くりーむ "ハンチバック" 2026年1月12日

くりーむ
くりーむ
@cream
2026年1月12日
ハンチバック
ハンチバック
市川沙央
印象的な2つの記述を取り上げてみます: 「気管カニューレというプラスチックの異物が喉に突っ込まれている限り、粘膜は勝手に戦うし、設計図を間違えている呼吸筋はまともな噴射力のある咳すらできない。」(p.19) 「あらかじめ手許に用意しておいた銀行員でミシン目に割印して小切手要旨を切り離す。親の遺産を馬鹿みたいなことに使う罪悪感で手が震えていた。」(p.53) 前者から考えます。気管カニューレは、端的に言って、呼吸を保つため・生きるためにつけているはずです。しかしこの記述によれば、それは異物であり、かえって痰を生じさせることになる。こうして、生きるために・或いは生きることによって、望むと望まないとにかかわらず、痰が生じ、その息苦しさは、釈華に痰の吸引をさせることになります。痰の吸引は、象徴的な一つの行動のように見えます。小説全編を通じて、釈華は、己の意思とはほとんど関係なしに、特定の行為をするようになっています。それは、粘つく痰・精液のイメージが作り上げる文学的質感と相まって、自由ではないこと・特定の状態がひっついてきて、それに引きずられること、といった、粘性のある人生、とでもいうべきもののありようを描き出しているようにおもえます。 後者についても、その手の震えは、明らかな躊躇・恐れであるにもかかわらず、そのことは一切顧みられることなく、釈華と田中の間の交渉は展開することになります。ここについても、己の意図とは一切関係なしに、特定の行為が特定の意味をもち(たとえば、小切手を取り出せば、それは契約の意志を表象する)、さらなる行為に向かって、釈華を引きずっていくことになります。ここにも、不自由さ・粘性・或いは引きずられることの実相が、描かれているように、みえます(とうぜん、罪悪を振り切って何かをするということが一種のカタルシスをうむのだ、という主張は尤もですが、『ハンチバック』については、少なくとも文章中からそれを読み取るのは困難におもわれます)。 つまり、『ハンチバック』で描かれている生というのは、粘性のある液体に絡め取られるようなものであり、しかもその粘りは、生きていることにほとんど必然的に付随しています。 小説中では、本を読むことと身体の関係についての訴えが、何度も繰り返されます。これはそれ自体として真っ当な主張であるであるとおもいますが、ある行為は、純粋にその行為ではありえない(読書は、単に頭を使うだけの行為でなく、目の・指の・肩の・腰の・腿の・膝の、行為なのである)ことを鋭く批判しているという意味で、前述した粘性と基本的なモチーフを共有しているように、私には感じられます。 こういった粘性は、「他人の人生に巻き込まれていくどうしようもなさ」という意味で、釈華と紗花の間の関係についてもいえることだとおもいます。ここで重要なのは、紗花は釈華に対し一定の距離を保ちながら(可哀想だとか、そういった感情「移入」はしていない)、しかし釈華のことを想起する、という関係にある、ということです。粘り気のある沼に一挙手一投足ととられるなかで始めて生じた、ケア = 気にかけることの関係。それはケアだということをもって、一種の徳と言えるのかもしれませんが、釈華と紗花の実際に置かれている状況を考えれば、諸手を上げて礼賛することは難しいようなケアです。沼の中、泥に足を取られているときしか覗くことのできない涅槃、といってもよいかもしれません。生を引き受けるということの重みが底に現れているということもできるでしょう。この意味での両義性が、本作の最大の文学性なんじゃないか、とおもいました。
くりーむ
くりーむ
@cream
引用が誤字だらけで、かなしい( ;꒳​; )
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved