
はに
@828282chan
偏愛を感じる文学が好きです。
- 2026年2月16日
生きるとは、自分の物語をつくること小川洋子,河合隼雄読み終わった - 2026年2月12日
授乳村田沙耶香読み終わった - 2026年2月11日
ゆめこ縮緬皆川博子買った - 2026年2月11日
- 2026年2月11日
- 2026年2月11日
- 2026年2月3日
みずうみ川端康成読み終わった買った川端康成の描く変態的な人間がとても好きだ。気色悪い言動や思考をしている人物であっても、筆致が上品であるために不快感が薄められ、ユニークな人間味として興味深く感じられる。背筋がぞわぞわっとしながらも読みたいと思ってしまう、癖になる「キモさ」がある。 この物語の主人公・銀平は、魔性を感じる女性に出逢うと後をつけてしまう癖のある男だ。いわゆるストーカーである。ストーカーという概念が社会に定着する前の時代に書かれた物語ではあるが、独り善がりな行為としての不気味さがしっかりと描かれている。 “銀平があの女のあとをつけたのには、あの女にも銀平に後をつけられるものがあったのだ。いわば一つの同じ魔界の住人だったのだろう。銀平は経験でそれがわかる。水木宮子も自分と同類であろうかと思った時、銀平はうっとりとした。(p.23)” “また銀平が前後不覚の酩酊か夢遊のように久子の後をつけたのは、久子の魔力に誘われたからで、久子はすでに魔力を銀平に吹きかけていたのである。昨日つけられたことで久子はその魔力を自覚し、むしろひそかな愉楽におののいているかもしれない。怪しい少女に銀平は感電していたのだ。(p.36)” 特に印象に残ったキモいシーンがある。少年時代の銀平が、いとこの少女・やよいへの思慕を拗らせてとった行動だ。やよいの愛犬を疎ましく思い、縫針で耳を縫ってやろうかと考える。実行には移さなかったが、紙に絵を書いてそれを縫うという奇行に走る。じとじととした狂気の切り取り方に作家の凄みを感じる。 “やよいの針箱から赤い糸のついた縫針を盗み出すと、日本テリヤの薄い耳に突き通してやろうと思って折りをうかがった。(中略)銀平はその縫針をポケットにかくして、自分の家へもどった。紙にやよいと犬の絵をかいて、その赤い糸で幾針にも縫い、机の引き出しに入れておいたものだ。(p.93)” 心を奪われた少女を待ち伏せするため、道端の溝に潜伏するシーンは、さらに一段ギアの上がったキモさがあった。警察に不審がられたときのために、少し酒を飲んで酔っ払いのふりをするという「まとも」な判断をした上でのこの奇行だから、余計に怖い。 “二三十分もひそんでいるうちに、銀平は石がけの石にでも嚙みつきたくなった。石のあいだからすみれの咲いているのが目についた。銀平はいざり寄って、すみれを口にふくむと、歯で切って、呑みこんだ。呑みこみにくかった。銀平はううっと泣き出すのをこらえた。(p.126)” ここまで主人公のキモエピソードばかり語ってしまったが、この作品には他にもさまざまな人物が登場する。物語が進むにつれ、登場人物についての情報が断片的に明かされ、徐々にひとりひとりの輪郭が浮かび上がってくる。入り組んだ人間関係の繋がりが見えてくるのも面白い。ただ、複数の「なにかありそう」という匂わせが最後まで回収されずに終わってしまい、読後は尻切れとんぼのような印象を受けた。夢の途中で目が覚めたときのような感じだ。しかし、それは不満ではなく、現実・空想・妄想が「みずうみ」のもやのように幻想的に混ざり合う物語の演出として納得感があるものであった。 - 2026年2月3日
美食倶楽部種村季弘,谷崎潤一郎買った - 2026年2月3日
コレクター 下 (白水Uブックス 61)ジョン・ファウルズ読みたい - 2026年2月3日
コレクター 上 (白水Uブックス 60)ジョン・ファウルズ,小笠原豊樹読みたい - 2026年2月3日
- 2026年2月2日
読み終わった買った◾️少女外道 裕福な家庭で育った少女が、出入りの植木職人の息子が怪我をしたのを見て、傷や血に惹かれてしまう「外道」の性癖が自分にあることを自覚する、という物語。その自覚を境に、少女がどのような倒錯に溺れていくのか……と身構えて読み進めたが、予想に反して、すべての歪みは少女の胸の内に閉じ込められたまま物語が終わってしまった。淑やかな美しさを纏った作品ではあったが、私が期待していたのは自身の欲望を受け入れて生きる強かな女性の物語であったため、やや肩透かしを食らったような感覚が残った。 こんな感想を抱くのも、今の私が、自身の嗜好をオープンに語って同好の士と楽しみを分かち合うことのできる、豊かな時代と環境に生きているからなのかもしれない。それって、なんとしあわせなことだろうか。 ◾️隠り沼の 前半と後半で異なる人物視点の構成になっており、物語の終盤で主人公が誰か判明する。最終的にさまざまな情報が繋がり、ひとりの女性像が立体的になっていく様がミステリー小説のようで、読み終わった後、そういうことかぁ、と声が出た。 この作品をひとことで言い表すならば、幼少期に端を発する心の闇に呑まれてしまった女性の物語だ、と思う。自己を犠牲にしても救われないと自覚しながら、あえてその方向に舵を切る決断をしたことに、壮絶な狂気を感じた。ラストシーンの透明感のある静かな情景が、その狂気をより引き立てているようで、強烈な印象に残った。 ◾️有翼日輪 あまりにもよかった。心の機微の描写が緻密で、どうしたらこんなものが描けるのかと、感嘆のため息が出た。 裕福な家庭の少年・圭雄が、やんちゃな同級生の兄・ギイに対して密かに抱く、甘く苦い感情。成長し、フレスコ画家となった圭雄の背中に、同じように淡い感情を抱く男がいる。主題が反復される物語の構図も美しい。 “かすかな物音に、圭雄は我に返った。バケツが視野を垂直に下降しつつあった。そうして、ギイが足場を下りてきた。浅い木箱の中の壁土をバケツに掬い入れながら、圭雄に目を向けた。話しかけたり笑いかけたりはしてこなかったので、圭雄はほっとした。崇拝する対象は、地上のものと対等に言葉を交わしてはならないのだ。”(p.118) “高い足場に上るのは、運動が苦手な圭雄には不可能なのだが、縄が切れたのは自分のせいだと思った。整備兵の点検不備から、事故は生じたのだ。手のひらに残る荒縄の感触。ナイフで切れ目を入れた時の、手応え。自分がギイを死なせた。それは甘美な痛みを圭雄に与えた。圭雄は足の甲に刃物を突き刺し、ギイに殉じた。”(p.124) ◾️標本箱 この作品もとても好きだ。まず、標本箱というモチーフが私は大好きだ。時間の止まったものたちが美しく並んで収められた箱は、それだけで物語的であると思う。 15歳の少女・倫は、亡くなった千江叔母さんの遺品から、親に内緒で鉱石の標本箱を持ち出す。二十数年経ち、久々に故郷に戻った倫は、見知らぬ男の子から「『標本箱』覚えている?」と聞かれる。そこから、標本箱と千江叔母さんにまつわる物語が展開されていく。 私が思うこの作品の魅力は、なんといっても、梛木という男性の登場人物である。千江叔母さんは、ある偶然の出来事を通して、東京からやってきた梛木と出逢う。ふたりは徐々に親交を深めていくが、ある日、梛木は東京に引き上げることを決め、千江叔母さんに別れを告げる。 「僕は溺死しかかっているんだから、近づかない方がいいよ」「溺れそうになっている者は、手近にある何にでもしがみつくだろう。僕にしがみつかれたら、君も溺れる」(p.144) この言葉選びに、梛木という男の知的な色っぽさが詰まっている。梛木の部屋には本がたくさん積まれている描写があるが、いかにも読書家らしいロマンティックな台詞だと思う。標本箱も、もともと梛木の持ち物で、千江叔母さんに贈られたものだった。ふたりで鉱物を見ながら他愛もないおしゃべりをするシーンは、なんとも微笑ましかった。 物語のラストで、声をかけてきた見知らぬ男の子の正体が明かされる。語られていない余白に壮絶なドラマがあったことが仄めかされ、切ない余韻が残った。 - 2026年2月2日
O嬢の物語 (河出文庫 レ 1-1)ポーリーヌ・レアージュ,澁澤龍彦読み終わった買った - 2026年2月2日
ホテル・アイリス小川洋子,小川洋子(小説家)読み終わった買った小川洋子の描くSMという触れ込みに惹かれてこの本を手に取った。好きな作家が好きな題材を扱っていることへの期待よりも、自分のSM観と大きくズレていたら嫌だなあという思いが勝り、読み始めるまで1ヶ月ほどかかってしまった。 結論からいえば、私にはこの作品で描かれているものが「SM」だとは思えなかった。 SMとは、加虐・支配/被虐・被支配という役割を引き受けながらも、双方の合意と信頼関係が前提にあるものだ。現実に危険を伴う行為である以上、そこには成熟した判断能力が求められる。加虐・支配する側は相手の心身の安全に対する全責任があり、される側もリスクを踏まえて主体的に判断する責任があると私は考えている。 物語の中心にあるのは、17歳の少女・マリと、年老いた翻訳家の男の歪な関係性だ。男は、マリの母親が経営するホテルで商売女と揉め事を起こし、声を荒げて女を罵倒する。その場に居合わせたマリは、男の言葉と声に甘美な響きを感じ、心を捕らわれてしまう。 この物語では、マリの被虐・被支配の嗜好と、翻訳家の加虐・支配の嗜好が明確に描かれている。翻訳家の家でのふたりの行為は、縛りや鞭などのSMらしい記号が登場する。しかし、読み進めていくうちに「これは私の思うSMではない気がする」という違和感が積み重なっていった。それらのSM的な記号は、あくまでフェティッシュな雰囲気の演出にすぎないものであると感じた。 一つ目の違和感は、マリがまだ17歳であり、判断能力が未熟な少女であることだ。支配的な母親への反抗心や、思春期にありがちな自己破壊衝動が、マリの行動から透けて見える。「わたしの仕える肉体は、醜ければ醜いほどいい。その方が、自分をうんとみじめな気持にすることができる。」(p.138)というマリの心情からは、翻訳家への愛情や尊敬の眼差しよりも、自傷や自罰に近い衝動が根底にあるように感じてしまう。 二つ目の違和感は、翻訳家が衝動的にマリの髪を切り落としたことだ。マリが翻訳家にとっての聖域(触れられたくない過去)に踏み込みすぎたことに対する、きわめて感情的な暴力行為であると感じた。あの場面は合意の上でのロールプレイではなく、抑制できない怒りの暴走に見えた。翻訳家もまた、人間として未熟なのである。 このように、本作はSM的な要素を孕んでいるものの、成熟した合意と責任の共有という関係の核心が成立していない。描かれているのは、対等なロールプレイではなく、未熟な人間どうし性癖と精神的な欠落がたまたま噛み合ってしまった結果の「共犯関係」である。だから私には、これが「SM」を描いた物語だとは思えなかった。 マリにとって翻訳家は、『ホテル・アイリス』という檻から自分を連れ出して新しい世界を見せてくれた、おとぎ話の王子様のような存在でもあったように思う。しかし、王子様だと思っていたのはマリだけで、翻訳家の正体は悪役に等しいものだった。だからこそ、ラストシーンは「悪役に天罰が下る」という物語らしい必然であるように思えた。 - 2026年2月2日
コンビニ人間村田沙耶香買った - 2026年2月1日
むらさきのスカートの女今村夏子読み終わった買った「偏執的な人間が登場する物語が読みたい」と思い手に取ったが、残念ながら私の好みには合わなかった。 この物語の語り手である《わたし》は、名前も知らない《むらさきのスカートの女》に異様に固執している。日々の行動を事細かに監視し、《むらさきのスカートの女》の職が不安定と知れば、自分と同じ職場で働くように陰で画策する。自宅アパートの部屋番号まで把握している。そこまでする動機が「友達になりたい」というのだから、怖い。 行動だけ見れば《わたし》は間違いなく「偏執的な人間」だ。しかし、私の心が掴まれる要素はなかった。理由は、偏執に美学が感じられなかったからだ。 《わたし》は《むらさきのスカートの女》が近所の誰もが知っている存在だと思っている。それに対し《わたし》は誰からも存在を知られていない。黄色いカーディガンを着ていても《黄色いカーディガンの女》として人々に認知されたりはしない。そこに浮かび上がるのは、誰からも気に留められることのない、希薄な存在としての《わたし》の不安気な姿である。 《わたし》は、ストーキング行為に留まらず、職場の備品の窃盗や、家賃の踏み倒し、食い逃げなどの犯罪行為を、大して悪びれもせず重ねていく。まるで、自分が社会のなかで透明な存在であることを内面化してしまっているかのように、社会から向けられる目を少しも意識していない。 《わたし》が《むらさきのスカートの女》に執着するのは「友達になりたいから」だというが、彼女そのものに魅力を感じているわけではなく、彼女のように他者から認知されたり、認められたりしたいという世俗的な願望の投影なのではないか、と感じた。それ故に《わたし》の印象はどこまでも空虚で、本人なりの美学が感じられないことに、がっかりしてしまった。 本作を読んで、私は、偏執という行為そのものにではなく、己の美学に執着する精神性にこそ惹かれているのだと改めて気づかされた。 - 2026年1月31日
消滅世界村田沙耶香買った - 2026年1月30日
侍女の物語マーガレット・アトウッド読み終わった買ったクーデターをきっかけに、宗教的な全体主義体制となった国が舞台。軍事独裁政権により、みるみるうちに人々の自由が抑圧されていく。シームレスに社会が様変わりしていく過程は、現実からほんの数歩ずれた先にこのような世界があり得ることを想像させられ、恐ろしい気分になった。 出生率が激減した社会で、人口増加を大義とした政策のために、出産適齢期の女性は『侍女』として特権階級の男性(司令官)にあてがわれる。女性は性的自由を完全に奪われ、子を産むための道具としかみなされない。生殖行為は儀式として執り行われ、一切のエロスは排除されている。当事者の司令官・司令官の妻・侍女の三者全員が、尊厳を削られながら役割を全うする。……出生率を上げることを命題としながら、こんなふうにギチギチに生殖を管理して、本当に効果があるのか?機会を制限しすぎるのは非合理的では?と、私は疑問に思う。儀式は性に対して潔癖な宗教的意義があるのだと思うが、信仰心がなければただ異常で倒錯的な行為だ。 この作品で印象的なのは、女性たちが身にまとう衣装の鮮やかな色だ。身分により色が区別されている。侍女たちが身にまとうのは、赤だ。血の色。生命の色。そこに、顔を隠す白い翼を頭につける。侍女たちが揃いの衣装を身につけた集会の場面は、映像的にゾッとするようなインパクトがある。 この物語は、主人公の侍女・オブフレッドの視点で語られる。彼女は状況を冷静に理解し、内に秘めた静かな逞しさで、環境に適応しながら生き延びていく。声高な抵抗を選ばない彼女のあり方に、選択の余地がない逼迫した状況のリアリティを感じる。 私が好きなのは、司令官とオブフレッドの秘密の逢瀬のシーンだ。司令官の支配者的な目線と、それを自覚するオブフレッド。ふたりのやり取りには独特のエロティシズムが漂う。このシーンの官能的な描写は、儀式で行われる性行為の無味乾燥な描写と対になっているように思う。性行為の享楽的な側面がすっかり失われてしまった世界であることを、再認識させられる。 “司令官はわたしが読んでいる姿を座ったまま観察している。よけいなことを言わないけれど、わたしから目を離しもしない。この観察は奇妙な種類の性行為だ。そして見つめられているあいだ、わたしは自分が裸になったような気がする。彼が背を向けたり、部屋をぶらつきまわったり、自分でも何かを読んでくれたらいいのにと思う。そうすれば、もっとリラックスして好きなペースで読むことができるかもしれない。じっさいには、この禁断の読書はまるで一種のパフォーマンスのようだ。”(p.271) 後半にいくにつれ、誰が味方で誰が敵なのか予想がつかず、物語がスリリングに展開していく。救いのある展開と思いきや「こうだったらよかったのに」という妄想も挟み込まれて、ハラハラさせられた。長い物語だと思っていたけれど、気づけば夢中で読んでしまった。そして、こんな不自由な世界が現実にならなければいいな、と切に願う。 - 2026年1月29日
- 2026年1月28日
殺人出産村田沙耶香読み終わった買ったお気に入り◾️殺人出産 人口減少対策として、10人出産したら合法的に1人殺すことができる『殺人出産システム』が導入された近未来の日本が舞台。一見ぶっ飛んだ設定のように感じるが、制度ができた背景や社会的な合理性が淡々と語られるため、気がつけば作中の価値観を受け入れてしまっている自分がいる。 この作品で印象深かったのは、殺人の動機の扱われ方だ。10年以上の年月をかけ、命懸けで10人出産してまで達成したい殺意なのだから、殺される側はその執念深さを生み出すほどの卑劣な行いをしたのではないか、と予想していた。しかし、そこに描かれていたのは、殺される側に落ち度があるとは言えない、あまりに身勝手な理由による殺人だった。 社会が一定の条件のもとで殺人を許容した途端、殺意に大義名分は不要になる。そればかりか「社会のための制度」として正当化されてしまう。 ここで気づかされるのは、「人を殺したい」というアンモラルな欲望を抱く人であることと、その人自身にモラルがあるかないかは別問題である、ということだ。作中の『産み人』は、制度に極めて忠実な、社会規範を守る存在として描かれている。アンモラルとされる欲望は、実は食欲や性欲と同じように人間の内側にしばしば存在しているが、社会規範により存在を不可視化されているだけなのではないか。そのような欲望の存在を認めた上で、合法的な出口を設けて管理・利用する社会制度と考えると、過剰に合理的で恐ろしさを感じる。 さらに作中では、制度に則って殺人を行う『産み人』は人々から崇拝され、殺される側は尊い犠牲として位置づけられている。その構図は、生贄の儀式のようだ。「社会のため」という大義が与えられた瞬間、殺人が崇高な行為へと転じる。命を奪うという事実は変わらないはずなのに、社会の枠組みがそれを美しい物語に変換する。生贄の儀式は現実の歴史のなかにも存在していたはずだ。そう考えると、作中の人々の価値観が非現実的とは言えなくなる。 “恋愛とセックスの先に妊娠がなくなった世界で、私たちには何か強烈な「命へのきっかけ」が必要で、「殺意」こそが、その衝動になりうるのだ、という。”(p.10) 性と死にまつわる多様な衝動の形が描かれた作品だった。読み終えたとき、冒頭のこの言葉の意味がようやく腑に落ちた気がした。 ◾️トリプル 若者のあいだで三人交際が主流となった世界。女子高生の真弓は、同い年の男子二人と「トリプル」の関係になる。彼らが行う「マウス式セックス」は、交代制で一人がマウス役となり、身体全体を用いて他の二人を受け止める“口”になるという独特の形式をとる。 マウス式セックスは、一般的なセックスの形式とはまるで異なるため、一見すると奇妙で倒錯的な印象を受ける。しかし私は、それを単純に「変」だとは思えなかった。 真弓が一般的なカップルのセックスを偶然目撃し、挿入に執着する様子に嫌悪感を抱くシーンがある。真弓は一連の行為を「おぞましいこと」と表現したが、私にも同じような感覚がある。 恋人どうしがコミュニケーションとして行うセックスであれば、相手の反応を繊細に感じ取ろうとするやりとりが中心にあって然るべきだと思う。だが実際の行為では、挿入をゴールとする段取りにこだわるあまり、それらを軽視しているように感じることが多々ある。その上、なんだかグロテスクで湿っぽくて気持ち悪い。真弓の目線は、それらの違和感や不快感の輪郭を浮き彫りにしてくれる。 マウス式セックスでは、特定の身体部位を使うことにこだわらず、身体全体がコミュニケーションの媒体となる。私はそれについて素朴に「いいな」と思った。 しかも、三人で役割を循環するため、いわゆる攻め・受けの構図が希薄で、それが関係性に均衡を生んでいるようにも思える。男だから・女だから、というジェンダーのしがらみから解放された関係性の形は、軽やかで新時代的だと感じた。 ◾️清潔な結婚 性的な欲求を家族に見せる・見られることに生理的嫌悪感があるという理由で、互いに性的なことを求めないと決めた夫婦の物語。快楽のための性行為は家庭外で行い、生殖は専門のクリニックでシステマチックに行う取り決めをする。「配偶者以外とは性的な関係を持ってはいけない」という現実の社会常識に、真正面から切り込んでいくのが痛快だ。しかも『清潔な結婚』というタイトルにするのは、だいぶ皮肉が効いている。 恋愛・結婚・セックス・生殖が一直線に並べられている現代社会の価値観は、自然なもののように見えて、実は無理を孕んでいるのではないか。この物語では、その違和感をシニカルに描き出している。 クリニックで清潔な生殖を行う場面は、かなり馬鹿馬鹿しかった。家族という枠組みのなかに性的欲望を持ち込むのは不自然なのではないかと感じる瞬間が自分にもあるが、だからといって、この形がいいかと言われるとそうは思えない。 「性」と「家族」を分離することで、守られるものと失われるものがある。ちょうどいい塩梅を見つけるのは難しい。私自身、はっきりしたスタンスを持っていないことに気がついた。 ◾️余命 医療技術が発達し、人は各々好きなように死期と死に方を選べるようになる。死に方にはその人の価値観が露骨に出るとされているため、多くの人は「自分らしい死に方」を意識するようになる。 死後に自分が何と言われようと知ることはできないにも関わらず、つい「センスのいい死に方」にこだわってしまう自意識過剰さがなんとも滑稽だったが、同じ状況に置かれたら私もやってしまうだろうなと思った。
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