はすみ "正欲" 2026年1月12日

はすみ
はすみ
@usagibooks
2026年1月12日
正欲
正欲
朝井リョウ
人間の基本的欲求には食欲、睡眠欲、性欲の3つがあると言われている。食欲と睡眠欲は裏切らないが、性欲は裏切るというか、そこに正しさが求められてしまう。 この小説には、水フェチという非常に変わった性欲を持つ男女が数名登場する。彼らは自分の欲求が世の中で認められないことを知っている。彼らはその欲望を誰かと共有したい、つながりたいと思って生きている。正しくないとされる欲を持つ人たちだって、つながりたいのだ。しかし、そんなつながりがそもそも成立しにくい世界で、彼らは絶望しながら生きている。 私は、「多様性」という言葉の思いもよらない薄っぺらさに気づかされた。近藤八重子という大学生は、自分の容姿コンプレックスと男性恐怖を恥だと感じつつ、みんながそれぞれ生きづらさを抱えているのだと訴え始める。だが水フェチの人たちと決定的に違うのは、八重子の生きづらさは社会的に通訳できる生きづらさだという点だ。理解できる生きづらさだけが、多様性として話を聞いてもらえるのだ。水フェチである諸橋大也と繋がれるはずもないのにそれに気が付かず、つながろう、話し合おうと、善意を無自覚に押し付けてくる。 一方で、圧倒的なマジョリティ側の存在として、啓喜と矢田部が登場する。彼らは水フェチのような存在を想像すること自体が難しく、仮に話しても決して理解しないだろう。一方で、マジョリティ側である啓喜も家族から「あなたには理解できない」と拒絶されてしまっている。マジョリティだからといって繋がりたい人と繋がれるわけではないのだ。理解できないものを排除する側の人間もまた、息子から排除されているという皮肉な構造からは人間の普遍的な断絶というものを感じた。 結局、登場人物それぞれに、自分なりの欲望と向き合う必死さ、理解してもらえない辛さがある。全員の立場が違い、信じていることも違う。そしてそれは、話し合ったりつながったりすることで簡単に埋まるものではないのだと思った。多様性、理解し合う、という言葉は簡単に言えるが、想像できないレベルの差異は、理解ではなく不快で処理される。人は結局、自分とある程度似た人、自分の理解できる範囲の人としか、つながり合うことも理解し合うこともできないのではないか。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved