
( ᵕ ᵕ̩̩ )
@carlymatsushita
2026年1月13日
ノット・ライク・ディス
藤高和輝
読んでる
@ 自宅
3-3
【引用】
ジュリア・セラーノがシスセクシズムと呼んだものはまさにこの「格下げ」の例だろう。「トランスセクシュアルが主に直面する障壁は、単に、私たちが「間違った身体」に生まれたということではなく(…)、むしろ、私たちのジェンダー・アイデンティティ、ジェンダー表現、そして性別の身体性といったものが概して、シスセクシュアルのそれらよりも正当ではない、自然ではないものとして見られるということだ」(Serano 2013: 114)。このようなシスセクシズムはいまや、トランス排除的言説においてしばしば出くわすものであり、そこではとりわけトランス女性が標的にされている。「生物学的女性/男性」「身体男性」「男体持ち」といった、トランス排除派の人たちがよく用いる言葉は明らかにトランス女性の実存やアイデンティティをシスのそれよりも「劣ったもの」として「格下げ」するために使用されている。そして明示的ではない仕方で、しかしその裏で確実に、トランス男性的主体の実存もまた「寸断されて」いる。例えば、トランス排除的ラディカル・フェミニストたちが「身体男性/女性」という用語を使って、トランスを定義し、その実存を「格下げ」するそのとき、トランス男性的主体は「身体女性」に還元されることになる。いわば、トランス男性的主体はトランスフォーブにとって「姉妹」なのであり、その「友愛」の影でトランス男性性は抹消されているのである。それはトランス女性に対して明示的に攻撃的に働く言説とは別の仕方で、しかし同時に進行している「格下げ」である。(p.120)
【引用】
「格下げ」が生じるのは私たちを形成するところの身体イメージがワイスが言うところの「身体イメージ理想」によって構造化されているからである。身体イメージは当然「イマジナリーな領域」だが、それはまたバトラーが言うように、ヘゲモニックなものだ。実際、コーネルは中絶やポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメントの議論においていかに女性が「格下げ」を絞るかを通じているが、そこで彼女が共通して指摘していることは、「イマジナリーな領域」が「白人男性のイマジナリー」によって構成されていることであり、その下でいかに女性の存在が「格下げ」されるかである。そして、この「格下げ」はまた、シスノーマティヴィティによって構造化されたイマジナリーによっても生じるのである。
コーネルはこのような「格下げ」に反対し、その「格下げ」から保護されるための条件を、「個体化のためのミニマルな条件」と彼女が呼ぶものに訴える。それが意味するところは「身体的統合性」である。すでに述べたように、コーネルはこの「身体的統合性」をラカンの鏡像段階論から導き出しており、したがって「身体的統合性」は一種のファンタジーであり、厳密に言えば「身体」とは「私のもの」ではない。それは、「社会的紐帯、象徴的関係、原初的自己同一化の所与の網の目から一貫性のある自己の意味と自己のイメージを紡ぎ出すことによってようやく可能になる達成物」であり、したがって本性的に「極端に脆い」ものである(コーネル二〇〇六:五一)。しかし、だからこそ、「身体的統合性」は「保護」される必要があるのだ。(pp.121-122)
【引用】
身体イメージは明らかに、「ひとつ」ではない。私たちはこの社会のなかで、それとの関係のなかで、それぞれに固有の仕方で様々な身体イメージを現に生きている。胸の膨らみが嫌悪の対象であるため切除したい人もいれば、男性的なジェンダーないしノンバイナリーを生きたい人でも胸の存在がそれほど気にならない人もいるだろう。しかし、それでも、それらの多種多様な身体イメージは、社会的規範のなかで「バラバラに」切り刻まれるのであり、「非典型的な」身体として「格下げ」される。「わたしの身体はわたしのもの」──それはこのような状況下で振り絞られる叫び声である。
(…)
「わたしの身体はわたしのもの」その主張は自分の身体に対して単に所有権を主張するものではない。それはコーネルの言葉を借りれば、「一つの自己としての生き残りのために依拠している未来の他性の承認」(コーネル二〇〇六:五四 - 五五)を要求する主張なのだ。「わたしの身体はわたしのもの」と主張しなければならない人の身体が「わたしのもの」として守られるためには、現行の規範──「わたしの身体」を「非典型的なもの」として「格下げ」する規範──の批判的解体を必要とするのであり、したがって、自分の身体が「わたしのもの」として十分に承認される「未来の他性」を要求する。私たちの「アクロパットで面倒な作業」──自らの身体と対話しながら、この身体をいかに生きるかを模索する試み──が語り、要求しているのは、「未来」──そこでなら呼吸できる、そこでなら自らの身体が寸断されることなく承認される、そのような未来──である。(pp.123-124)