
ジクロロ
@jirowcrew
2026年1月17日
シモーヌ・ヴェイユ
冨原眞弓
読んでる
一般に、あさましい動機のほうが大量のエネルギーを擁する。食料制限下に半ダースの卵を買うために何時間も行列する人間が、人命救助のためには一時間さえじっとしていられない。動機の高邁さとエネルギーの量はみごとに反比例するのだ。滅びゆくものへの憐れみや愛が供給するエネルギーはわずかである。滅びゆくものや力なきものは、独裁者や企業主のように、勲章や出世や金銭などで労に報いてはくれないからだ。
それでもやはり、再生はこのわずかなエネルギーにのみ依拠すべきである。レジスタンスを推進する愛国心という名の原動力に正当な制限が加えられぬなら、このありあまる情念はやすやすとファシズムに反転するであろう。
(p.257)
「動機の高邁さとエネルギーの量はみごとに反比例するのだ。」
高度経済成長期の日本、オイルショックでトイレットペーパーに群がる人々の映像、そのアーカイブ(過去の事実)を目にし、子どもながらに不快な気持ちになったことを思い出す。
ヴェイユの生き様とその文書に触れるたびに、自分もその映像のうちに含まれも違和感のない人間として生きているのではないかと問われているような気になる。
そのアーカイブから溢れ出すエネルギーは、使い方によっては可能性であり希望であるということ。
それら自分が不快だとか悲しいだとか感じるアーカイブをネガとして、「現像」を行い、その新しい像を広く行き渡らせること。
その現像液の役割を果たそうと、苦心しもがいていたのがヴェイユその人であったのかもしれない。

