saeko "暇と退屈の倫理学" 2026年1月12日

saeko
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@saekyh
2026年1月12日
暇と退屈の倫理学
世間に数多ある「東大・京大でもっとも読まれた本」の代表作。 かなり前から本屋に並んでおり、友人も薦めていたので認知はしていたのだが、その重厚なタイトルに引け目を感じて、なかなか手が伸びなかった。 しかし、最近哲学に関する本を読むようになってハードルが下がってきたのと、なにより「自分はなんのために生きているんだ」「これからどうやって生きていったらいいんだろう」と考えることが増えたことをきっかけに、発売後15年経ってもいまだ平積みされているこの本を手に取ってみた。 環境には恵まれている。住む場所があり、家庭があり、友人があり、ほどよく仕事をして、ほどよく余暇を過ごす。そんな生活をする中で、「自分はこのままでいいのだろうか」と焦りを感じるようになった。 幼い頃からの夢が叶えられていないような気がする。テレビを観れば、努力を重ねてひとかどの者になった人たちが特集されている。自分もやりたいことをやって、何事かを成すべきではないのか。でも、それって一体なんなんだ、どうやったらいいんだ…。 こんな思考のスパイラルに陥っている自分の状態をまさに言い表した一冊だった。 豊かな社会では、暇ができる。その暇の中で、人間は退屈している。そこで人間は暇を悪とみなし、退屈をまぎらわすための何かを探している。それは例えば、人から与えられるものを消費することであったり、仕事をしたりすることである。 消費は、自分の欲望ではなく、他者から与えられた欲望を内面化しようとする行為なので、永遠に満たされない。 仕事は、なんらかの信条に隷属的で、それ以外の物事に対して盲目的なので、人は「自分はこれをやっていればいいのだ」と楽になる。しかし、その仕事の遂行の中で、自分の期待通りに事が運ばないと、また退屈する。そしてまた隷属の対象を見つける…。 こうして人間は生きている限り退屈のループから逃れられない。 この考え方にはっとさせられた。学生時代は「将来の夢=仕事」と単純化して人生を捉えていた。しかし実際は、生活もあるし、趣味もあるし、さまざまな要素がある。そのさまざまな要素を行き来する中で、わたしはなんとなく退屈していて、隷属する対象を求めて「なにか打ち込める仕事を」と考えていたのだ。 國分氏はこの考え方を批判する。それは人生の多様な要素を排除しており、その純粋さゆえに、極度の愛国心やテロリズムなどにも通ずる、破壊に繋がりうるからである。 では私たちはどう生きていったらいいのか?氏の提言は主に2つ。人生を「楽しむ」ことと「考える」ことである。 楽しむことは、瞬間的な享楽を消費することではなくて、目の前のことにしっかりと時間をかけて、知識も身につけて向き合うことである。その対象は食でも、芸術でも、なんでもよい。退屈を仕事で凌ごうとする欲求に抗って、自分が楽しいと感じることを噛み締める贅沢な時間を過ごすのだ。 その次に、楽しんで終わりではなく、考えることだ。氏は、ある物事を楽しんでいれば、自然と考えることに繋がると主張する。たとえば、この味わいはどうやったら生まれるのだろう?とか、この芸術家はなにに影響を受けているのだろう?というように。 刹那的な情報をいったりきたりするのではなくて、自分が「楽しい」と感じることを「考える」暇をつくることが、退屈とうまく付き合っていく生き方なのではないか、という考え方だ。 この本が出版されたのは15年前ではあるけれども、まったく色褪せない主張だと感じた。 わたしたちの生活の一部になってしまったSNSを介して、欲望を惹起するような情報が30秒、15秒という短時間で大量に流れ込んでくる。その情報の洪水の中で、様々なことに少しずつ羨望の眼差しを向け、欲望を再生産しながら、自分が何が欲しいのかわからなくなる。その欲求不満の捌け口として、邪念を振り捨てて取り組めるような信仰の対象を求め、仕事を通して自己実現しようとする…。 この他者が作り出す情報によりいつまでも満たされない退屈に歯止めをかけるために、自分自身の楽しみにしっかりと心を傾けることが大切なのだ。 経済的利潤を最大化するために加速していく資本主義の磁場に対して、この本の主張はその歯止めになるような力強いものではなく、社会の仕組みの構築というよりは個人の意識の中に止まる淡く儚いものであるとも感じる。しかしまずは自分個人の取り組みとしてその実践を始めて、人生への不満感が満たされるのか、自己変容が起きるのかどうかを試してみたい。 いままさに読んでよかった本だと思った。
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