綾鷹 "百冊で耕す" 2026年1月16日

綾鷹
@ayataka
2026年1月16日
百冊で耕す
百冊で耕す
近藤康太郎
読書術の本。 読書って頭も使うし、時間も必要。 それでも沢山読書してる人の話は 節々に読書への強い思いが感じられて、面白い。 私もかっこつけ読書家目指すぞ、、! ・一日に三冊もの本を読む人間を、世間では読書家というらしいが、本当のところをいえば、三度、四度と読みかえすことができる本を、一冊でも多くもっているひとこそ、言葉の正しい意味での読書家である。 篠田一士『読書の楽しみ』 ・新聞書評を見る ・読書はやみくもにしていいものではない。気の向くまま、自分の好みにあった本ばかり読んでいたら、じつにつまらん人間になっていただろう(いまでもたいしておもしろい人間ではないが)。そもそも「自分の好み」が変わっていくのでなければ、読書なんてなんのためだ、と思う。自分の好みが増える、好みの層が厚くなる。 自分が変えられる。わたしにとっては、それが読書の最大の目的だ。 自由に読むのは、自由のようでいてそうではない。ちっぽけな,自分"に隷属している。 ・射抜くべき的があまりにも遠くに見え、自分たちの弓の力がどこまで届くかを知っている者たちが、目指す場所よりもはるかな高みへ向って的を定めるときのように、振舞うべきである。それは自分たちの矢をさほどの高みへ当てようとするのではなく、そのような高みへ狙いをつけることによって、何とかして彼らの標的へ到達したいと願うためである。 マキャベリ『君主論』 ・積ん読は、人を変える。 それは、「いつか自分もこのような本を読む人間になりたい」という、自分に向けたマニフェストなのだ。自分にはっぱをかけているのだ。未来の自分への約束なのだ。 ・読書はファッションである。かっこつけである。本棚は、なりたい自分の姿、未来の自分への約束だ。読める読めないは別として、難しい本を買ってしまう。百冊本棚が、少しずつ充実したものに変わっていく。本棚の「つらがまえ」が変わる。それは、自分が変わることを、直接的に意味する。 ・わたしは、書物をたいへん大事にしたので、ついには彼らのほうもお返しにわたしを愛するようになった。 書物は熟しきった果実のようにわたしの手のなかではじけ、あるいは、魔法の花のように花びらをひろげて行く。そして、創造力をあたえる思想をもたらし、言葉をあたえ、引用を供給し、物事を実証してくれる。 『エイゼンシュテイン全集1』 ・読書の実益とはなにか。読書で得すること。 その第一は〈沈着〉。 本を読む人は、落ち着いている。本を読むという行為は、原則、ひとりですることだ。 孤独な作業だ。ひとり孤独に読み、ひとり孤独に心動かされる。感動を分かち合う人は、基本、いない。孤独に耐えられる人は、動じない人だ。 その第二は〈油断〉。 読書は、人を油断させる。「キモい、ヤバい、エモい」。言葉が少ない人は、世界を切り分ける能力が低い人だ。逆に言葉が豊かな人は、世界がカラフルに見えている。極地の狩猟民が雪を表現する単語は、われわれよりずっと多い。雪の状態を知ることが、命に直結するからだ。 言葉によって世界を切り分ける。語彙の豊富な人には、世界が色彩豊かに、美しく見えている。言葉の豊かな者は、人を安心させる。言葉は、命に直結するからだ。 また、本を読むのは、分かりたいからだ。世界を、人間を、分かりたい。他者の気持ち、感情に、接近したい。そういう意志を顕現させているのが、本のページを繰るという動作だ。そういう意志に対して、人は気をゆるめる。安心する。一緒に話したい、働きたい。あるいは一緒に暮らしたい。 読書の実益の第三にして、もっとも大事なこと。それは〈自発〉。 隠蔽された奴隷制を生きるわたしは、なぜ本を読むのか。 自由に、なるためである。 自由というのは、上から与えられるものではない。なる>ものだ。自らつかみ取るものだ。契約も、意志も教育も恋愛も選挙も、そして仕事も。「自分がつかみ取った」という実感のないものは、それは自由ではない。 あらかじめ仕組まれた”自由"だ。 だが、本を読むということ。このささやかな目の運動だけは、小さな、かけがえのない自由になり得る。 本は、わたしが選ばなければわたしの手の中にやってこない。本は、わたしが目を動かさなければ、語り始めてくれない。本は、わたしの知らないことはもちろん、予期しない問い、嫌いな結末さえ運んでくる。テレビやネットといちばん違うところ。 つまり、本はへ自発>だ。そして、権力者がもっとも恐れるのが、この自発である。 いかなる中立性も、いやそれどころか、自発的に表明された好意すらも、全体的支配の立場からすればはっきりとした敵対とまったく同様に危険なのだ。その理由はほかでもなく、自発性はまさに自発性であるが故に予測不可能なものであって、そのため人間に対する全体的支配の最大の障碍になるからである。 ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 ・個々の読書体験が、ふとしたことでつながる。分かる>とは、そういうことだ。 数学の本を読んでいて、足し算引き算から代数系の話を知る。考古学の本を読んでいて、文字発生の仮説を知る。狩猟の本を読んで、人類史を知る。言語学の本を読み、言葉の抽象機能を知る。 そうした<知る=follow>行為が堆積していって、分かる=understand>が発火する。 ある日、ある瞬間、「ユーレカ!(分かった!)」と叫ぶ。 読書の楽しみといって、これ以上のものはない。 ・本は、答えが入っている箱ではない。読書とは、問いを、自分で言葉にできるようにする、遠回りの、しかし確実なトレーニングだ。問う筋力をつけている。自分の問いのほんとうの意味が、分かる。本ににじりよっていくうち、自分の言葉で、問いを表現できるようになる。正しく問うことができて初めて、暫定的な答えが現れる。 <分かる)とはそういうことだ。<知識>が堆積していって、そのエネルギーで発火するのが、<理解>という現象の本質だ。 問いは、在るのではない。答えは、探すものではない。 問いも、答えも、自分が創るものだ。 それを可能にするのは、読書だけだ。 ・言葉を変えれば、「我慢することを覚える」ということだ。我慢してでも読む。「よさ」が分からないのは、著者のせいではない、自分のせいだ。そう、観念してしまう。 あきらめる。観念する。そういう感性は、読書にとって死活的に重要だ。がむしゃらに、分かっても分からなくても、読む。むちゃな修業じみた読書を、早めに体験する。いずれ分かる。分かるに決まっている。そう肩じ込む。 ・本を読んだって、結論・答えには達しない。辛気くさくも、一枚一枚ページを繰り、なんの生産物も生み出さない、読書という、暢気で無駄な行為の、それが核心だと思うから。 ・文章を読むという行為には、読者の人格そのものが現れる。怠惰な人間は、文章を怠惰に読む。浅い人間は、浅く読む。 「結論が一目で分からない」「著者の言いたいことが分からない」そうではなくて、わたしだったら、なにが分からないかを、自分の頭で言葉にする。疑問を言語化する。そのとき、読書はかなりの深度を得ているはずだ。 そもそも問う能力がないから、読書に「答え」を待つようになる。読書とは、答えや結論を得る方便ではない。読書とは、新しい問い、より深い問いを獲得するための冒険だ。 「問い」が、そのまま「答え」になっている。終着駅ではない。始発駅に立つために、本は読む。 そして、問いを発見した人が、世界を変える。答えは、世界を動かさない。 なぜなら、世界にも、人生にも、そもそも「答え」はないから。 ・疑いを抱きつつ、批判的に読む。自らの考えと相反するもの、しかし、無視して避けるには巨大過ぎる名著。そうしたものに、玉砕覚悟でぶつかっていく。人生のある時期、そうした蛮勇はあってもいい。 読み、批判し、乗り越える。 自分の歴史観、自分の倫理観を、反対側から眺める。鍛え直す。 ・批判しつつ読む。クールに読む。 しかし相手は知の巨人、こちらは素手の初学者である。どうしても、相手に飲まれてしまうことはある。そんなとき、ひとつテクニックがある。 同時代人の論敵をあわせて読む。 ・並判的に読むというのは、なにも、非難することではない、あらを探して読むことではない。相手を言い負かすためのテクニック、はやりの「論破力」とはもっとも遠い。批判、クリティークとは、むしろ「自己吟味」だ(柄谷行人『トランスクリティーク』)。 批判とは、「たえまない『移動』をくりかえすこと」。単に場所を移すのではない。政治的、経済的、倫理的な立場を改めてみる。別の立ち位置に移動する。 世界を変えるのではない。自分を変える。 自分を変えれば、自分が太く、強くなる。 世界は繊細に、カラフルになる。 ・小林秀雄は、作品だけでなく、書簡も創作ノートもすべて読むのだと書いている。そこまでせずとも、生前に、著者が作品として公表した文章をすべて読む。それだけでもじゅうぶん、作家に取り憑かれる。文体に慣れ、考え方が似てくる。生活態度も1食事に風呂に睡眠に、服装や異性の趣味さえー影響される。まねしたくなる。 そうやって、完全に影響下に置かれる。数年すると、卒業する。飽きたわけではない。 別の、まねしたいような巨人に出会う。 ある作家や学者、批評家に憑依される。数年経って卒業し、また別の作家に憑依される。 それを、二度、三度と繰り返す。そうしてようやく、自分)になれる。自分らしい、オリジナルな問題意識、考え方の癖、文体、つまり生き方のヘスタイル)ができあがる。 オリジナルは、憑依から生まれる。 ・ジャーチリストの本田靖春が書いていたことだが、ワンテーマで五十冊の本を集中して読めば、その分野の見通しがつけられる。本田は元読売新聞記者だ。その方法論は、わたしの体動にもおおよそ合致する。 最初は書店で、自分が取り組もうと思っているトピックに関する入門書的な書籍を数冊、手に取る。新書でもまったく構わない。ただし、巻末などに参考文献が列挙されているものを選ぶ。その入門書をまずは読み、あげられている参考文献をたどり、さらにくわしい専門書の森に分け入っていく。 そうこうしていると、絶対に読まなければならない基本文献、いわばその分野の古典が明らかになってくる。だれもが認めている基礎文献、その「最古のもの」を特定する。 その古典を頂点に、読むべき本を五十冊、ピックアップする。いや、実際に読まなくても構わない。書き出すだけで見晴らしがよくなる。それらの本を、図書館や書店で手に取り、めくる。 つまり、人為的に、意図的に、はまる感覚を作り出してしまおう、ということだ。 そもそも人間に「自由意志」などないのだと喝破したのはスピノザだが、わたしも、少しそれに近い意見を持っている。自分の感覚や意志なんて、自由なように見えてたいそうポ日由だ。宿用できたものではない。 言い換えれば、「はまる」という感覚も、自然発生的なものばかりではない。人為的に、"不自然"に、作り出してしまえるものだ。 ・小説でも詩でも、社会科学でも自然科学でも、「これを読んでいなければ始まらない」という基礎的な古典リストは、必ずあるものだ。定評のある「必読リスト」。そのリストに沿って読む。 偏食しない。順番に。機械的に。なにも考えず、文句をいわず。ただただ、リストを妄行して読む。 ・社会科学のリストは、時代の古い方から新しいのに向けて、順に読んでいく。まずは、プラトン、アリストテレスから読むということである。 ・日本文学のリストは、新しい方から古いものにさかのぼるのがいいと思う。いきなり源氏物語を原典で読めといわれても、早々に挫折するのが関の山だ。 まずは、同時代の作家から順に読んでいく。『必読書150』でいえば、中上健光から始めて二葉亭四迷に至る。『私学的・・・・・」でいえば高橋源一郎から始まり尾崎紅葉へと、時代をさかのぼっていく。そういう意味で、加藤典洋リストの現代作品十二作をまずは準備運動として読破してしまう、というのは賢い選択だ。 江戸期以前の文学にとってもこの手法は有効だった。加藤周一『日本文学史序説』のリストで、近松や西鶴、上田秋成に本居宣長ら近世のものから読んでいき、室町時代の世阿弥、ついで鎌倉時代の徒然草、方丈記、平家物語、そしていよいよ本丸の源氏物語を含む平安宮廷文学に進む。さらに万葉集をへて古事記へ。 言葉遣いや語彙の点で、近世のほうが現代日本語に近いから、理解が容易だということもある。それ以上に、平安時代の宮廷人は、ものの考え方も世界の見え方も、わたしたち現代に生きる日本人とはまるで違う。現代語訳を読んでも意味の分からない考え方をする。 ・海外文学も、基本的には同様だ。新しいものから始めて、最終的には小説の始祖である「ドン・キホーテ』やポッカチオにさかのぼる。しかし、少しだけ注意がいる。あまりに新しすぎるのも考えもので、小説に慣れていない人が、プルーストやジョイス、クロート・シモンにミシェル・ビュトールから始めるのはおすすめしない。これらの作品は、小説を否定するかたちで出発したものだ。いずれ読むべき書物であることに変わりないが、小説らしい小説を読んで、そして、その否定、超克へ進むのが筋であろうし、分かりやすくもある。 だから、ここでの「新しいもの」とは、せいぜいヘミングウェイ、スタインベック、トーマス・マン、マルタン・デュ・ガール、ロマン・ロラン、モーム、そういった第一次大戦の前後、二十世紀の初めに華々しく活躍した作家たちから始める、という意味だ。 整理すると、十九世紀ヨーロッパ小説が海外文学の主戦場だ。そこに乗り込む準備運動に、二十世紀初頭の海外文学で目を慣らしておく。ついで十九世紀小説の大巨匠、ディケンズにバルザックやスタンダール、ドストエフスキーにトルストイらに挑む。あらかた読み終えたら、ボッカチオや、セルバンテス、ゲーテら十七、十八世紀小説草創期の巨人に挑む。 それが終わったら、いよいよ現代の小説、「小説の否定」であるプルーストやジョイス、クロード・シモンやジャン・ジュネ、中南米のマジック・リアリズムに移るという行程表。 自分にはこれがいちばん向いていた。というより、こういう行程表がなかったから(あたりまえだ)、やみくもにぶつかっていき、ずいぶんと苦労した。 ・自分自身に課している日課では、これに加えて④詩集がある。この四種の課題図書リストを同時並行で最低でも毎日十五分ずつ読む。 ・やはり「忙しい」ということが大きい。加えて、「不安だ」ということもある。重要そうな新刊書籍は山ほどある。忙しい毎日で、なぜリストにあるような古くさい本を読まなければならないか。自分の仕事に役立つのか。さっぱり分からない。不安だ。 もっともだと思う。ただ、なんの役に立つのかは、本を読み、リストをつぶしているまさにその当座には分からないという原理がある。そこが肝だとも、同時に思う。 小利口になってはいけない。むしろ大馬鹿になれ。いまの自分に、なんの役に立つのかと、こしゃくなことは考えない。肩じ切る。馬鹿になって、リストにしたがって、単に目を動かす。なにしろ、相手は肩じ切っていい大巨人ばかり。知的山脈だ。 あらすじや登場人物があやふやでも、思想がさっぱり分からなくても、目を動かしていると、はっとする一行、目が釘付けになる文字が、飛び込んでくる。一冊を読み終えて、一行も目に飛び込んでこない大古典など、あり得ない。必ず、ある。そして、その一行、一段落が、一生残る砂金だ。 ・つまり、読書そのものは、人格を育てない。劇薬だ。興味の赴くままただ読むのは、有害でさえある。ヒトラーのように、人類の災厄とすらなる。生を濫読で終わってはいけない。人生のある時期だけでもいい。リストに沿ってカノン(正典)を読む。リスト読書を通過したのちには、あとはなにを読んだって構わない。劇薬であろうとなんであろうと、暗するあごの力が備わっているのだから。 いまの自分を甘やかすな。変わる。変わり続ける。どこまでも転がっていく。 そして、リストはいまの自分を突き放してくれる。自分の好み、嗜好とは、関係がない。 食指が動かないものばかり。それでいい。安心していい。なにせ、時間が証明している。 リストに載っている大古典は、何百年ものあいだ、何千万人、場合によっては何億人によって読み継がれ、新しい読みを発見され、生き残ってきた本物ばかりだ。 リストは、偶然の出会いを促す。自分を、強制的に旅に出す。自分が、自分以外のものになっていく。いまだ自分ではない自分への召喚状だ。 ・わたしにとって、正気に戻る時間とはいつだろうか。 もちろん本を読むときだ。テレビもネットも遮断して、意識して一人きりになる。 本は、一人で読む。一人で読むに決まっている。むしろ、独りになるために読む。 孤高を気取っているのではない。世間から浮きたいわけでもない。ただ、一人でいることも苦ではないことを学習する。孤立を求めず、孤独を恐れず。 ・実際、集中できるということは、ひとりきりでいられるということであり、ひとりでいられるようになることは、人を愛せるようになるための必須条件のひとつである。 もし自分の足で立てないという理由で他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、ふたりの関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、ひとりでいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。 フロム『愛するということ ・孤立を求めず、孤独を恐れず。 本を読む。その、もっともすぐれた徳は、孤独でいることに耐性ができることだ。読書は、一人でするものだから。ひとりでいられる能力。人を求めない強さ。世界でもっとも難しい強さ>を手に入れる。 読書とは、人を愛するレッスンだ。 ・ある文章、ある作品を読んで、感銘を受ける。強い印象をもつ。新鮮な解釈を思いつくもしかしたら、作者の意図していなかった解釈かも知れない。 それでいい。それこそ尊い。テクスト(文章)は、作者の元にとどまっていない。読者が新しい解釈を付け加えて、どんどん太くなっていく。それが、いい文章だ。風通しのいい文章だ。 古典が新しい本より価値が高いのは、端的にいえばそこだけだ。古典の方が、世界でいろんな読み方をされている。長い期間、広い地域で、読者に受容されてきた。その分、読まれ方のレイヤー(層)が厚い。そうした読み方のうち、どれが正解ということはない。 本を読むのに、誤読ということはない。 ・難読本に惨敗しないために知っておきたいテクニック (1)目標をはっきりさせるーアタックできる山頂 読み終えて、少なくとも内容を彼氏、彼女、パートナー、友人におしゃべりでき名、自分がどういう感想をもったかを語れる。そして相手が多少は興味をもってくれる。これができれば、もう成功だ。 (2)読む番を間違えないールートを事前に頭に入れる読む順番を間違えない。社会科学系の本は、古い方から読む。結局、それが近道だ。人は、新しい思想に飛びつきがちだ。流行に飛びつかない。 ところが、文学となると話は逆になる。新しい方から読んでいくのが筋がいいと思う。 時代をさかのぼり、時系列の逆順に片付けていく。 (3) 参考の影響を恐れないー旅に携行するガイドブック 古典と呼ばれる社会科学系の本も、あるいは小説でさえも、解説書を読むことを恥じない。いまは「100分d名著」だとか、「マンガで読む〇〇」といった解説本が出ていてなかなか便利である。解説本や漫画で準備運動をすることは、恥ずかしいことではない。ただし、参考書を読んで満足してはならず、その後、必ず本編を読む。 以上は小説の場合。一方、社会科学系の大古典を読むとき、わたし自身は参考書なしに読み進めることの方がむしろ少ない。 カント『純粋理性批判』やヘーゲル『精神現象学』、マルクス『資本論』にウィトゲンシュタイン『哲学探究』といった、思想史にそびえる高峰を登ろうとするとき、ガイドもなく踏み出すことは、遭難、あるいは途中で棄権する蓋然性が高くなる。これらの本では、いずれも十冊以上の参考書を、九の古典と同時並行して読み進めていた。 ・百冊読書家は、蒲団に顔を埋めて泣いたりしない。たとえばそんなとき、フロイトやラカンの難解な本を読む。 自意識、無意識、対象a、大文字のAなどの概念装置で、自分の「欲望」を説明される。 自分が苦しんでいる妄執・衝動のシステムが解説される。解説されたからといって傷が癒えるわけではない。ないが、難読本に必死に食らいついて苦労したぶん、少し、納得する。 思い当たる節はある。自分を客観視できる。メタ意識をもてる。 つまり、ここでも言葉が自分をだましている。 いや、だます、というのは適当ではない。言葉で自分を馴致している。言葉によってコントロールする。言葉という幻影によって苦しんでいた自分の欲望を、やはり言葉によって飼いならす。自由にしてやる。言葉によって苦しめられた欲望から自由になるには、言葉によるしかない。 毒を制するには、毒をもって。 ・本を読むとは忍耐力のあることだと書いた。もっといえば、本を読むとは、孤独に耐えられるということも意味する。世界で一人きりになっても、本の世界に遊ぶことができる。 それはつまり、人を愛せる、ということだ。 いつでも他者を必要とする人は、弱い。常に他者からの承認を求める人生は、苦しいものとなるだろう。愛されることを渇望する人は、孤独の重さに耐えられない。 ひるがえって、本があればなんとか生きられる人は、必ずしも愛されることを必要としない。ただ人を愛することができるのみだ。 そして、逆説めくが、人を愛せる人が、人から愛される人だ。人から愛されるには、まず自分から愛さなければならない。 ・勉強をする。カルティベートされる。耕す。でも、なんのために?太宰が、ここではっきり書いている。 「むごいエゴイスト」にならないためだ。 人にやさしく。 <百冊で耕す>とは、ついに、人を愛せるようになるためだった! そして、人を愛せる人こそ、自分を幸せにする人だ。自分を愛するのが幸せなのではない。注意せよ。ここに大きな落とし穴、錯誤がある。幸せな人を、よく観察するといい。 幸せな人は、必ず、人を愛している人だ。 長々とここまで本を執筆してきて、ようやく、ほかならぬわたし自身が、いま気づいた。 はっきり、つかんだ。 なぜ、本など読むのか。勉強するのか。 幸せになるためだ。幸せな人とは、本を読む人のことだ。 ・辞書なしで英語の本を読むのに必要な語彙は一万語といわれている。 英語の語彙は、百万語以上もある。一万語などは、ほんの序の口だ。しかし、一万語を覚えると、辞書を引く必要はなくなる。未知の単語もーページにつき数語は出てくるが、前後の文脈から類推することができる。あるいは、飛ばして読んでなんの支障もない。 一万語を覚えるのはたいへんだと思われるが、じっさいにしてみると、そうでもなかった。ここでも一日十五分だけ、単語帳を眺める。そんな暮らしを一年も続けただろうか。 だいたい、分かるようになった。 単語を暗記する作業で、いちばんへこたれるのは、ゴールがない、終点が見えないことだ。英語は百万語以上も語彙がある。覚えても覚えても、未知の単語はわいて出てくる。 しかし、そんなことはもう気にしない。一万語を覚える。しかしそれ以上は、なにがあっても、一語も覚えない、
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