綾鷹 "そして、バトンは渡された" 2026年1月13日

綾鷹
@ayataka
2026年1月13日
そして、バトンは渡された
良すぎた、、、! 読み終わってからも こんなに胸の奥がずっとずっと暖かい物語はない。 梨花さんの「親になるって、未来が二倍以上になることだよ」って言葉も、森宮さんの「恋愛より大事なものはけっこうあるし、何か一つ手にしていればむなしさなんて襲ってこない。」という言葉もとても共感できる。 自分のためだけに生きていたときは、もっともっとといつまでも満たされない気持ちが常にあった。 でも自分の息子が産まれてから、無条件に誰かのために生きること、可能性に満ちた日々を見守れるとこに今までにない幸せを感じる。 この物語を読んで、子供のためにならなんでもできてしまう、親の愛情ってすごいなと改めて思うと共に、自分が受けてきた愛情も思い出すことができた。その時は当たり前でちゃんと感謝できてなかったな。今からでも親孝行したい。そして息子にも自分が受けたものを引き継いでいけるように。 ・その後、私の家族は何度か変わり、父親や母親でいた人とも別れてきた。けれど、亡くなっているのは実の母親だけだ。一緒に暮らさなくなった人と、会うことはない。でも、どこかにいてくれるのと、どこにもいないのとでは、まるで違う。血がつながっていようがいまいが、自分の家族を、そばにいてくれた人を、亡くすのは何より悲しいことだ。 ・いい運動になるし、大家さんにお世話になってるから何かしたいと申し出ているポチとの散歩。 でも、散歩の一番いいところは、ここでこうして、ポチと並んで涙を流せることだ。一人家の中で泣いていたら、そのまま私はどこまでも閉じこもってしまうだろう。泣かずに我慢をしていたら、いつかどこかが破裂してしまいそうになるはずだ。だけど、だだっ広い空の下、川を見ながら泣いていると、涙も思い出も、一緒に流れて行ってくれる気がする。 私は不幸ではない。梨花さんとの生活だって楽しい。けれど、どうしたって寂しいし、お父さんが恋しい。そんな気持ちが簡単に消化できるわけがなかった。 ・「そんなにほめられたら気持ち悪いよ」 「本当のことなのに。まあ、ちょっと親ばかかな」私が照れるのを、大家さんは笑った。 「親ばか?」 梨花さんがばかってことだろうか。聞いたことのない言葉に、私はきょとんとした。 「そう。親ばか。自分の子ども可愛さのあまり、必要以上にすばらしいって思っちゃうこと。親ばかって言っても、私は優子ちゃんと血はつながってないけどね」大家さんはリンゴをむきながら言った。 血がつながった人は、お父さんと離れて以来、私の前には現れていない。けれど、それが親ばかなら、梨花さんだってそうとうの親ばかだ。 ・大家さんにお父さん、おばあちゃんにおじいちゃん。思い出の中でしか会えない人が増えて行く。だけど、いつまでも過去にひたっていちゃだめだ。あんなに年老いた大家さんが、新しい生活を始めるのだ。私だって、返事の来ない父親にいつまでも手紙を書いているわけにはいかない。 親子だとしても、離れたら終わり。目の前の暮らし、今一緒にそばにいてくれる人を大事にしよう。大家さんを乗せた車を見送りながら、私はそう、心に決めた。 ・また始まった。餃子だけじゃなくカレーでも語るんだ。森宮さんの理屈を聞きながら、私はカレーを口いっぱいにほおばった。カレーは辛いのに、玉ねぎもにんじんも甘くておいしい。きっとしっかり炒めたからだ。塞いでいるときも元気なときも、ごはんを作ってくれる人がいる。それは、どんな献立よりも力を与えてくれることかもしれない。 ・「梨花は優子ちゃんの本当のお父さんも知ってるし、幼かった優子ちゃんも知ってる」それがなんなのだろう。子ども時代を知っていることが、一緒に暮らすうえで重要なことだろうか。私は何も言わず、ただ泉ヶ原さんの言葉を聞いていた。 「優子ちゃんのことは大事に思う。幸せになってほしいと願ってる。一緒にいた時間は短くたって、優子ちゃんは実の子どものようにかけがえない存在だ。だからこそ、僕には自信がない。梨花よりもいい親だと言いきる自信がないんだ」 泉ヶ原さんは静かに丁寧に言葉を並べた。自信。親になるのに、そんなもの必要なのだろうか。 自信に満ち溢れた親なんか私は見たことがない。 母親は亡くなって、父親は海外に行き、梨花さんはここから出て行った。泉ヶ原さんはちゃんと目の前にいる。それなのに、父親じゃなくなってしまうのだろうか。小学四年生の時には選択権は私にあったのに、十五歳の私は決める立場にはないようだ。 ・お腹はすいていないけど、作ってくれたものを食べないのは悪い。私は箸を手に取った。だしを一口飲んでから、うどんを口にする。少し柔らかくなった麺はつるっと喉を滑っていく。具はきざんだ油揚げとかまぼことねぎで、あっさりと食べやすい。 「こんなの売ってるんだ」 三枚も浮かべられているかまぼこには、必勝の文字が刷られていた。受験を意識した商品がいろいろあるものだ。このかまぼこをスーパーで見つけた時、森宮さんほくほくしただろうな。かまぼこを買う森宮さんの顔を想像すると、思わず笑ってしまった。 「ごちそうさま」 ちゃんと食べきって、私は手を合わせた。不必要な夜食であっても、ごはんを作ってくれる人がいること。それは、とてもありがたいことだ。 ・「まあ、七割は当たってたけどね。梨花が言ってた。優子ちゃんの母親になってから明日が二つになったって」 「明日が二つ?」 「そう。自分の明日と、自分よりたくさんの可能性と未来を含んだ明日が、やってくるんだって。親になるって、未来が二倍以上になることだよって。明日が二つにできるなんて、すごいと思わない?未来が倍になるなら絶対にしたいだろう。それってどこでもドア以来の発明だよな。しかも、ドラえもんは漫画で優子ちゃんは現実にいる」 森宮さんと結婚したかった梨花さんが、うまいこと言って私のことを承諾させようとしただけだ。私はますます森宮さんが気の毒になって、「梨花さん、口がうまいから」と言った。 「いや。梨花の言うとおりだった。優子ちゃんと暮らし始めて、明日はちゃんと二つになったよ。 自分のと、自分のよりずっと大事な明日が、毎日やってくる。すごいよな」 「すごいかな」 「うん。すごい。どんな巨介なことが付いて回ったとしても、自分以外の未来に手が触れられる毎日を手放すなんて、俺は考えられない」 ・私もあのころ、このピアノを毎日弾いていた。梨花さんは、ピアノを弾かせるために私をこの家に連れてきてくれた。だけど、ここで私が手に入れたのは、ピアノだけじゃない。窮屈で息苦しかった。それでも、私はこの家で、穏やかな平和な暮らしというものを知った。経済的な安定ではなく、そばにいる人が静かに見守ってくれることで得る平穏さを感じることができた。 中学の三年間。ただでさえ、多感な時期だ。不安や寂しさや孤独感や苛立ち。そんな思いが渦巻くこともあった。けれど、私は投げやりになることはなかった。それは、ピアノが私の不安定な感情をまぎらわせてくれているからだと、思っていた。でも、そうじゃない。いつも同じ音を鳴らすピアノを確かめることで、私は泉ヶ原さんの愛情に触れていたはずだ。早瀬君が奏でるピアノの音に、それを思い知った気がする。 ・梨花さんが過去の人なら、そろそろ森宮さんも好きな人ができるといいのにね」「まあな。けど、いいや。昔は俺も、恋愛をしたり結婚をしたりしてないのはむなしいことかもしれないと考えてたけど、そうじゃないんだよな」「そうなの?」 「恋愛より大事なものはけっこうあるし、何か一つ手にしていればむなしさなんて襲ってこない。 優子ちゃんも大人になったらわかるよ」 森宮さんはしみじみと言った。 ・私は梨花さんから離婚届が送られてきた時のことを思い出した。あの時、森宮さんはまるで動じず届けに判を押していた。その後も梨花さんを恋しく思っている姿など一度も見たことはない。 だから、この人はどんな変化でも流してしまえるんだ。そう思っていた。 だけど、森宮さんはちっとも平気なんかじゃなかったのかもしれない。思い切った行動をする早瀬君を認められないくらいに。七年経っても誰も好きになれないくらいに。きっと、私の気持ちを乱さないように平然を装っていただけだ。どうしてそんな簡単なことがわからなかったのだろう。いや、私にわかるわけがない。梨花さんが病気だったことも、愛する人に出て行かれた森宮さんの気持ちも。私の親である人は、あまりにもたやすく子どもを優先してしまうのだから。 ・きっと、お父さんは会わないうちに優子ちゃんへの気持ちも薄れるだろう。そう思っていました。けれど、私自身優子ちゃんの母親を辞めようと決心した時、お父さんの気持ちがよくわかった。離れたって、自分に新しい家族ができたって、子どもに対する思いは少しも薄められないって。 ・「守るべきものができて強くなるとか、自分より大事なものがあるとか、歯の浮くようなセリフ、歌や映画や小説にあふれてるだろう。そういうの、どれもおおげさだって思ってたし、いくら恋愛をしたって、全然ピンとこなかった。だけど、優子ちゃんが来てわかったよ。自分より大事なものがあるのは幸せだし、自分のためにはできないことも子どものためならできる」森宮さんはきっぱりと穏やかに言った。まだ私にはその気持ちはわからない。早瀬君と共に進む時間が増えたら、わかる日が来るのだろうか。 「自分のために生きるって難しいよな。何をしたら自分が満たされるかさえわからないんだから。 金や勉強や仕事や恋や、どれも正解のようで、どれもどこか違う。でもさ、優子ちゃんが笑顔を見せてくれるだけで、こうやって育っていく姿を見るだけで、十分だって思える。これが俺の手にしたかったものなんだって。あの時同窓会に行ってよかった。梨花と会わなかったら、俺今ごろ路頭に迷ってたな」 「まさか。それこそおおげさだよ」 「まあ、俺、頭はいいから路頭には迷わないけど、でも、人生はきっともっとつまらなかった。 よかった。優子ちゃんがやってきてくれて」 私もだ。森宮さんがやってきてくれて、ラッキーだった。どの親もいい人だったし、私を大事にしてくれた。けれど、また家族が変わるかもしれないという不安がぬぐえたことは一度もなかった。心が落ち着かなくなるのを避けるため、家族というものに線を引いていた。冷めた静かな気持ちでいないと、寂しさや悲しさややるせなさでおかしくなると思っていた。だけど、森宮さんと過ごしているうちに、そんなことなど忘れていた。ここでの生活が続いていくんだと、いつしか当たり前に思っていた。血のつながりも、共にいた時間の長さも関係ない。家族がどれだけ必要なものなのかを、家族がどれだけ私を支えてくれるものなのかを、私はこの家で知った。 ・「最後にお父さんと呼ぶのかと思った」 「そんなの、似合わないのに?」 優子ちゃんは声を立てて笑うと、「お父さんやお母さんにパパやママ、どんな呼び名も森宮さんを越えられないよ」 と俺の腕に手を置いた。 どうしてだろう。こんなにも大事なものを手放す時が来たのに、今胸にあるのは曇りのない透き通った幸福感だけだ。 「笑顔で歩いてくださいね」 スタッフの合図に、目の前の大きな扉が一気に開かれた。 光が差し込む道の向こうに、早瀬君が立つのが見える。本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。 「さあ、行こう」 一歩足を踏み出すと、そこはもう光が満ちあふれていた。
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