つのぶえ
@shofar
2026年1月6日
沈黙
遠藤周作
読み終わった
きつい作品だった。
①ロドリゴとガルぺの対比
ガルぺは信者たちとともに海に沈むことを選んだ。通辞はそれを「潔かった」と言い、ただ見ているだけだったロドリゴを「卑怯者」と言っていたが、本当にそうなのだろうか。
殉教者の命を背負うということ自体が、人間の負うことができる責任の範疇を超えているのではないか。それを、共に死ぬことによって背負った(あるいは、背負うことを諦めた)ガルぺと、担いきれない重荷を前に固まったロドリコ。どちらが信仰者なのか、とか、どちらが真剣だったのか、とかを問うこと自体が、裁きの座に立っているような感覚があり考えたくない。
ただ、後にロドリゴが選択をした時、ロドリゴがそのような形で責任を負う決意をすることができたのには、ロドリゴがキリストの赦しを体験して、キリストにある意味で委ねたからだったということは、忘れないようにしたい。
②キチジローについて
しょうがないとも思う一方で、時代に責任を負わせ、ロドリゴに赦しを負わせるような態度には憤りと苦しさを感じる。弱さに向き合わないことへの怒り。それは自分の中にもあるという苦しさと、弱さに向き合うためには強さが必要であるのであれば、それは強者の理屈に過ぎないのではないかという苦しさ。
信仰が試されるとき、躓かない人は幸いだと思うが、では、躓く人には信仰はないのか。これは、神にしか分からないだろう。
自分の弱さに安心して向き合うことができるような時間や場所、関係性が支えになると思うけれど、この小説のような時代や状況に、それが得られるかというと…。現代でも、そのような場を果たして体験できるかどうか。
③日本人の信仰について
根が絶たれて別物になるということは十二分にあり得る。リステラでバルナバがゼウス、パウロがヘルメスと呼ばれたように、それぞれの受容しやすい形に教えが捻じ曲げられることはある。日本ではそれが起こりやすいというのも、検討は必要だがあり得る話だし、いわゆるキリスト教国でそれが起きていなかったかというと、そうは言い切れないと思われる。
一方で、全ての人がそのように自分に受け入れられる形の信仰、キリスト教ではないいわば自分教を信仰しているかというと、ロドリゴの考えの通り、そうではないと自分も思う。問題は、何をどれくらい正確に理解して信仰していれば、救われるのかという点にあるかもしれない。神を完全に理解することは人間にはできない。
④沈黙する神
使徒たちのように、あるいはモーセのように、直接的に神からの語り掛けを受けられる人は多くない。現代の我々には聖書が与えられていると言われることがし、事実それは大きな恵みであるが。聖書を読んで神の答えを見出す人もいるが、それが本当に神から出ているのか、それとも自分の望みを投影しているのか、どうやって判断できるのか。
祈りへの答えを求めるためには、神が答えたということを知れる形で祈る必要がある。神のことばを求める思いを持って、聖書を読む必要がある。聞く耳のある者は聞きなさい、である。
だが、いつも自分は神に問うているが、本当に問われているのはむしろ自分自身であるのではないか。神が私に問うているその問いを、その声を、聞けていないのではないだろうか。
⑤自分は、どうか
聖書の中に、自分が迫害され、鞭打たれ、殺された信仰者たちは出てくるが、自分のために身近な者が苦しめられた信仰者はあまり思いつかない。
ヨブの子どもたちは皆死んだが、ヨブ自身がロドリゴのようにその生死を左右する立場に置かれたわけではなかった。
あえて言うのであれば、神ご自身だろうか。神はヤコブが打ち首にされるのには沈黙され、投獄されたペテロを獄中から救い出した。
ロドリゴは、キリストの愛と憐れみと赦しを見出した。パウロやモーセは、同胞のために自分がいのちの書から名前を消されても良いと言った。
自分は、どうだろうか。自分自身の苦しみのために信仰を棄てるだろうか。あるいは、誰かのために神を棄てるだろうか。
