
ジクロロ
@jirowcrew
2026年1月16日
デヴィッド・ボウイ 増補新版
野中モモ
ちょっと開いた
グラム・ロックは子どもだましにすぎないという批判を受けていたが、ここにはさまざまな装いの老若男女が集い、まるでスタイルの見本市のようだったと伝えられている。
……
デヴィッド・ボウイの音楽とヴィジュアルとふるまいは、おまえは何者なのかとひとりひとりに問いかけ、何が好きなのかどうしたいのかをそれぞれが自分で選べと背中を押したのだった。それは結局なにか大きなものに「選ばされている」のではないか、はたして自由意志というものは存在するのか、という疑念は決して消えずにそこにある。しかし、その緊張感を抱えたまま、彼はいまこの瞬間の生を祝福するひとときのエンタテインメントに人々を巻き込んでみせたのだった。
(p.100-101)
「ジギー・スターダスト」は
ひとつの季節である。
しかし「グラム・ロック」は
その季語にはなり得ない。
なぜなら「グラマラス」とは、
不感症に対する耐性のようなものだからだ。
「過ぎ去った事だ」、
ランボーが不感症を装いながら
うそぶいて吐き捨てた、あの季節と同じ、
「ジギー・スターダスト」は
字余りの季節である。
そして、デヴィッドボウイもまた、
季節である。


