
勝村巌
@katsumura
2026年1月4日
平和と愚かさ
東浩紀
読み終わった
ゲンロンのサイン回配信でサイン本を購入。2025年の年末から2026年の年始にかけて読んだ。2026年の1冊目としては年初から濃厚な読書体験ができた。
東浩紀は数年前から突発配信などの長時間の1人語りをかなり聴いてきた。会社経営者という立場を鑑みるとかなり正直な本当のことを語る、好きな語り手の1人だが、著作も大変によく、古いものから最近のものまである程度は読んでいるが、どれも素晴らしい。
この本は戦争が止まず、SNSでは分断が止まない、この世界で平和とは一体、何なのか、どのような状態を平和と考えるとよいのか、ということを、東浩紀が実際に訪れた世界中の都市への紀行文と哲学的思索がつづれおりに重なっている、という構成になっている。
ほぼ500ページという大著で著者も哲学者ということで難解な言葉の羅列かと思いきや、そんなことはなく、難しい概念を紀行文と合わせて、とても分かりやすく平易な文章で書いてあり、非常に読み口が軽いのも特徴。大切なことが書かれているので広い読者に届いてほしいと感じる。
さて、言いたいことを言いすぎて友と敵を、明確に分断しがちなこんなポイズンな世の中で東浩紀が訴えるのは、平和というのは、政治について考えないでよい範囲がより広く担保されている状況のこと、なのではないか、ということである。
例えばパンダを見て、これは中国による外交政策の一環なのだ、と感じたり、スタバを楽しんでいる人を見てあんたはイスラエル支持者よね、とレッテルを貼ったりする行為からは分断こそ生まれるが平和からは遠ざかる、という考え方である。
政治的に考えない、というのは愚かさに通じる、という言説があるが、哲学的に考えないことを考える、ということに挑戦していて、そこは大変にエキサイティングに感じる。
紀行文としてはサラエヴォ、ウクライナ、チェルノブイリ、中国、広島、どこかのリゾート地などを訪問して、そこの戦争や人災の負の記録と向き合って、その表象を探り、記録と記憶について思索を深めている。
逍遥、というのとは少し違うが、移動して見知らぬ土地へ赴き、そこで気づいたことをきっかけに論を展開しており、これはわかりやすい。
負の記録としては現地の博物館などに訪れて虐殺や戦争などについての表現の仕方をとらえている。
記録と記憶、というのは起きた事実をどう捉えるか、という点で重要な観点となる。
記録的な側面は、その記録は事実だが例えば博物館などに展示される場合、その表現は博物館側の意図により大幅な訂正可能性を持つ。例えばコップの中に水が半分あるとして、これをあと半分しかない、と表現するか、まだ半分も残っている、と表現するかによって、観衆の捉え方はコントロールできる。文脈を持たない人たちにとってはそこに批評性を持ち込むのはなかなか難しい。
また、博物館の展示はコンセプトによって訂正可能性があり、その表現は流動的となる。
記憶についていうと、人間の寿命は短いため、当事者というのは世代を同じくするため同じような時期にパタっといなくなってしまう。日本においても戦時中の記憶を保っている人々はほぼいなくなってしまっている。この流動性は人間という種の限界と言ってもいいのかもしれない。
つまり、世界中に残る負の出来事を次世代に残していくということは常に訂正可能な事象として曖昧な形で継承されていく、というわけだ。
それに対して、複雑な記録と記憶をどのように繋いでいくか、というところに東浩紀が注目したのが、文学における方法とインスタレーション的な展示による方法となる。
文学については村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』と大江健三郎の『治療塔』『治療塔惑星』の2篇を例に挙げて語っていてとても興味深かった。
『ねじまき鳥クロニクル』は学生の頃から大変好きな作品で繰り返し読んできた。人間が抱えている暴力についての物語と捉えているのだが、物語の中に唐突に第二次大戦中の1939年のノモンハン事件に関連する特殊作戦の展開が描かている。
現代を生きる主人公は様々な偶然に導かれて、その記憶の蓋を開けて、深い井戸に潜ることにその記憶と直結していく、という流れがある。
これは失われた記憶というものをキーに、ある種の戦争加害と我々は無関係ではない、ということを小説的な手法で表現している構成だ。
マジックリアリズム的にも読めるこの構成をかなりシリアスに忘却への具体的アプローチにしているのが、この小説のすごいところなのだろう。またその視点を忘れずに読み込んでみよう。
『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公はいろいろと考えて行動を起こすが基本的には意図しないところで意図が達成されたり、徒手空拳に待っていると向こうから答えがやってくるというような状況設定が多い。現実に翻弄される、ということと忘却された事実に導かれている、というところが裏で結びついているようで、そこを読み解くとまた見え方が変わってくる気がする。
村上春樹では2000年刊行の『神の子どもたちはみな踊る』の中に「かえるくん、東京を救う」という短編があって、これは村上春樹さんによると、なぜか大変に人気のある短編なのだそうですが、ここでも近いテーマが別のアプローチで描かれている気がしている。
東京の地下にいる巨大なミミズである「なめくじら」が大地震を起こそうとしている。それをかえるくんと主人公の片桐が片桐の夢の中で協力して退けるという話なのですが、夢というのは記憶であって事実ではない。しかし、それは現実に対しても確かに効力を持ち得る、というようなテーマというか、こちらは大変に前向きで勇気や責任について直接的に書いている、気持ちの良い話(ラストは少しダークですが)なので、興味のある方はぜひご一読あれ。
また大江健三郎の作品でも広島や原水爆をテーマにしたSFが近いような記録や記憶を元にそういった負の遺産をどのように人間が消化(昇華?)していくのかを扱った作品がある。
大江健三郎と村上春樹の村上初期の作品に対する大江健三郎の拒否反応を知っていると、その後の村上春樹の小説家としてのキャリアを見てきた自分としてはこの2人がこのようにある意味、並列に扱われているのを見るのは嬉しいことだ。
AIなどの発展により、逆に人間の持つ小説や文学などの人文学的な価値は高まるだろうと東浩紀は書いているが、これらの小説に触れてきた自分としては、それは確かにそうだ、その通りだ、と思う。
また、記録や記憶にとって博物館の展示、特にノンバーバルなインスタレーション的な展示がものごとの持つ複雑な多様性を表すために効果的だ、という指摘があり、そこは大変に共感した。
例えばワシントンにある国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館では、アメリカの憲法に人間の平等の一文を書いた3代大統領のジェファーソンの像があり、彼は独立宣言の父などと称されつつも、自身は600人にものぼる大量の奴隷所有者で、あまつさえ当時、自身の奴隷だった女性との間に複数の子を設け、その子供も奴隷として扱ったということが歴史的事実として広く認識されているそうだ。
かなり矛盾を孕んだ人物像だが、それをこの歴史文化博物館ではそのジェファーソンの背後に600個のレンガの壁をたて、そこに奴隷の名を記すことで表現しているのだという。
言葉でジェファーソンの矛盾を説明すると恣意的になる。そこで、本人の像とレンガの壁、そして記名による個人の顕現により、様々な両義性を表しているのだろう。
戦争についての美術としてはゲルハルトリヒターの『ビルケナウ』やミハ・ウルマンの『空の図書館』など、優れたものがあるが、単に激烈な表現をするだけでなく、ノンバーバルなだけに形や色で表現することの可能性について言及されているのは様々な博物館や美術館を歩いた東浩紀ならではの視点と感じた。
またウクライナの現代美術家ジャンナ・カディロワについての言及があった。ジャンナは愛国に基づき、自身の作品の売り上げをウクライナに寄付して戦争協力している、ということが展示内で明言されており、そこについて東浩紀は否定的だった。
アートの持つ価値が平和に結びつくことを知っているからこその違和感だと思う。強いメッセージだった。
かなり長くなってしまった。この『平和と愚かさ』にはこのような人文学やアートが思考を政治から解放する装置として機能するということが力強く述べられていると思う。
僕は自分の興味の赴くところで、上記の部分について感想を書いたが、それ以外にも、サラエヴォ包囲、731部隊、チェルノブイリ原発事故などについても詳細な歴史と哲学的な思索が述べられており、そちらも現代を捉えるのに大変参考になる論説となっている。
大変な名著と思います。みなさん、ぜひご一読ください。
