
( ᵕ ᵕ̩̩ )
@carlymatsushita
2026年1月12日
ノット・ライク・ディス
藤高和輝
読んでる
@ 自宅
3-2
【引用】
(…)ルービンはトランスの「性別違和」をシスジェンダーの「性別役割拒否」や「ジェンダー規範への嫌悪」と同一視することに反対していると言える。それは確実に必要な主張だろう。というのは、たしかに、トランスの「性別違和」とシスジェンダーの「性別役割拒否」とは同じではないし、そのような同一視はトランスの経験の固有性をシスジェンダーが横領するよくある手口のひとつであるからだ。しかし、両者に差異があるにしても、果たして、それらをあたかも異なる実体であるかのように、まったく別々に、完全に切り離すことは本当にできるのだろうか。むしろ、そこには「差異」と同時に「連続性」もまたあるのではないだろうか。(p.110)
【引用】
るぱん4性にとって、「GID」とは、性別違和を「疾患」や「病気」とみなし、「トランス女性/男性ならこうであるべき」と本質主義的に規定する認識枠組みとして考えられている。るぱん4性自身が述べている例で言うと、例えば、「トランスなら、まんこが嫌いで当然だ(まんこが嫌いじゃないトランスはトランスじゃない)」(ROS 二〇〇七:四一)といったナラティヴがそれである。それは吉野靫が言うところの「GID規範」と言ってもいいだろう。「GID規範」とは、「本物のGIDであるならこう振る舞うべきだとか、パスするためにこういう努力をすべきだとか、髪型や服装が「らしくない」だとか、まさに一挙手一投足にまで及ぶ規範」(吉野 二〇二〇:五九 - 六〇)のことである。したがって、「GIDなんか」というるぱん4性の表現からは、自分の身体への違和を本質主義的なものとして語ること/語られることへの拒絶を読み取ることができる。そして、るぱん4性の言う「美的センス」とは、この私の身体を社会や規範といった「大きな物語」による意味づけではなく、「私特有の」(ROS 二〇〇七:一五九)意味づけをすることであると言える。「それは別に他人に示さなくてもいい、自分さえ納得し、自分を揺るがせる脅威から守れたらいい、そういうものだった」(ROS 二〇〇七:一五九)。
「美的センス」というるぱん4性の言葉にはその言葉が与える印象よりもずっと、自らの生存に切迫したものが賭けられている。実際、るぱん4性自身、次のように述べている。
私が自分の身体感覚を、自分自身を、取り戻したいと思ったのは、満ち溢れる自己否定感に悩まされたからだと思う。逃げ場のない思考・襲ってくる自己嫌悪・心身症・鬱・自殺額望、自分のことを認めらくても認められない。社会通念として認められないあり方。私は自分の物差しを持つことを許されていなかった(自分でも許してなかった)。
死なないで生きていこうと思った時、私はあらゆる価値観を捨てて、社会や世間を敵に回しても、ホントの意味で、楽になろうと決心できた。(ROS二〇〇七:四五)
「美的センス」と呼ばれているものはここでは「自分の物差し」と言い換えられていると言ってもいいだろう。そして、その「自分の物差し」は社会からも、そして自分からも「許されていなかった」ものである。そして、その「物差し」の否定が「自分の身体感覚」そして「自分自身」の否定をもたらすのであり、まさに「バラバラに寸断される」のである。
るぱん4性はそのエッセイのなかで「自分の美的センスからのものだ」と思えるようになった一因に「まんこを省みることで共存が可能になったこと」が挙げられている。その語りのなかで、るばん4性は、「わたしにとって一旦拒否することは、山盛りに積まれた身体に対するイメージ、意味を解体して、自分にとっての意味をつけなおす過程の一つだったと思うんだ」(ROS 二〇〇七:四三)と述べている。「いったん拒否すること」──それはおそらく、「女性器」への嫌悪だけでなく胸の切除を含むように思われる──は単なる拒絶や破壊ではなく、「自分にとっての意味をつけなおす過程の一つ」であり、新たな身体イメージの再構築に結びついているのであり、あるいはワイスが言うように、身体イメージとはこのような「構築/破壊/再構築」の過程のなかにある。したがって、るぱん4性は、自分で自分の身体に「私特有の」「意味をつけなおす」その過程を、「美的センス」という言葉で表現しようとしていると言えよう。そして、「取ってからしばらくして、イヤだったのはGIDなんかではなくて、自分の美的センスからのものだと思うようになった」という語りは、「胸」や「まんこ」への「拒否」、そしてその「共存」のための「再構築」を通して、自分の身体を「私のもの」としてより受け入れることが可能になったことを意味するだろう。(pp.114-117)
