェイの森」を女がふたり、解釈をする。
題材にして絡めて自分を曝す。
危うさを持った女の子が好きだという男の子は、そういう危うい女の子たちが本当に救われたら、どうするのかな。
きっと、ずっと危ういままでいてほしいんだよ。
自分だけが変われないのはつらいから、僕が傷ついているかぎり、いや、違うな、僕が傷ついて癒やされて救われて元気になったとしてもずっとずーっと、君には、傷ついた場所にいてほしいんだよ。
きっとそうだ。
売野さんと春の会話に惹かれたのは、私がずっと、誰かからそれを望まれていたように思い込んで、誰かにそれを望まれる私が可哀想で特別だったから。
相手が浮上していく中でひとり取り残されることを望んで、ああ、まただ、一緒に落ちてきたのにまた私だけ底にとどまって、みんなひとりで元気になっていってしまうのねって寂しがるのが好きな私がいたからだ。
私は、私の物語を、生きてこなかった。
「願望と現実の区別はつけたほうがいい」という吉沢さんの言葉に、ちゃんと傷つけられて、ちゃんと救われた。
文学を読むというのは、それらに心を乱されて侵入と干渉を受けながら作者と作品を掘り下げるというのは、なんと面白いんだろう。
春の気持ちが、自分の物語と、父の物語と、亜紀の物語を受け入れていく過程が、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の探求に乗せられて語られていくのが、魅力的で面白い。
私たちは、物語がなければ、自分のことを語れない。見れない。生きられない。
原稿が改稿されるように、私たちの物語は、何度も何度も語り直されて練り直されて、受け入れられる形におさまっていく。
未完の作品「銀河鉄道の夜」。


