
( ᵕ ᵕ̩̩ )
@carlymatsushita
2026年1月11日
ノット・ライク・ディス
藤高和輝
読んでる
3-1【引用】
“先に述べたように、「私」と「私の身体イメージ」のあいだにはつねに「距離=隔たり」が存在する。言い換えれば、「私」と「私の身体イメージ」がぴったりと一致することはありえない、それは、そのイメージがつねに主体にとって空間的、時間的に「外在的なもの」であるからだ。主体は自己自身から疎外を運命づけられており、ラカンの言葉で言うところの「誤認」を逃れられない。バトラーの言葉を借りれば、それは「私たちが生きることを強いられた錯乱」(Butler 2011: 57)である。そう、「私の身体」は「私のもの」ではありえない。しかし、ここでラカンの鏡像段階論に関して疑問なのは、「バラバラに寸断された身体イメージ」が「身体の全体的形態」へと(たとえそれが誤認や疎外を免れないにせよ)統合されるとき、そこで言われている「身体の全体的形態」とは何なのか。それはいわば、どんな身体をモデルにしているのか。あるいは、「誤認」や「疎外」があらゆる主体において普遍的に生じるにしても、それらはあらゆる主体において等価に生じるのか。「バラバラに寸断された身体イメージ」から「身体の全体的形態」ヘ──ラカンの鏡像段階論の記述はそのような推移を辿る。ラカンの記述は幼児の生活世界を直接的に記述したかのような印象を与えるものだ。そして、「身体の全体的形態」と呼ばれるものはいわばフラットな、つまり人種もジェンダーも障害もないような「人間=男(man)」をモデルにしているようにみえる。”(pp.101-102)
“「非規範な身体」を生きる者にとって「諸々の物質性の生きられた意味」の「創造」や「変換」は「生存」の問題であり、言い換えれば、そのような「創造」や「変換」といった「アクロバットで面倒な作業」は、「わたしの身体」が社会によって「バラバラに寸断されて」しまう状況下においてなされるのである。”(p.108)
