
中根龍一郎
@ryo_nakane
2026年1月17日
これがそうなのか
永井玲衣
読み始めた
大学でサルトルを読んでいた。フランスの哲学ではデリダ、ドゥルーズが人気を博していたころで、デリダは私の在学中に亡くなり、大学生協にたくさん本が並んだ。サルトルは時代遅れの哲学者、終わった哲学者という評価が、もうほとんど固定されたものとしてじんわり続いていた。なまじブームになった実存主義だけに、ブームを恥じるような、過度に矮小化する視線があった、ような気がする。サルトルを読んでいる学生は周りにいなかった。
世代のちがう永井玲衣は私が大学を出てから世に出てきた人で、彼女が、おそらく彼女の世代にとっても〈時代遅れ〉であるだろうサルトルを研究対象として選んだところに(一方的な)親近感を覚えていた。
「これがそうなのか」という題を見て、まず考えたのは『出口なし』のことだった。「じゃ、これがそうなのか」と、ガルサンが言っていたような記憶があった……でも実際に確認してみたらそれは記憶違いで、原文は「じゃ、これが地獄なのか」という文言だった。じゃ、これは『出口なし』ではないのか。自分の勘違いをちょっと恥じながら目次を見ると、今度はあきらかに『出口なし』の言葉があった。「つづけるんだ」。continuons。ページを飛び越えて「つづけるんだ」の章を開くと、なつかしい伊吹武彦訳が並んでいた。中学生のころにサルトルに出会ってから、何度も読み返した『出口なし』の台詞だった。そこへたどりつくのを楽しみにしながら、今は、頭から読んでいる。
永井の知識やものの見方はもちろんサルトルだけに由来するものではないだろうから、なんでもサルトルに結びつけるのも性急だし、よくないだろう。でもそこここにサルトルの面影があるような気がしてしまう。たとえば「問い」と「他者」を大事な概念にするところ。自分の言葉が、意識が、外からの言葉によって変わってしまうことを大切にするところ。
校正者がゲラに鉛筆で書く指摘は、ギモンと呼ばれる。私たちは他者の言葉に対し、他者に対する他者の言葉として、ギモンを投げかける。それは時に余計なもので、時に破壊的で、時に無意味なものだ。でも時にはそれがうまくいくことがある。上手な問いを投げかけることで、ある遠い他者に、なにかをもたらすことができる。そしてその他者の言葉について考えることは、私たち自身もまた変質させる。他者の言葉に触れ、同化しながら差異を保ち、この私としてギモンを投げかけ、そしてそのギモンがさまざまな形で消えていくことが私は好きだ。そして、そうして投げかけるものがギモンと呼ばれていることが好きだ。ギモン。question。問い。呼びかけるものであり投げかけるもの。それは私の読んできたサルトルの語彙に不思議と似ている。

