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咲
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@mare_fecunditatis
三島由紀夫「豊饒の海」がとても好きです。
  • 2026年1月4日
    禁色
    禁色
    今年最初の読了は三島由紀夫。 今年も魅了されてやまない。新年早々に、凄まじいものに触れてしまった。良い年だ。 言葉を尽くして美が語られる。 身体を持った一個体であるはずの美青年悠一が、復讐心や慾望を投影され、嫉妬と崇拝を向けられ、「愛」されて、意志も苦悩もなく思想にもなりえない、抽象としての「美」にまつりあげられていく。 老作家は、美を支配し、または進んで支配され、翻弄され、死んでいく。 遺された一千万円というメタファー。 「愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。人間をいちばん残酷にするものは、愛されているという意識だよ」 「もはや美は人を黙らせない。美が饒舌を強要するようになった。美の前に出ると、何か大いそぎで感想を述べる義務を感じるようになった。美をいそいで換価する必要を感じるようになった。換価しなければ危険である。美は爆発物のように、所有の困難なものになった。というよりは、沈黙を以て美を所有する能力、この捨身を要する崇高な能力が失われたのであります。ここに批評時代が始まりました。こうして今日の饒舌に饒舌をかけあわせた、耳を聾するばかりの悪時代がはじまりました」 解説に書かれていた改訂の過程が興味深い。 18章「見者の不幸」までがまず第一部として単行本で発行され、その後、自身の海外旅行をはさむ約10か月の休止期間を経て、第二部が執筆・連載された。 それにあたり、当初は第一部のラストで鏑木夫人が自死する筋書きであったところを書き直し、鏑木夫人は自死せず、それどころか、悠一が鏑木夫人を愛しはじめることによって社会と家庭に復帰するよう変更を加えたという。 三島由紀夫自身いわく、「禁色」は、「自分の気質を徹底的に物語化して人生を物語の中に埋めてしまおうという不運な試み」であったという。
  • 1900年1月1日
    ケアと編集
    ケアと編集
    「シリーズケアをひらく」は学生時代から好き。 向谷地生良さんの当事者研究を見に行って、「あなたの、その落ち込み方がいいねえ」と疾病を現象として眺め直す姿に立ち会う。 中井久夫さんの件の本棚や翻訳時のレイアウト変更などの逸話の目撃者となる。 坂口恭平さんから鬱抜けの時に突然電話がきて、「今ねえ、目の前でお菓子のハッピーターンの粉みたいなのがキラキラ降ってきてすごいんだよ!」と一方的に聞かされ、「じゃあね!」と切られる。 エピソードが全て豊かでユーモラスで、魅力的。 白石さんのおかげで、たくさんの〝当事者〟に触れることができたこと、本当にありがたい。 欲を言うのであれば、中井久夫さんと出すはずだった1冊を、読みたかったなあ…。
  • 1900年1月1日
    星のように離れて雨のように散った
    愛してるってどういうこと?一緒にいるってどういうこと?相手と同じでいたいという願望? 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」に寄り添われ、原春の物語が語られる。 ジョバンニとカムパネルラは、ずっと一緒に行くことはできなかった。 なぜなら、信仰が違うから。 大事だからこそ同化したいと願った相手と、対立してしまう。 だけど、宮沢賢治は少しずつ、自分の神様を信じることと、他者に違う神様がいることは矛盾しないと知っていく。 まったく一緒ではないけれど、少しずつ混ざり合っていることを、受け入れ始めていく。 「みんながカムパネルラ」という比喩。 「されどわれらが日々」と「ノルウェイの森」を女がふたり、解釈をする。 題材にして絡めて自分を曝す。 危うさを持った女の子が好きだという男の子は、そういう危うい女の子たちが本当に救われたら、どうするのかな。 きっと、ずっと危ういままでいてほしいんだよ。 自分だけが変われないのはつらいから、僕が傷ついているかぎり、いや、違うな、僕が傷ついて癒やされて救われて元気になったとしてもずっとずーっと、君には、傷ついた場所にいてほしいんだよ。 きっとそうだ。 売野さんと春の会話に惹かれたのは、私がずっと、誰かからそれを望まれていたように思い込んで、誰かにそれを望まれる私が可哀想で特別だったから。 相手が浮上していく中でひとり取り残されることを望んで、ああ、まただ、一緒に落ちてきたのにまた私だけ底にとどまって、みんなひとりで元気になっていってしまうのねって寂しがるのが好きな私がいたからだ。 私は、私の物語を、生きてこなかった。 「願望と現実の区別はつけたほうがいい」という吉沢さんの言葉に、ちゃんと傷つけられて、ちゃんと救われた。 文学を読むというのは、それらに心を乱されて侵入と干渉を受けながら作者と作品を掘り下げるというのは、なんと面白いんだろう。 春の気持ちが、自分の物語と、父の物語と、亜紀の物語を受け入れていく過程が、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の探求に乗せられて語られていくのが、魅力的で面白い。 私たちは、物語がなければ、自分のことを語れない。見れない。生きられない。 原稿が改稿されるように、私たちの物語は、何度も何度も語り直されて練り直されて、受け入れられる形におさまっていく。 未完の作品「銀河鉄道の夜」。
  • 1900年1月1日
    愚かな薔薇下
    お盆は岐阜に行きたい。 物語のモデルとなった、岐阜の郡上八幡の郡上踊り。 「徹夜踊りはお盆を迎える週末、三日三晩に亘って繰り広げられる。夕暮れから明け方まで、わずかな休憩を除いて参加者たちがえんえんと踊り続けるのだ」 「不思議なんや、この祭りは。きっと、この磐座の地に宿ってる力を記憶しよう、取り戻そう、刻みこもうゆう祭りなんやろな。だらだらと続く踊りが、波が寄せては返すように、毎日少しずつ勢いを高めていって、徹夜踊りのあいだ、もっとも強いエネルギーを引き寄せる。そこに異形のものを出現せしめる。それが祭りなんや」 「肉体が消滅すれば、二人の意識は一緒にどこまでも行ける」 そう、二人はそうやって、肉体を離れて、ずっと一緒に、どこまでも行けた。 でも、だから、奈智は、ひとりぼっちで、遺されてしまったの。
  • 1900年1月1日
    愚かな薔薇上
    舞台となる場所は「磐座」と名付けられている。 磐座。いわくら。 磐座とは、そもそも、その地で崇拝される神や霊などを迎え入れるための座席としての岩を指す。 常時は、奥深い山の頂、海の彼方の世界、天上界などの遠い遠い場所に居らせらる信仰対象を、祀りの時に、磐座に迎える。 神々をこちら側に迎えるための、神聖な場所。 物語の冒頭で子どもたちが目にするのは、巨大な岩に刻まれた「虚ろ舟様」の彫り物。 滅びゆく地球から空中船で移住する、体が変質し人の血を飲み不老不死になる… そんなSFが、自然崇拝的原風景を舞台に繰り広げられる。 「僕たちは、このままでは外海になんか行けないんだよ。肉体的にも精神的にも、こんなに傷つきやすいまんまじゃ。もっと違う者、違う存在にならなくちゃ。違う段階を目指さなきゃ、舟に乗れないんだ」
  • 1900年1月1日
    複眼人
    複眼人
    私は一体、何を読んだのだろう。 壮大な読後感が新鮮。大きなものに触れたような感覚が、肌身に残る。 ワヨワヨ人。 木のごとく背丈が伸び、花のごとく生殖器が突き出し、貝殻のごとく頑なに時が過ぎゆくのを待ち、海亀のごとく口元に笑みを浮かべながら死んでいく。 太平洋をゆっくりと漂流する巨大なゴミの島が、台湾に衝突する。 傍観のみで介入できないことを唯一の存在理由とする複眼人。 滑落。 教会という名の山。 七羽目のシシッド。 激しい激しい雨が、今にもやって来る。 「今日の海の天気はどうか?」「よく晴れている」 少年は、海に行ってしまう。 「自然は残酷なものではないよ。自然はただ自然がすべきことをしているだけだ」 自然や世界に人間が勝手に意思を感じ取ってしまうのは、そうした明らかに手に負えないものを、手中におさめた気になって安心したいからだろうか。 そのために土着の物語が存在するのだろうか。 「人間が感じ取る世界はあまりにも偏り、あまりにも狭い…そして時に意図的なものだ。お前たちは記憶したいものだけを記憶している。多くの記憶には、実は想像から生まれた虚構が入り混じり、発生した事実のないことまでも、人間はその想像力により脳内にありありと再現する」 海と山からの警告が、人の手によって、物語の世界になる。不思議。
  • 1900年1月1日
    責任の生成
    責任の生成
    「私が全部悪かったんです。全て私の責任です。本当に、申し訳ございませんでした」 典型的な謝罪文。それは、とても閉じている。 自身の過ちを自身から切断し、他者との会話や関係修復の関わりも切断し、自己完結の形で思考停止している。 「責任を取れ」という被害側の要求はもっともだ。 その正しく強い真っ当な要求は、だがしかし、加害者を責任から遠ざける。 一度、加害行為を外在化し、自然現象のように捉える、すなわち免責すると、現象のメカニズムが次第に解明され、自分のしたことの責任を引き受けられるようになってくる。 免責による引責。 「誰もが大なり小なり傷ついた記憶を持っている。そんなわれわれ人間にとって、何もすることがなくて退屈なときが危険なのではないか。そんなときに限って、過去のトラウマ的記憶の蓋が開いてしまう。だから私たちは、その記憶を切断する、つまり記憶の蓋をもう一回閉めるために「気晴らし」をするのではないだろうか」 「過去のトラウマ的な記憶を消すためには、今ここで新たにトラウマになるような傷を自分が自分に与えるのか一番だ」 「過去を眺めることなく、未来だけを見つめて、「未来を自分の手で作るぞ」というのが意志だ。それは過去を自分から切り離そうとすることで、そうしている限り、人はものを考えることから最も遠いところにいる」 罪を償うということは、自分の過去と丁寧に向き合うことなしには成立し得ない。
  • 1900年1月1日
    美しい星
    美しい星
    わたしは数年ごとに金閣寺と美しい星を行ったり来たりして、好きを深めて興奮する趣味があるらしい。 ◉の話。破滅の話。美の話。 白鳥座三人衆との議論が凄まじい。 人類の5つの美点。 「彼らは嘘をつきっぱなしについた。彼らは吉凶につけて花を飾った(幸福が瞬時であることは認めながら、同時に不幸も瞬時であってほしいと望んだ)。彼らはよく小鳥を飼った。彼らは約束の時間にしばしば遅れた。そして彼らはよく笑った(虚無がいちいち道化た形姿を示すたびに、彼らは笑った)。」 こんな眺めが宇宙から消えるのは、残り惜しいことではないだろうか。 「人間は全然、生きたいという意志など持ってはいない。 生きる意志の欠如と楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間というものだ。 『ああ、もう死んでしまいたい。しかし私は結局死なないだろう』これがすべての健康な人間の生活の歌なのだ」 「人間はもうおしまいだ」 「救済は決して来ない」 「いなくなった人類万歳!」 物語の終焉。 銀灰色の円盤が、息づくように、緑いろに、又あざやかな橙いろに、かわるがわるその下辺の光りの色を変えているのが眺められた。 三島由紀夫が広げる思想の大風呂敷に包まれて、呆気にとられたまま崩折れる。 好きだ。
  • 1900年1月1日
    花嫁化鳥
    花嫁化鳥
    寺山修司の紀行文というだけで気持ちが高揚し、飲み込まれるようにして読んだ。 老婆と子どもしかいない島。 夕暮れ時のかくれんぼ。 鯨の子どもに戒名をつけて墓に入れる。 「イエス・キリストが青森で死んだ」という一文を読んだときには、人目も気にせず仰け反って笑ってしまった。 恐山の盲目の巫女がキリストの口寄せをする。 寺山修司の修辞にかかれば、虚構が現実に侵入する。 どこまで本当か分からないのに、彼の歩いたその土地で、私も夢を見たくなる。 話して歩いて蒐集し、金田一氏のごとく推理を組み立てるのが憎いところ。 楽しい読書だった。
  • 1900年1月1日
    鳩の撃退法(下)
    上巻の始めからずっと、あなた、あなたと、読者は小説から呼びかけられながら読み進める。 そして終盤。 「な、聞こえているか。僕のことばは、あなたに届いているか?」 「読者のつかない小説は、書いても書いても未完成か?この小説の存在は、無か?ひとに読まれない小説をなんのために書いているのか、理由がわからない。わからないままここまで来てしまったと、あなたには伝えておきたいのだ。伝えておきたいのだ、と強く書いても、読むひとがいなければどこのだれにも伝わらないわけだが、それでもあなたに聞いてほしいのだ」 孤独な小説家は、よりにもよってひねくれて、大衆に愛された「ピーターパンとウェンディ」の引用を、この、誰が読んでくれるかもわからない小説のいたるところに散りばめた。 ピーターパンは、そこに大勢の読者がいると疑いもなく信じ、子どもたちに向かって「もし、きみたちが信じてくれるなら、手をたたいてください。ティンクを殺さないでください」と呼びかける。 そして、当然のように、ティンカーベルは息を取り戻す。 そんなことを信じて小説を書けたならば、どんなに世界は違って見えることか。 表紙にコーヒーの染みがついたピーターパンは、紛失しても、手放しても、そのたびに津田伸一の手もとに戻ってきた。 伝書鳩のように。 運命は丸い池を作る。 池を回るものはどこかで落ち合わなければならぬ。 事実を曲げて書いた小説が、つまり現実から遠ざかろうとしたストーリーが、一周して現実の先へと出てしまう。 気がつくと、うしろから現実が抜き返そうと追ってくる。 本書もぐるぐると時系列を何周も回り、最後はまた、何も知らなかった頃の津田伸一に戻ってくる。 同じところを回りながら、微妙にずれた軌道を描き、雪上の轍は深さを増していく。
  • 1900年1月1日
    鳩の撃退法(上)
    佐藤正午は、Web岩波「たねをまく」の「小説家の四季」にて、2022年夏と秋に「小説家の不親切」をぼやいている。 言行一致。 本作でも津田伸一をとおして、あらゆる固有名詞とその付属物を、言葉を尽くして説明させる。 周囲の人間の言葉を使って「悪い癖だよ、どうでもいいことにこだわるなよ」と繰り返し批判させながらも、その書き方をやめない。 この人は、読者が小説内で新奇な単語に出くわしてまごつかないように、過保護なまでに抽象度を下げる。読者が言葉どおりに、つまりは作者の意図どおりに小説を受け取ることを、強く望んでいる。 何度となく読んでは、小説の面白さに惹き込まれる。 佐藤正午は好きだ。 石井桃子訳のピーターパンとウェンディ、父親を「ヒデヨシ」と呼ぶ娘と一家三人神隠し事件、飛んでいった鳩、何でも燃やしてくれるクリーンセンター、大雪の2月28日夜。 謎めいて魅力的な部品が散りばめられて目移りするが、この小説のテーマは「小説」だ。 幸地秀吉がミスタードーナツで読んでいた新刊小説の帯には「別の場所でふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった」との謳い文句があった。 津田伸一はそれに対して「だったら、小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな」と言った。 たらればが有効なのは、現実の取り返しのつかない一回きりの人生においてのみだ。 小説家は小説を心ゆくまで書き直すことができる。 津田伸一は事実を書いているのではない。 事実をもととしながらそうあってほしいと望むストーリーとその結末を、言葉によって創造している。
  • 1900年1月1日
    世に棲む患者
    世に棲む患者
    対話編「アルコール症」が好き。 サン・テグジュペリの「星の王子さま」にアル中の星が出てくる。 「恥ずかしい、恥ずかしい、アル中であることが恥ずかしいのです」と言って、またぐいと一杯ひっかける。 アルコール症は恥の文化。 辱しめに敏感であると同時に、傷口に塩をすりこむように自虐的に恥にまみれることを求める。 「あなたはアルコール中毒だ」と医師が断定することは、そのような蟻地獄的自虐に加担し、倒錯的快感を高めるばかり。 それならば、底つき体験を経て自身の無力を自覚し委ねる流れは、自意識を病に寄せてしまう、危険なステップだ。 できることならば、底をつくことなく、生き延びて回復をしていただきたいところだが、如何。 患者の病以外の部分に関心を向けるのが上手な方だと知ってはいたが、まさか、患者のお髭事情にまで言及があるとは。 驚いて、可笑しい。 治療中の患者がヒゲをたてるのは良い兆候なので間違っても母や妻が剃らせないこと、 そのような剃髭の強制は去勢に近い意味を持つこと、ヒゲを剃れという周囲の圧力に抗する能力(剃髭圧力抵抗能力)と酒を飲まずにいられる能力は平行するという考察など、 臨床的視点というものはここまで及ぶのか!と、愉快で笑ってしまった。 さすが中井久夫先生。
  • 1900年1月1日
    あゝ、荒野
    あゝ、荒野
    寺山修司は、私の「特別」だ。 いつだって、頭の中に血をぎゅんぎゅんと巡らせてくれる。視界がチカチカと眩むほどに、過剰な血を供給する。あゝ。 寺山修司は、この、生まれてはじめての長篇小説を、歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズなどの「手垢にまみれた言葉」をコラージュすることで作り上げた。 ラストシーンには惚れ惚れする。 「一発、二発、三発、四発、五発、六発、七発!」 八十九発まで連なる、この、単なる数字の羅列が、どうしようもなく「詩」だ。 一発一発を、殴り、殺すようにして、心を揺らしながら全て書き写す。 「私は近頃、「ことば」でも「性」でもなく「暴力」というものに興味を持つようになってきた。暴力という伝達行為。暴力という連帯方法。これはいかがなものであろうか?何人も、戦場に於ける兵士のようにきびしく「相手」を見張ることは出来ないし「相手」の一挙手一投足に興味を持つことは出来ない。そんなことから、私はボクシングに心魅かれるようになった。あの、殴りながら相手を理解してゆくという悲しい暴力行為。相手を傷つけずに相手を愛することなどできる訳がない。勿論、愛さずに傷つけることだって、できる訳がないのである。」 「いかにして新宿新次を憎むか。憎まなければ新次と試合をすることは出来ないし、試合しなければ「新次に勝つ」ことは出来ないだろう。そしてそれなしでは、彼は自分自身の人生の意味を解説することができないという気がするのである。」 「あいつはたぶん、俺に殴り倒されようとたくらんでいるのだ。俺の手で徹底的に打ちのめされ、血まみれになって倒れることによって、俺とのっぴきならない関係を持とうとしているのだ。」 「俺はとうとう「憎む」ということができなかった一人のボクサーです。俺は皆が好きだ。俺は「愛するために愛されたい」」 目の前が 一望の 荒野だ
  • 1900年1月1日
    ぼくが狼だった頃: さかさま童話史 (文春文庫 て 1-2)
    「特にしつけのやかましい家庭に育った訳でもないのに、私は大人になったら「名作童話に復讐してやりたい」と思っていた。ピノキオがポルノだったり、はだかの王さまが形而上学者だったり、赤ずきんがニンフォマニアックだったりする、という事実を「実話雑誌」風に暴露し、それらが「大人にとって都合のいい子供にしつけるための教材にすぎない」と言いたかったのだ」 星の王子さま然り、寺山修司には「復讐してやりたい物語」がいっぱいあるのだな、と可笑しい。 物語への最大の復讐とは何か? それは、物語を「書き直してしまうこと」なのだ。 「事実を事実としてだけ受け入れていても、あっというまに月日は流れる。風車を巨人に見立てる位の想像力でもなければおもしろくもおかしくもない」 新しい歌をおぼえてみる、ちょっと風変わりなドレスを着てみる、気に入った男の子とキスをしてみる。 世界と出会い直すこと、世界を物語化することの尽きない魅力を、寺山修司が何度も教え直してくれる。 天井桟敷で観客たちや市民をスポットライトの下に引っ張り上げたように、読書においてさえ、この人は、決して読者を受取手に留めてくれず、穴埋め問題や続きの公募によって関与を強いてくれるのだ。
  • 1900年1月1日
    寺山修司著作集(第3巻)
    寺山修司著作集(第3巻)
    寺山修司という現象に、なぜ私は、こんなにも惹かれるのだろうか。そもそもは、釧路の北海岸で弓子を探す「白夜」を読みたくて、思い切って買った。 それから、ことあるごとに、繰り返し少しずつ読んできた。幼少期から林檎が嫌いだが実家の母が林檎をくれた年末、「アダムとイヴ、私の犯罪学」を読んだ。三島由紀夫の文学館で美輪明宏の「黒蜥蜴」のポスターを見た帰り道、「毛皮のマリー」を読んだ。引っ越し先で偶々、天井桟敷という酒場を見つけ、隅っこのカウンターで「観客席」を読んだ。宮沢賢治を読んで背徳感を抱きつつ「奴婢訓」を読んだ。 「ほうら、事実が死んだ!」「生れてくる赤ちゃんの背中に、あたしの肉のお墓を立てて下さい」「遅い。もう手遅れだ。「前から六列目、右から五番目」に坐った人が今夜の主役になるって台本に指定されてある。あんたはもう個人じゃない、今夜の「事件」なんだ」「林檎はこの世で一番小さな地球!片手にでものせられる「創世記」のいれもの。毎日毎日、林檎を食って食って食いまくってやる…」「観客席は、安全じゃありません。(全員)そう、安全じゃない!」「何がかくされているかわからない。(全員)そう、わからない!」 「たしかにわれわれは日常生活の中で、つねに何かを演じつづけている。人生というものは数十年におよぶ一幕劇であり、その中での虚像と実像との葛藤というのは、そのまま生きるための条理の略奪戦を思わせる何かがあるようである」 「この戯曲は、新宿歌舞伎町を舞台にした私版の聖書である。トイレットペーパーに書かれた雅歌であるとともに、憎しみのバラードでもある。欲深くなったイヴと老いたるアダム。彼ら「作られた人びと」が、自らもう一つの天地を創る日のためにこの一幕を捧ぐ」
  • 1900年1月1日
    黄昏の百合の骨 (講談社文庫)
    一群れの百合。 鈍く光る白い百合の中から、芯のある香りが漂い出している。 この香り。 決して逃れることのできない、どこまでも迫ってくる香り。 魔女の住む屋敷。 おおきな魔女は死んでしまった。 美しい祖母。 美しい叔母。 美しい理瀬。 この家の2階には妖精が住んでいる。 百合の花は妖精が好きな花だから、この家には百合を飾るんだ。 不穏を強く含んだ香りにまとわりつかれて、くらくらする。 理瀬の少女時代が終わる。 訣別して、旅立つ。 一緒に飛んでいってあげられたらよかったけれど、残念ながら無理みたい。 理瀬シリーズの続編に進もう。 「悪は全ての源なのだ。 善など、しょせん悪の上澄みの一部に過ぎない。 悪を引き立てる、ハンカチの縁の刺繍でしかないのだ。 でなければ、善がいつもあんなに弱く、嘘くさく、脆く儚いことの説明がつかない。」
  • 1900年1月1日
    黒と茶の幻想(下) (講談社文庫)
    奇妙な場所で、酒を飲みながら読んだ。私は今回の旅で、ひたすらに読んでいる。巨大なクスノキが生えた寺院の頭上を、人工物が走っていく。坂道の多い細い道を、呼吸を乱しながら登った。空が青い暑い日。猫の多い道。まんまるの石に猫の絵が描かれ、そこかしこに置かれている。たくさんの目に見られている。梟の店でビールを頼み、縁側みたいな席でずっと飲んでずっと読んだ。何をしているのかしら、私は。歩き続け、登り続ける彼らに同化したかったのかしら。なんと魅力的な旅。なんと素敵な4人組。美しき謎と過去への思索の旅。森は続いている。 「心なんてもの、愛なんてものを発明したのはどこのどいつだろう?そいつはとっくに首を吊られて処刑されているに違いない。いつごろから愛がこれほど幅を利かせるようになったのだろう。不思議でならない。歌が下手だったら歌手になれるはずはないし、成績が悪ければ行ける大学が限られてくることは誰もが納得する。なせ愛に限っては自分もいつか素晴らしいものを与えられるはずだと無邪気に信じることができるのだろう。どいつもこいつも愛乞食だ。」 蒔生の傲慢な利己は揺らがない。蒔生の根元にはたくさんの人間が埋まり、鮮やかな桜が咲く。 鹿が出てくる。鹿。いつも道の先にいる。行く手に立っていて、さっと消える。思わせぶりで、何か意味がありそうに感じてしまう。 啓示だと言うなら、私は、この本を抱えて入ったこじんまりとした書店を思い出す。珈琲を飲みながら本棚を眺められる小さな家。買うと名刺の裏に、女性が、リクエストを受けた絵を描いてくれる。何がいいですか?と穏やかに尋ねられて、私は、鹿を頼んだのだった。木々に身を隠しながらこちらを眺める、角に金色の混じった、大きな目の鹿を描いてくれたのだった。 なぜ私、あの時、ほんの少し迷って、鹿を選んだのかしら。
  • 1900年1月1日
    黒と茶の幻想(上) (講談社文庫)
    「過去」の中にこそ本物のミステリーがあるのだ。時間に、記憶に、街角に、蔵の隅に、音もなく埋もれていくものの中に「美しい謎」がある。我々は過去を取り戻すために旅をする。 この旅のテーマは「非日常」。サブテーマは「安楽椅子探偵紀行」。4人の男女が集まる。Y島を歩く。しきりに喋る、喋る、喋る。日常会話ではない会話をする。 今まで見た映画で何が一番好き?−長谷川和彦の「太陽を盗んだ男」。結婚する前に相手に一つだけ質問できるとしたら?何が起きても、私のことを理解しようとしないでくれますか。一番怖い物は?紫陽花。 ただ、森の中を4人で歩くだけ。歩く。話す。食べる。飲む。眠る。日常から離れたところで、いくら話しても何も変わらない過去を、謎を、ただ話し、考え、解いていく。 「森は生きている、というのは嘘だ。いや、嘘というよりも、正しくない、と言うべきだろう。森は死者でいっぱいだ。森の中には生者と死者とが混在している。足元には死者が堆積し、木々の梢からは赤ん坊の笑い声が降る。気の遠くなるような時間の蓄積を目の当たりにして、我々は森に圧倒され、畏怖を覚えるのだ。」 寛いでいる人間を前にして感じる気まずさや気後れはなんだろう。 西へ、西へと移動をしながら読んだのだ。暑いと聞いていたものだから、覚悟して薄着で行ったところ、どこもかしこも冷房で、かえって寒かったことが、肉体に刻まれた印象だった。飛行機で、電車で、読んで読んで読んで。歩いている人たちを読みながら、私はただ座って、凄い速さではるばる遠くまで運ばれてしまったのだった。移動した先で何もしないで過ごす。1日中本屋にいた。 ただ、1週間ずっと、本を読んでいた。
  • 1900年1月1日
    三月は深き紅の淵を (講談社文庫)
    物語だ。謎に「日常」を侵食されるのが、震えるほど面白い。知る人ぞ知る「三月は深き紅の淵を」という私家本。噂ばかりが囁かれて人々の興味を煽り、存在そのものにたくさんの物語が加わって、知らぬ間に成長していく謎めいた本。第一部「黒と茶の幻想」第二部「冬の湖」第三部「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」第四部「鳩笛」ずるずると引きずり込まれてしまう小説。ああ、読みたい。そんな、現実が曖昧になるような、甘美な読書に没頭したい。たかが一個人の表現手段に使われるほど、物語は小さくない。物語は物語自身のために存在する。 この小説は箱物。千一夜物語みたいに、物語の中に物語が入れ子になって、中に中に沈んでいくと思いきやいつの間にか裏返って、現実世界を物語が食ってしまう。本書の最後、第四章「回転木馬」。書き手が今まさに小説を書き始める場面で、書き出しの文句をあれやこれやと試行する。その本の名前は「三月は深き紅の淵を」。第一章は「黒と茶の幻想」。書き出しはこんな風に始まる。「森は生きている、というのは嘘だ。いや、嘘というよりも、正しくない、と言うべきだろう。」。最後の行まで読み終え、物語に酔ったまま、書店の恩田陸の棚に足を運ぶ。ずらりと並んた文庫の中に「黒と茶の幻想(上)(下)」の背表紙が目に留まる。おいおい待ってくれよ、と、予感に震えながら手にとる。その本の第一章の書き出しは、「森は生きている、というのは嘘だ。いや、嘘というよりも、正しくない、と言うべきだろう。」。嗚呼。これは。 物語が終わっても、物語から抜け出せない。これだから読書は、もう、たまらなく面白いんだ。物語を続けよう。
  • 1900年1月1日
    ブラック・ベルベット
    おっもしろ。 恵弥シリーズ大好き。 濃密な言葉をジリジリと浴びてすっかり満足してしまう。 登場人物の思想思考知恵知識に圧倒されて、ついつい、自分の頭を使うのが億劫になって、自分の語彙が情けなくなって、もう感想の言語化は放棄した。 本筋とは全く関係はないが、T共和国のエフェソス遺跡での会話。 「この太陽、ちょっと殺気を感じるわね」 「『異邦人』か?」 「太陽が眩しすぎて、人を殺すどころかこっちが熱中症で死んじゃうわ」 こういうやりとり、学生時代から好き。 中身のない、知識を玩具みたいに雑にする会話の妙、堪らん。
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