Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
咲
咲
@mare_fecunditatis
三島由紀夫が好きです。
  • 2026年2月1日
    たえまない光の足し算
    異食。非食物を食す。 花の生殖器官である、雌蕊と雄蕊を食べる。 「ほんとうは、わたしは、髪、爪、指、それから、腕、ふくらはぎ、じぶんでじぶんを食べてそのまま自分の屍体すらこの世に残さず、消滅してしまうところだった。 そうしても、全然、おかしくなかった。 でも少なくともわたしは自分を食すより世界を食すほうを選んだ。 薗はいま、風に巻かれて、そんなじぶんをこころから誇れる。」 舞台となった時計台を、私は勝手に、太陽の塔に類する姿で想像した。 圧倒的舞台装置。 「時計台といっても、積乱雲のような姿かたちの彫像である。そのもくもくとした躰じゅう、蜂の巣になるまで撃たれたように、眼窩のようなちいさくいびつな穴が、深く貫いている。お腹のなかにまなつの太陽でも隠しているかのように、その躰の間隙からは、ほそい光線が強く漏れ出す。 この時計台はその見た目から「かいぶつ」というたわむれの愛称をもった。この、時計台の躰じゅうにある数千個の多眼のうち、光る眼の組み合わせは、まいにち0時に変化し、同じ光り方は二度としなかった。」 この世に唯一ある《痛くない出口》。 人間になるために、ハグと弘愛は、そこから出ていった。 薗は、違うやり方で、それに続く。 《痛くない出口》には背を向けて、自分の足で、ぐるぐるとぐるぐると、降りていく。 「信じて!わたしは嘘をつかない。 あなたたちが投げた異物はほんとうにわたしを満たしている。 毎日毎日ここで時計台と観客の眼光によって自分が映し出されること。 この場所は薗のゆいいつだった。」 世界に接続することは、かくも困難で、痛い。
  • 2026年2月1日
    春のこわいもの
    春のこわいもの
    深夜の本屋さんで、ランタンを片手に本を読んだ。あったかいカフェモカは、苦みのある甘さで美味しかった。 0時を過ぎて、お風呂に入り緩やかな館内着を着て、ほの暗くて、思考の巡りは緩慢で、言葉を受け取る精度も落ちていた。 北海道に住んていた時に、親しくしていた美しい女性が、川上未映子をとても好きだった。 彼女が、離別の際に、川上未映子を贈ってくれた。 先日久しぶりに電話をしたこともあり、川上未映子を読みたい気分だったのかもしれない。 目にとまり、手に取って、本屋さんの隅っこのソファに沈み込むようにして読んだ。 深夜特有のほわほわとした心が、言葉をそのまま受け止めて、打ちひしがれた。 「春の夜から春の要素だけが消滅し、得体の知れないその残り滓が、冷気とともに部屋に積もっていくようだった」 本書の読み心地を表現するとしたら、「娘について」にあったこの一文、まさに、そんな感じだった。昼間にはとても読めなかった。 「じっさいに、美人はいるしブスもいる。そんなの当たり前の話だった。自分で決められる価値もそりゃあるにはあるだろうけど、同時に他人が決める価値も、あるに決まってるじゃんか。美しさとかきれいさっていうのは、例えば、しあわせとか愛とかそういうなんかふわふわした適当なものとは根本的に違うんだよ。美っていうのは、どうしたってはっきりしていて、ぜったいに見間違えようのないものなんだから」 「心じゃない、顔と向きあえ」 「しあわせなことを想像しているとき、胸のなかはあんなふうに膨らむんだろうなというような雲をみたこと。影に影をかさねても、何も残らなかったこと。わたしは、きみのことが大好きです。ねえ、戻れない場所がいっせいに咲くときが、世界にはあるね」 「わたし自身から、少しまえまでわたしにあった、なんとかまっとうに生きていくための筋力が少しずつなくなっているような感じがします」
  • 2026年1月24日
    やっと言えた (シリーズ ケアをひらく)
    「やっと言えた」をやっと読めた。 いつになく感情が溢れて、乱れて、やりきれなかった一週間を越えて、いま、やっと。 アラームをかけずに寝ると、昼前に目が覚める。何も食べる気にならず、3時ころまで、静かに静かに、読む。 「医療では、私の物語は[病気]や[障害]と呼ばれました。受け入れ難い気持ちになったときに食べたものを吐き出してしまうことは[摂食障害]という言葉になりました。死にたいという衝動は[希死念慮]という言葉になりました。会いたくはないのに男の人に会うことは[性的逸脱]、電車に飛び込みたくなるのは[衝動性]と言われました。でも、病気や障害として名づけられた不調や苦しみは、医療の中ではよくなりませんでした」 「わたしは、自分のこれまでの人生が臨床心理の言葉で語られて、自分のあずかり知らないところでわかったふうにまとめられるのが耐え難かった。それほど切実に、自分の物語を誰かの言葉ではなく自分の言葉で語る必要があった。誰かがわたしのことを語ってしまうと、他人の言葉の陰で自分が消え失せてしまうように感じる」 「つらいことがあったときに「悲しい」を持っていては、あまりに悲しすぎて私は生きていけなかった。「悲しい」はなかったことにして、「悔しい」が使われ、それだけでは到底足りなければ「死にたい」がやってくるのだった」 「私は愛されたいのだ。それも相手が愛したいようにではなく、私の愛してほしいように、愛してほしいだけ、愛されたいのだ。私は、相手が愛してくれるのを受け取るだけしかできないと思っていた。愛というのは、もらえて初めて受け取れるだけのものだと思っていた。でもそうじゃない。願っていいのだと初めて思えた」 大事にしたいし、大事にされたい。愛したいし、愛されたい。 不確実性に満ちた関係性を、行為を、生きるにあたって、「信頼する」というのは、おそろしいこと。 人が人を「わかる」ことは、できない。でも、それをわきまえたうえで、わかろうとすることはできる。 わかってほしくて、わかってほしくなくて、わかったようなことを言ってほしくなくて。既存のカテゴリーで、既存の理論で、誰かの言葉で、「わたしの物語」を語ること、それは、その人から尊厳を奪うことだ。 わかることはできないまま、そっと、触れる。
  • 2026年1月18日
    サド侯爵夫人・わが友ヒットラー
    去る1月14日、三島由紀夫101歳の生誕祭のため、日帰りで東京に行ってきた。 歌舞伎町の24時間営業の居酒屋で朝酒を飲み、紀伊國屋サザンシアターで「サド侯爵夫人」を観劇し、事前に依頼したフルオーダーの生誕祝いケーキを原宿に取りに行き、盛大にお祝いした。 ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵の悪徳。その妻であるルネの貞淑。 「私は、良人が悪徳の怪物だったら、こちらも貞淑の怪物にならなければ、と思いますの」 「アルフォンスはね、たった一つしか主題を持たない音楽なんです。私はその音楽に貞節を誓ったのです」 「お姉様は何でもそんな風に、理解と詩でアルフォンスを飾っておしまいになる。詩で理解する。あんまり神聖なものや、あんまり汚らしいものを理解するただ一つのやり方」 「だってアルフォンスは譬えでしか語れない人ですもの」 「あの人は朽ちない悪徳の大伽藍を、築き上げようといたしました。点々とした悪業よりも悪の掟を、行いよりも法則を、快楽の一夜よりも未来永劫に続く長い夜を、鞭の奴隷よりも鞭の王国を、この世に打ち建てようといたしました」 「この世でもっとも自由なあの人。時の果て、国々の果てにまで手をのばし、あらゆる悪をかき集めてその上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしているあの人」 「あの人の欲望は冒瀆によって燃え上る。あの人のおかげで娼婦も乞食も、一度は聖女にされたのでした、そのあとで鞭打たれるために」 「ルネ!打ちますよ!」 「さあ、どうぞ。もしお打ちになって、私が身をくねらして喜びでもしたらどうなさる?」 「ああ、そう言うお前の顔が…」 「何だと仰言るの」 「アルフォンスに似てしまった、怖ろしいほど」 「さっきサン・フォンの奥様がいいことを仰言いました。アルフォンスは、私だったのです」
    サド侯爵夫人・わが友ヒットラー
  • 2026年1月12日
    子どものための精神医学
    大晦日から読み始め、ノートに書き起こし始め、ようやく読み切った、書き切った、頑張った! さすがの良書だった、学びが深い。 精神発達の基本構造を、x軸を「関係(フロイト)」、y軸を「認識(ピアジェ)」で捉えて、相互作用により発達が進んでいくものとし、その中に、定型発達・知的障害・自閉・高機能自閉・アスペルガーのスペクトラムを座標で表す、理論の上に立つ実務的な切り取り方。 認知と認識を区別することによって明確になる、生物/社会・個体/環境のそれぞれの影響の領域。 豊かな智慧と臨床的温かさが、柔らかく混じり合っていた。 精神発達とは、一個体として生まれた子どもが、感覚、情動、ふるまい、認識をまわりの人々と分かち合いながら、社会的・共同体的存在を目指すこと。 子どもは、言語発達が進むにつれて、体験世界の秩序化・安定化が進み、情動的にぐっと落ち着いていくところ、発達障害における認識及び関係の発達の遅れは、言葉の遅れ(そこには、言葉が含む「社会通念・共同体の約束事へのアクセス」への遅さ・弱さも存在する)をもたらす。そのため、世界への安心感の成立も遅れ、定型発達よりも不安・緊張の高い世界を生きることとなる。 アスペルガーの体験世界の特徴として、探索力はあるが人との関わりからものごとを学ぶ力は弱い。これにより、自分の関心だけにリードされて、大人との密接な相互交流を介さずマイペースな世界探索をすることになる。その結果、外国語を独学で学ぶかのように、社会的な共同性の土台ではなく自身のナマの感覚性が土台となった認識世界がつくりあげられる。 乳幼児期に関係の発達の遅れに気付いた時点で、様子を見ずにただちにケアを始める。子の関係性を持つ力の不足を、養育者からの働きかけをそっと増やすことで補う。 愛着形成は相互作用という救い。 それにしても、医学書院の白石正明さんは本当に素晴らしいな。 中井久夫先生と滝川一廣先生に教科書的書籍を依頼してくださったことに、深く感謝。
  • 2026年1月11日
    DTOPIA (デートピア)
    BOOK AND BED TOKYO 心斎橋にて。 早起きをしたので近くの本棚から取って読み始め、咀嚼し終わらなかったのでチェックアウトを延長して、重ねて読んだ。 「想像を絶する出来事について知ったとき、人は知ってもしょうがないことを、知ろうとし続けてしまう。事実を、自分にとって怖くないサイズへ分解するまで、問い1みたいなことを、ずっと」 このとおりに、私はまんまと、暴力から暴をとる試みを、尋問と拷問の違いを、フランス政府がポリネシアで行った193回の核実験を、調べて考えては、いつまでも立ち上がれないのだった。 「自分にとってあたりまえの欲求が他人にとって暴力になるとしたら 欲求そのものをガマンしようなんて自分を過信しすぎている いつか自分本位にタガを外して誰かを傷付ける だから大切なのは欲求そのものが消滅するまで範囲を設定すること そう思う」 「なるべく自分も相手も痛まないまま、どう野晒しにするか」 「おまえはおまえを晒し尽くして、消耗させようとしていた。全部を使い果たすための、延々とした自殺が始まっていた」 「傷モノは絶対に泣き言を言っちゃいけないんだ。現代のように、いち個人の行動とバックグラウンドを安易に結びつける社会で、トラウマを開示することはつまり、人格をジャッジする権限を明け渡すようなものだよ。他人にぺらぺら教えるべきじゃない」 それにしても、この2日間、「ダンダダン」と「デートピア」という「金玉」の話を、期せずして立て続けに読んだことに、驚く。どういう示唆ですか。
  • 2026年1月4日
    禁色
    禁色
    今年最初の読了は三島由紀夫。 今年も魅了されてやまない。新年早々に、凄まじいものに触れてしまった。良い年だ。 言葉を尽くして美が語られる。 身体を持った一個体であるはずの美青年悠一が、復讐心や慾望を投影され、嫉妬と崇拝を向けられ、「愛」されて、意志も苦悩もなく思想にもなりえない、抽象としての「美」にまつりあげられていく。 老作家は、美を支配し、または進んで支配され、翻弄され、死んでいく。 遺された一千万円というメタファー。 「愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。人間をいちばん残酷にするものは、愛されているという意識だよ」 「もはや美は人を黙らせない。美が饒舌を強要するようになった。美の前に出ると、何か大いそぎで感想を述べる義務を感じるようになった。美をいそいで換価する必要を感じるようになった。換価しなければ危険である。美は爆発物のように、所有の困難なものになった。というよりは、沈黙を以て美を所有する能力、この捨身を要する崇高な能力が失われたのであります。ここに批評時代が始まりました。こうして今日の饒舌に饒舌をかけあわせた、耳を聾するばかりの悪時代がはじまりました」 解説に書かれていた改訂の過程が興味深い。 18章「見者の不幸」までがまず第一部として単行本で発行され、その後、自身の海外旅行をはさむ約10か月の休止期間を経て、第二部が執筆・連載された。 それにあたり、当初は第一部のラストで鏑木夫人が自死する筋書きであったところを書き直し、鏑木夫人は自死せず、それどころか、悠一が鏑木夫人を愛しはじめることによって社会と家庭に復帰するよう変更を加えたという。 三島由紀夫自身いわく、「禁色」は、「自分の気質を徹底的に物語化して人生を物語の中に埋めてしまおうという不運な試み」であったという。
  • 1900年1月1日
    ケアと編集
    ケアと編集
    「シリーズケアをひらく」は学生時代から好き。 向谷地生良さんの当事者研究を見に行って、「あなたの、その落ち込み方がいいねえ」と疾病を現象として眺め直す姿に立ち会う。 中井久夫さんの件の本棚や翻訳時のレイアウト変更などの逸話の目撃者となる。 坂口恭平さんから鬱抜けの時に突然電話がきて、「今ねえ、目の前でお菓子のハッピーターンの粉みたいなのがキラキラ降ってきてすごいんだよ!」と一方的に聞かされ、「じゃあね!」と切られる。 エピソードが全て豊かでユーモラスで、魅力的。 白石さんのおかげで、たくさんの〝当事者〟に触れることができたこと、本当にありがたい。 欲を言うのであれば、中井久夫さんと出すはずだった1冊を、読みたかったなあ…。
  • 1900年1月1日
    星のように離れて雨のように散った
    愛してるってどういうこと?一緒にいるってどういうこと?相手と同じでいたいという願望? 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」に寄り添われ、原春の物語が語られる。 ジョバンニとカムパネルラは、ずっと一緒に行くことはできなかった。 なぜなら、信仰が違うから。 大事だからこそ同化したいと願った相手と、対立してしまう。 だけど、宮沢賢治は少しずつ、自分の神様を信じることと、他者に違う神様がいることは矛盾しないと知っていく。 まったく一緒ではないけれど、少しずつ混ざり合っていることを、受け入れ始めていく。 「みんながカムパネルラ」という比喩。 「されどわれらが日々」と「ノルウェイの森」を女がふたり、解釈をする。 題材にして絡めて自分を曝す。 危うさを持った女の子が好きだという男の子は、そういう危うい女の子たちが本当に救われたら、どうするのかな。 きっと、ずっと危ういままでいてほしいんだよ。 自分だけが変われないのはつらいから、僕が傷ついているかぎり、いや、違うな、僕が傷ついて癒やされて救われて元気になったとしてもずっとずーっと、君には、傷ついた場所にいてほしいんだよ。 きっとそうだ。 売野さんと春の会話に惹かれたのは、私がずっと、誰かからそれを望まれていたように思い込んで、誰かにそれを望まれる私が可哀想で特別だったから。 相手が浮上していく中でひとり取り残されることを望んで、ああ、まただ、一緒に落ちてきたのにまた私だけ底にとどまって、みんなひとりで元気になっていってしまうのねって寂しがるのが好きな私がいたからだ。 私は、私の物語を、生きてこなかった。 「願望と現実の区別はつけたほうがいい」という吉沢さんの言葉に、ちゃんと傷つけられて、ちゃんと救われた。 文学を読むというのは、それらに心を乱されて侵入と干渉を受けながら作者と作品を掘り下げるというのは、なんと面白いんだろう。 春の気持ちが、自分の物語と、父の物語と、亜紀の物語を受け入れていく過程が、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の探求に乗せられて語られていくのが、魅力的で面白い。 私たちは、物語がなければ、自分のことを語れない。見れない。生きられない。 原稿が改稿されるように、私たちの物語は、何度も何度も語り直されて練り直されて、受け入れられる形におさまっていく。 未完の作品「銀河鉄道の夜」。
  • 1900年1月1日
    愚かな薔薇下
    お盆は岐阜に行きたい。 物語のモデルとなった、岐阜の郡上八幡の郡上踊り。 「徹夜踊りはお盆を迎える週末、三日三晩に亘って繰り広げられる。夕暮れから明け方まで、わずかな休憩を除いて参加者たちがえんえんと踊り続けるのだ」 「不思議なんや、この祭りは。きっと、この磐座の地に宿ってる力を記憶しよう、取り戻そう、刻みこもうゆう祭りなんやろな。だらだらと続く踊りが、波が寄せては返すように、毎日少しずつ勢いを高めていって、徹夜踊りのあいだ、もっとも強いエネルギーを引き寄せる。そこに異形のものを出現せしめる。それが祭りなんや」 「肉体が消滅すれば、二人の意識は一緒にどこまでも行ける」 そう、二人はそうやって、肉体を離れて、ずっと一緒に、どこまでも行けた。 でも、だから、奈智は、ひとりぼっちで、遺されてしまったの。
  • 1900年1月1日
    愚かな薔薇上
    舞台となる場所は「磐座」と名付けられている。 磐座。いわくら。 磐座とは、そもそも、その地で崇拝される神や霊などを迎え入れるための座席としての岩を指す。 常時は、奥深い山の頂、海の彼方の世界、天上界などの遠い遠い場所に居らせらる信仰対象を、祀りの時に、磐座に迎える。 神々をこちら側に迎えるための、神聖な場所。 物語の冒頭で子どもたちが目にするのは、巨大な岩に刻まれた「虚ろ舟様」の彫り物。 滅びゆく地球から空中船で移住する、体が変質し人の血を飲み不老不死になる… そんなSFが、自然崇拝的原風景を舞台に繰り広げられる。 「僕たちは、このままでは外海になんか行けないんだよ。肉体的にも精神的にも、こんなに傷つきやすいまんまじゃ。もっと違う者、違う存在にならなくちゃ。違う段階を目指さなきゃ、舟に乗れないんだ」
  • 1900年1月1日
    複眼人
    複眼人
    私は一体、何を読んだのだろう。 壮大な読後感が新鮮。大きなものに触れたような感覚が、肌身に残る。 ワヨワヨ人。 木のごとく背丈が伸び、花のごとく生殖器が突き出し、貝殻のごとく頑なに時が過ぎゆくのを待ち、海亀のごとく口元に笑みを浮かべながら死んでいく。 太平洋をゆっくりと漂流する巨大なゴミの島が、台湾に衝突する。 傍観のみで介入できないことを唯一の存在理由とする複眼人。 滑落。 教会という名の山。 七羽目のシシッド。 激しい激しい雨が、今にもやって来る。 「今日の海の天気はどうか?」「よく晴れている」 少年は、海に行ってしまう。 「自然は残酷なものではないよ。自然はただ自然がすべきことをしているだけだ」 自然や世界に人間が勝手に意思を感じ取ってしまうのは、そうした明らかに手に負えないものを、手中におさめた気になって安心したいからだろうか。 そのために土着の物語が存在するのだろうか。 「人間が感じ取る世界はあまりにも偏り、あまりにも狭い…そして時に意図的なものだ。お前たちは記憶したいものだけを記憶している。多くの記憶には、実は想像から生まれた虚構が入り混じり、発生した事実のないことまでも、人間はその想像力により脳内にありありと再現する」 海と山からの警告が、人の手によって、物語の世界になる。不思議。
  • 1900年1月1日
    責任の生成
    責任の生成
    「私が全部悪かったんです。全て私の責任です。本当に、申し訳ございませんでした」 典型的な謝罪文。それは、とても閉じている。 自身の過ちを自身から切断し、他者との会話や関係修復の関わりも切断し、自己完結の形で思考停止している。 「責任を取れ」という被害側の要求はもっともだ。 その正しく強い真っ当な要求は、だがしかし、加害者を責任から遠ざける。 一度、加害行為を外在化し、自然現象のように捉える、すなわち免責すると、現象のメカニズムが次第に解明され、自分のしたことの責任を引き受けられるようになってくる。 免責による引責。 「誰もが大なり小なり傷ついた記憶を持っている。そんなわれわれ人間にとって、何もすることがなくて退屈なときが危険なのではないか。そんなときに限って、過去のトラウマ的記憶の蓋が開いてしまう。だから私たちは、その記憶を切断する、つまり記憶の蓋をもう一回閉めるために「気晴らし」をするのではないだろうか」 「過去のトラウマ的な記憶を消すためには、今ここで新たにトラウマになるような傷を自分が自分に与えるのか一番だ」 「過去を眺めることなく、未来だけを見つめて、「未来を自分の手で作るぞ」というのが意志だ。それは過去を自分から切り離そうとすることで、そうしている限り、人はものを考えることから最も遠いところにいる」 罪を償うということは、自分の過去と丁寧に向き合うことなしには成立し得ない。
  • 1900年1月1日
    美しい星
    美しい星
    わたしは数年ごとに金閣寺と美しい星を行ったり来たりして、好きを深めて興奮する趣味があるらしい。 ◉の話。破滅の話。美の話。 白鳥座三人衆との議論が凄まじい。 人類の5つの美点。 「彼らは嘘をつきっぱなしについた。彼らは吉凶につけて花を飾った(幸福が瞬時であることは認めながら、同時に不幸も瞬時であってほしいと望んだ)。彼らはよく小鳥を飼った。彼らは約束の時間にしばしば遅れた。そして彼らはよく笑った(虚無がいちいち道化た形姿を示すたびに、彼らは笑った)。」 こんな眺めが宇宙から消えるのは、残り惜しいことではないだろうか。 「人間は全然、生きたいという意志など持ってはいない。 生きる意志の欠如と楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間というものだ。 『ああ、もう死んでしまいたい。しかし私は結局死なないだろう』これがすべての健康な人間の生活の歌なのだ」 「人間はもうおしまいだ」 「救済は決して来ない」 「いなくなった人類万歳!」 物語の終焉。 銀灰色の円盤が、息づくように、緑いろに、又あざやかな橙いろに、かわるがわるその下辺の光りの色を変えているのが眺められた。 三島由紀夫が広げる思想の大風呂敷に包まれて、呆気にとられたまま崩折れる。 好きだ。
  • 1900年1月1日
    花嫁化鳥
    花嫁化鳥
    寺山修司の紀行文というだけで気持ちが高揚し、飲み込まれるようにして読んだ。 老婆と子どもしかいない島。 夕暮れ時のかくれんぼ。 鯨の子どもに戒名をつけて墓に入れる。 「イエス・キリストが青森で死んだ」という一文を読んだときには、人目も気にせず仰け反って笑ってしまった。 恐山の盲目の巫女がキリストの口寄せをする。 寺山修司の修辞にかかれば、虚構が現実に侵入する。 どこまで本当か分からないのに、彼の歩いたその土地で、私も夢を見たくなる。 話して歩いて蒐集し、金田一氏のごとく推理を組み立てるのが憎いところ。 楽しい読書だった。
  • 1900年1月1日
    鳩の撃退法(下)
    上巻の始めからずっと、あなた、あなたと、読者は小説から呼びかけられながら読み進める。 そして終盤。 「な、聞こえているか。僕のことばは、あなたに届いているか?」 「読者のつかない小説は、書いても書いても未完成か?この小説の存在は、無か?ひとに読まれない小説をなんのために書いているのか、理由がわからない。わからないままここまで来てしまったと、あなたには伝えておきたいのだ。伝えておきたいのだ、と強く書いても、読むひとがいなければどこのだれにも伝わらないわけだが、それでもあなたに聞いてほしいのだ」 孤独な小説家は、よりにもよってひねくれて、大衆に愛された「ピーターパンとウェンディ」の引用を、この、誰が読んでくれるかもわからない小説のいたるところに散りばめた。 ピーターパンは、そこに大勢の読者がいると疑いもなく信じ、子どもたちに向かって「もし、きみたちが信じてくれるなら、手をたたいてください。ティンクを殺さないでください」と呼びかける。 そして、当然のように、ティンカーベルは息を取り戻す。 そんなことを信じて小説を書けたならば、どんなに世界は違って見えることか。 表紙にコーヒーの染みがついたピーターパンは、紛失しても、手放しても、そのたびに津田伸一の手もとに戻ってきた。 伝書鳩のように。 運命は丸い池を作る。 池を回るものはどこかで落ち合わなければならぬ。 事実を曲げて書いた小説が、つまり現実から遠ざかろうとしたストーリーが、一周して現実の先へと出てしまう。 気がつくと、うしろから現実が抜き返そうと追ってくる。 本書もぐるぐると時系列を何周も回り、最後はまた、何も知らなかった頃の津田伸一に戻ってくる。 同じところを回りながら、微妙にずれた軌道を描き、雪上の轍は深さを増していく。
  • 1900年1月1日
    鳩の撃退法(上)
    佐藤正午は、Web岩波「たねをまく」の「小説家の四季」にて、2022年夏と秋に「小説家の不親切」をぼやいている。 言行一致。 本作でも津田伸一をとおして、あらゆる固有名詞とその付属物を、言葉を尽くして説明させる。 周囲の人間の言葉を使って「悪い癖だよ、どうでもいいことにこだわるなよ」と繰り返し批判させながらも、その書き方をやめない。 この人は、読者が小説内で新奇な単語に出くわしてまごつかないように、過保護なまでに抽象度を下げる。読者が言葉どおりに、つまりは作者の意図どおりに小説を受け取ることを、強く望んでいる。 何度となく読んでは、小説の面白さに惹き込まれる。 佐藤正午は好きだ。 石井桃子訳のピーターパンとウェンディ、父親を「ヒデヨシ」と呼ぶ娘と一家三人神隠し事件、飛んでいった鳩、何でも燃やしてくれるクリーンセンター、大雪の2月28日夜。 謎めいて魅力的な部品が散りばめられて目移りするが、この小説のテーマは「小説」だ。 幸地秀吉がミスタードーナツで読んでいた新刊小説の帯には「別の場所でふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった」との謳い文句があった。 津田伸一はそれに対して「だったら、小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな」と言った。 たらればが有効なのは、現実の取り返しのつかない一回きりの人生においてのみだ。 小説家は小説を心ゆくまで書き直すことができる。 津田伸一は事実を書いているのではない。 事実をもととしながらそうあってほしいと望むストーリーとその結末を、言葉によって創造している。
  • 1900年1月1日
    世に棲む患者
    世に棲む患者
    対話編「アルコール症」が好き。 サン・テグジュペリの「星の王子さま」にアル中の星が出てくる。 「恥ずかしい、恥ずかしい、アル中であることが恥ずかしいのです」と言って、またぐいと一杯ひっかける。 アルコール症は恥の文化。 辱しめに敏感であると同時に、傷口に塩をすりこむように自虐的に恥にまみれることを求める。 「あなたはアルコール中毒だ」と医師が断定することは、そのような蟻地獄的自虐に加担し、倒錯的快感を高めるばかり。 それならば、底つき体験を経て自身の無力を自覚し委ねる流れは、自意識を病に寄せてしまう、危険なステップだ。 できることならば、底をつくことなく、生き延びて回復をしていただきたいところだが、如何。 患者の病以外の部分に関心を向けるのが上手な方だと知ってはいたが、まさか、患者のお髭事情にまで言及があるとは。 驚いて、可笑しい。 治療中の患者がヒゲをたてるのは良い兆候なので間違っても母や妻が剃らせないこと、 そのような剃髭の強制は去勢に近い意味を持つこと、ヒゲを剃れという周囲の圧力に抗する能力(剃髭圧力抵抗能力)と酒を飲まずにいられる能力は平行するという考察など、 臨床的視点というものはここまで及ぶのか!と、愉快で笑ってしまった。 さすが中井久夫先生。
  • 1900年1月1日
    あゝ、荒野
    あゝ、荒野
    寺山修司は、私の「特別」だ。 いつだって、頭の中に血をぎゅんぎゅんと巡らせてくれる。視界がチカチカと眩むほどに、過剰な血を供給する。あゝ。 寺山修司は、この、生まれてはじめての長篇小説を、歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズなどの「手垢にまみれた言葉」をコラージュすることで作り上げた。 ラストシーンには惚れ惚れする。 「一発、二発、三発、四発、五発、六発、七発!」 八十九発まで連なる、この、単なる数字の羅列が、どうしようもなく「詩」だ。 一発一発を、殴り、殺すようにして、心を揺らしながら全て書き写す。 「私は近頃、「ことば」でも「性」でもなく「暴力」というものに興味を持つようになってきた。暴力という伝達行為。暴力という連帯方法。これはいかがなものであろうか?何人も、戦場に於ける兵士のようにきびしく「相手」を見張ることは出来ないし「相手」の一挙手一投足に興味を持つことは出来ない。そんなことから、私はボクシングに心魅かれるようになった。あの、殴りながら相手を理解してゆくという悲しい暴力行為。相手を傷つけずに相手を愛することなどできる訳がない。勿論、愛さずに傷つけることだって、できる訳がないのである。」 「いかにして新宿新次を憎むか。憎まなければ新次と試合をすることは出来ないし、試合しなければ「新次に勝つ」ことは出来ないだろう。そしてそれなしでは、彼は自分自身の人生の意味を解説することができないという気がするのである。」 「あいつはたぶん、俺に殴り倒されようとたくらんでいるのだ。俺の手で徹底的に打ちのめされ、血まみれになって倒れることによって、俺とのっぴきならない関係を持とうとしているのだ。」 「俺はとうとう「憎む」ということができなかった一人のボクサーです。俺は皆が好きだ。俺は「愛するために愛されたい」」 目の前が 一望の 荒野だ
  • 1900年1月1日
    ぼくが狼だった頃: さかさま童話史 (文春文庫 て 1-2)
    「特にしつけのやかましい家庭に育った訳でもないのに、私は大人になったら「名作童話に復讐してやりたい」と思っていた。ピノキオがポルノだったり、はだかの王さまが形而上学者だったり、赤ずきんがニンフォマニアックだったりする、という事実を「実話雑誌」風に暴露し、それらが「大人にとって都合のいい子供にしつけるための教材にすぎない」と言いたかったのだ」 星の王子さま然り、寺山修司には「復讐してやりたい物語」がいっぱいあるのだな、と可笑しい。 物語への最大の復讐とは何か? それは、物語を「書き直してしまうこと」なのだ。 「事実を事実としてだけ受け入れていても、あっというまに月日は流れる。風車を巨人に見立てる位の想像力でもなければおもしろくもおかしくもない」 新しい歌をおぼえてみる、ちょっと風変わりなドレスを着てみる、気に入った男の子とキスをしてみる。 世界と出会い直すこと、世界を物語化することの尽きない魅力を、寺山修司が何度も教え直してくれる。 天井桟敷で観客たちや市民をスポットライトの下に引っ張り上げたように、読書においてさえ、この人は、決して読者を受取手に留めてくれず、穴埋め問題や続きの公募によって関与を強いてくれるのだ。
読み込み中...