はに "物語の役割" 2026年1月10日

はに
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@828282chan
2026年1月10日
物語の役割
物語の役割
小川洋子(小説家)
この本を手に取った理由はとてもシンプルで、小川洋子作品が昔から好きだからである。あの独特な静謐さと美しさを携えた物語たちを生み出す、彼女の価値観に触れてみたい。そして、いま、自分のなかで久々に読書のモチベーションが上がっているタイミングということもあって、物語を読むことの魅力とは何だろうと考えてみたら面白そう。そんな気持ちで読んだ。 私たちは、現実のできごとを自分のなかで受け入れるために、物語化することがあるという。 “とうてい現実をそのまま受け入れることはできない。そのときの現実を、どうにかして受け入れられる形に転換していく。その働きが、私は物語であると思うのです。”(p.25) このようなことは、私にも思い当たる節がいくつもある。つらい出来ごとに直面したとき、自分が納得できるような形にして、飲み込み、消化していく。反対に、人は現実をより受け入れ難い形に物語化してしまう、ということも書かれている。それもよくわかる。「認知の歪み」なんて言葉もよく聞く。人間の心は複雑だ。あえて悲しい物語をつくりあげてしまうことについて、著者が「自分とは、さまざまな犠牲の上に成り立つ、ほとんど奇跡と呼んでいい存在なのだ、という良心に基づいた物語を獲得するための苦悩なのではないでしょうか。」(p.33)と優しく肯定していたのが「いいな」と感じた。 この本の中で私が特に心を掴まれたのは、以下のエピソードだ。 “数学者が、偉大な何者かが隠した世界の秘密、いろいろな数字のなかにこめられた、すでにある秘密を探そうとするのと同じように、作家も現実のなかにすでにあるけれども、言葉にされないために気づかれないでいる物語を見つけ出し、鉱石を掘り起こすようにスコップで一所懸命掘り出して、それに言葉を与えるのです。”(p.51) この「鉱石を掘り起こすようにスコップで一所懸命掘り出して、それに言葉を与える」という表現が、たまらなくロマンチックだと思った。生きているなかで感じるさまざまな機微を、作家が掘り起こし、言葉を与えて、形にする。形にすることで、人と共有することができる。複雑な心の機微を「分かち合える人がいる」と思えることに、私はなんだか救われるような気持ちになる。私にとっての物語の役割は、このようなことかもしれない。 もうひとつ印象的だったエピソードがある。 “私のいま理想としている小説は、その小説のなかに出てくる登場人物が「ここにいるからね」と声を発して、小説の中の実在しない人物と現実にいる読み手が目配せを交わせるような小説です。「お互いほんとうに現実を生きていくのはいろいろたいへんな、困難なことだけれども、とにかく僕はここにいるからね」「私もここにいるからね」と言って、声なき声で目配せを交わせるような作品を書きたい。”(p.51) 小川洋子作品の登場人物は、どこか風変わりなことが多く、社会の片隅でひっそりと、彼らなりに懸命に生きる様子を描いている印象がある。その印象は合っていたのかもしれないと、これを読んで思った。登場人物からの静かで優しい「目配せ」に、私は自分の存在を認められたような心地になり、心が癒されていたのかもしれない。 意外だったのは、著者が小説を執筆するにあたり「主題を考えない」「ストーリーも大した問題じゃない」と言っていることだ。学生時代、現代文の試験で「作者の意図」を問われることがしばしばあったけれど、その影響か、いつの間にか「小説は作者の主張がテクニカルに散りばめられたものであり、読み手はその意図を正しく汲み取らねばならない」というイメージを持っていた。だからこそ、読書をするときはいつも少し身構えていた。そうか、批評的な正解を求めて本を読まなくてもいいんだ、そう思えたことで、ふっと肩の荷が下りるような、自由になった心地がした。
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