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つのぶえ
つのぶえ
@shofar
  • 2026年2月14日
    ねじまき鳥クロニクル 第2部
    決意を持って選ぶということ。その道の先やその選択の理由が十分に理解できていなくても、あるいは、その道を進むと負けてしまうかもしれないとしても、それらを飲み込んだ上で進むことを選ぶという主体性、能動性。
  • 2026年1月26日
    信仰
    信仰
    読みました。何と言っていいのか分からないので、記録を書かないでおこうかとも思いましたが、この前色々書きすぎたので、読めて良かったと思ったことだけ残しておきたいと思いました。
  • 2026年1月16日
    タダイマトビラ
    タダイマトビラ
    何か、うまく掴めない、分からない、ピンとこない、言葉にならない、という感想。 作品から距離を置いて考えれば、家族とは何かとか、脳を騙すということとか、世界を変えてしまう、崩壊させてしまうほどの、家族なるもののこととか、色々考えることはできるかもしれない。 けれど、自分に引き付けて考えたときに、ぼやける。上手く感覚が励起しない。自分が、主人公の言うところの、騙されることを良しとして、(家族とは違うものではあるが)一つの世界、不思議の国に、自分を置いているから、だろうか。 作品からはズレるけれど、考えるとか分析するとかいうことを捨てて、感じるままに感じられたら良いのになと思う。 (2026/01/17追記) 終盤にある意味の崩壊は、主人公の心の次元での出来事だと思っていた。お迎えというのも、彼氏だろうと思っていた。主人公の身に起きた覚醒というものが、精神病発症の体験のように読んでしまったことが原因だと思う。 その既存の意味の崩壊によって主人公が見出した新たな、原初の意味というものを、家族に伝えようとする主人公の在り方が、それまで既存の価値に(主人公の言い方では)騙されてきたことと重なり、構造がただ逆転しただけではないかと思った。 なので、結末としてはおそらく人死が出て終わるのだろうと思ったのが、本当に世界の崩壊が描かれたので、読み手の自分としては微妙な感じになったのだと思う。 こういう風に作品を自分の知識で意味付けて分析的に読むということや、その読みとのズレを違和感として表現することが、作品そのものを読み、味わう態度からは遠く、上の立場から裁くかのような読み方になってしまうということを忌避した結果、何も言えなくなったのだと思う。 SNSに投稿することが、あまり良くないのかもしれない。
  • 2026年1月8日
    カンガルー日和
  • 2026年1月6日
    殺人出産
    殺人出産
    落ち着かない気分になる。文学作品の最後になぜ解説という読了感を壊してかねないものが載っているのがずっと疑問に思っていたが、こういう気分を鎮めて距離を取るために使えていたのではないかと思った。つまり、解説もなく、あっさりとした死で終わるこの作品と、まだ距離を取れずにソワソワしている。 殺人や性行為、出産、死のもつ、グロテスクな部分を、社会が綺麗にしようとすることで、かえってそのグロテスクさに思いを馳せることになるよう。 今の社会が持つ普通というものが、実はもっと相対的で、移り変わるものであるということが描かれているようにも思うが、果たして本当にそうなのか。 本当はもっと絶対的なものがあって、その絶対的なものを見失ったが故に、全てが相対化されて、移り変わり、やがて消えていくような今の社会になったのかもしれないと思ってしまう。 しかし、もっと清らかなものがあるのではないかという願いすらも、この作品の中では、従姉妹のミサキちゃんの純朴な祈りによって、否定されているのかもしれない。
  • 2026年1月6日
    沈黙
    沈黙
    きつい作品だった。 ①ロドリゴとガルぺの対比 ガルぺは信者たちとともに海に沈むことを選んだ。通辞はそれを「潔かった」と言い、ただ見ているだけだったロドリゴを「卑怯者」と言っていたが、本当にそうなのだろうか。 殉教者の命を背負うということ自体が、人間の負うことができる責任の範疇を超えているのではないか。それを、共に死ぬことによって背負った(あるいは、背負うことを諦めた)ガルぺと、担いきれない重荷を前に固まったロドリコ。どちらが信仰者なのか、とか、どちらが真剣だったのか、とかを問うこと自体が、裁きの座に立っているような感覚があり考えたくない。 ただ、後にロドリゴが選択をした時、ロドリゴがそのような形で責任を負う決意をすることができたのには、ロドリゴがキリストの赦しを体験して、キリストにある意味で委ねたからだったということは、忘れないようにしたい。 ②キチジローについて しょうがないとも思う一方で、時代に責任を負わせ、ロドリゴに赦しを負わせるような態度には憤りと苦しさを感じる。弱さに向き合わないことへの怒り。それは自分の中にもあるという苦しさと、弱さに向き合うためには強さが必要であるのであれば、それは強者の理屈に過ぎないのではないかという苦しさ。 信仰が試されるとき、躓かない人は幸いだと思うが、では、躓く人には信仰はないのか。これは、神にしか分からないだろう。 自分の弱さに安心して向き合うことができるような時間や場所、関係性が支えになると思うけれど、この小説のような時代や状況に、それが得られるかというと…。現代でも、そのような場を果たして体験できるかどうか。 ③日本人の信仰について 根が絶たれて別物になるということは十二分にあり得る。リステラでバルナバがゼウス、パウロがヘルメスと呼ばれたように、それぞれの受容しやすい形に教えが捻じ曲げられることはある。日本ではそれが起こりやすいというのも、検討は必要だがあり得る話だし、いわゆるキリスト教国でそれが起きていなかったかというと、そうは言い切れないと思われる。 一方で、全ての人がそのように自分に受け入れられる形の信仰、キリスト教ではないいわば自分教を信仰しているかというと、ロドリゴの考えの通り、そうではないと自分も思う。問題は、何をどれくらい正確に理解して信仰していれば、救われるのかという点にあるかもしれない。神を完全に理解することは人間にはできない。 ④沈黙する神 使徒たちのように、あるいはモーセのように、直接的に神からの語り掛けを受けられる人は多くない。現代の我々には聖書が与えられていると言われることがし、事実それは大きな恵みであるが。聖書を読んで神の答えを見出す人もいるが、それが本当に神から出ているのか、それとも自分の望みを投影しているのか、どうやって判断できるのか。 祈りへの答えを求めるためには、神が答えたということを知れる形で祈る必要がある。神のことばを求める思いを持って、聖書を読む必要がある。聞く耳のある者は聞きなさい、である。 だが、いつも自分は神に問うているが、本当に問われているのはむしろ自分自身であるのではないか。神が私に問うているその問いを、その声を、聞けていないのではないだろうか。 ⑤自分は、どうか 聖書の中に、自分が迫害され、鞭打たれ、殺された信仰者たちは出てくるが、自分のために身近な者が苦しめられた信仰者はあまり思いつかない。 ヨブの子どもたちは皆死んだが、ヨブ自身がロドリゴのようにその生死を左右する立場に置かれたわけではなかった。 あえて言うのであれば、神ご自身だろうか。神はヤコブが打ち首にされるのには沈黙され、投獄されたペテロを獄中から救い出した。 ロドリゴは、キリストの愛と憐れみと赦しを見出した。パウロやモーセは、同胞のために自分がいのちの書から名前を消されても良いと言った。 自分は、どうだろうか。自分自身の苦しみのために信仰を棄てるだろうか。あるいは、誰かのために神を棄てるだろうか。
  • 2026年1月5日
    日日是好日
    日日是好日
    同期に一度だけ、お茶のことを教えてもらったときのことを思い出した。型をとても大切にしているのだとそのときも感じたことを覚えている。 形の中に心が入ってくる。一方で、型では決まりきらない臨機応変さも求められるというのが面白さだと思われた。 何よりも、茶室という、先生に守られた、コンクリート製ではない世界で季節を感じられることを羨ましく思った。駅やデパート、繁華街を歩くと、あまりにも人工的で機械的な音に埋め尽くされていて苦しくなる。茶室が、同じように人為的に造られたものであったとしても、むしろその型によって、季節や自然を感じられるのだろう。 また、お茶という体験を通して、自由さや気づき、自分自身を、受け止められたというのも羨ましく思う。時間もそれ以外のものもかかっていたのだろうけれど、そういった体験こそ、生きるということの支えであり、意味であるように思う。
  • 2025年12月31日
    密やかな結晶 新装版
    途中、ラストはどうなってしまうのだろうかと思いながら読んでいたが、隠すものが反転する終わりは何故か納得感があった。 消失はその人から奪うというよりも、消失を共に体験できない人からこそ奪うのだと思われた。
  • 2025年12月30日
    地球星人
    地球星人
    読みました…。 自分の身体を取り戻すとか、自分自身を社会から取り戻すという作業って、こんなにも凄まじいものだったんですね…。
  • 2025年12月27日
    西の魔女が死んだ
    まいの感受性や潔癖さが印象的。どこから生じてきたものなのだろう。思春期という括って良いのだろうか。 自分で決めることを求める存在が、自分を誘導しようとしているのではないかという洞察は素晴らしいものに感じた。 感覚トレーニング、やろうかなとちょっとだけ思いました。
  • 2025年12月27日
    赤毛のアン (新潮文庫 モ 4-1)
    素敵な少女の物語だった。想像力に溢れていて、こんな子と会えたらいいなと思うような作品だった。
  • 2025年12月25日
    丸の内魔法少女ミラクリーナ
    ポッドキャストで紹介されていた本。『コンビニ人間』で感じた衝撃はあまりなく、ただいつものように、面白くてファンタジックな小説として読んでいたが、『変容』でなぜか笑ってしまった。 話の筋を知って読んだからかもしれないけれど、まみまぬんでらという語感と、最後の勢いにやられてしまった感じかもしれない。流行りの話など、よくよく考えると怖い部分もあるが、面白かった。魂のステージを上げていくことの俯瞰性と、葛藤に取り組む実存の喪失。でも、上げられるなら上げたいよね。
  • 2025年12月25日
    キェルケゴール
    修論の指導教員との相談の際に、時々話題に上がっていたキェルケゴール。ずっと気になっており、著作を読む元気はなかったが、ついに入門書を読むことができた。
  • 2025年12月24日
    コンビニ人間
    コンビニ人間
    こういう小説は初めて読んだという感覚。すごい作品だった。普通に生きるということの難しさや、普通であることを求める暴力性のようなものが描かれていたように感じる。 解説で指摘されていた、生々しさと無機質さの対比もいい。幼少期の鳥の死骸の体験は、むしろ生死に彼女なりに向き合っていたよう。その感覚は普通ではない、治すべきものとして扱われた。 成長した彼女が手に入れたのは、コンビニ店員という枠組みを通して世界と関わるあり方で、天候も、状況も、身体も、人間関係も、全てコンビニのためのものとなった。この画一的で無機質な世界の歯車として機能することは、その世界に受け入れられているという体験をすると同時に、自分という存在を代替可能なモノにすることでもあった。 彼女はその世界から脱落しないためにも、その世界の普通であろうとするが、彼女が無機質なコンビニ世界の普通だけでなく、人間の世界の普通にも近づこうとしたとき、無機質な世界が崩れて、コンビニという枠組みに隠されていた人間や情緒という面倒くさいものと直面させられることとなった。それにより彼女は精神的にも実際的にも、コンビニ世界を失ってしまったよう。コンビニ世界によって自分を形作っていた彼女にとってそれは、自分自身を失うことでもあった。 しかし、再びコンビニ世界と出会うとき、彼女は「コンビニの声」を聞くことになった。自分という存在をも、コンビニ世界をも超えた、融合的なのか超越的なのか分からないものに、彼女は自己を委ねたよう。それこそが彼女の生まれ直しだったのかもしれない。 色んな適当なことをそれっぽく書きたくなるような、とにかく心が動かされる作品だった。三歩ぐらい違う道を歩んでいれば、自分も彼女か、あるいは白羽のようになっていたかもしれない。
  • 1900年1月1日
  • 1900年1月1日
    アルジャーノンに花束を
    アルジャーノンに花束を
    他の人と同じようになりたいという願い
  • 1900年1月1日
    ノルウェイの森(下)
    誠実さの話
  • 1900年1月1日
    ノルウェイの森(上)
  • 1900年1月1日
    ダンス・ダンス・ダンス(下)
    壁抜けの話
  • 1900年1月1日
    ダンス・ダンス・ダンス(上)
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