( ᵕ ᵕ̩̩ ) "ノット・ライク・ディス" 2026年1月18日

ノット・ライク・ディス
4-2 【引用】  これまで考察してきたサルトルの議論を敷行するならば、例えば医者が捉えるような生理学的、生物学的身体、あるいは、私たちが「客観的で物質的な身体」と考えているようなモノとしての身体は、「他者から見られたものとしての身体」であり、その極限的な抽象物であると言えるだろう。それは「認識の秩序」あるいは「時間的順序」から言えば最後にくるものであって、したがって厳密には所与の自然的実在と言うことはできない。たしかに、私たちの身体が生理学的、生物学的構造をもつことは明白だが、それは眼差しの結果=効果として知覚され、認識されるものなのである。(p.135) 【引用】  このファノンの記述が私たちにとって重要なのは、ファノンは自らの身体に「客観的な眼差し」を注ぐことではじめて自分の「肌の黒さ」を「発見した」という点である。先に確認したサルトルの用話に倣えば、ファノンの「黒い身体」は「対私的身体」においては現前しておらず、「対他身体」の次元においてはじめて現前するのだと言えるだろう。言い換えれば、ここでファノンは自らの身体を「白人の眼差し」で見ているのであり、ここで言われている「客観的な眼差し」とは実際には「白人の眼差し」のことなのである。ファノンが「自分自身の身体によって困らされる」のは「他者にとって存在しているかぎりにおける私の身体」によってであり、この場合の「他者」とは「白人」であり、引いては「白人中心主義的な社会」そのものである。(p.137) 4-3 【引用】  鶴田が述べているところによれば、このトランス女性は他人から見れば十分にパスしている。それでも、Mさんは「かつて男だったときの自己」の「痕跡」を見出し、それゆえ「十分にパスできていない」と感じてしまう。このとき、「かつて男だった自己」を探り出すこのMさんの自己に対する眼差しは、具体的な他者よりもいっそう厳しい眼差しを向ける他者であると言えるかもしれない。(…)  サルトルが赤面恐怖症者に関して述べていたのと同様に、トランスは「自分自身の身体によって困らされる」のだが、その身体とは「他者にとって存在しているかぎりにおける私の身体」であり、言い換えれば、他者の観点から自己の身体を見るときにトランスは「自分自身の身体によって困らされる」のである。そして、サルトルは「他者にとって存在しているかぎりにおける私の身体」を「とらえられないもの」と特徴づけていたが、この「とらえられなさ」は、上でみたMさんの事例に顕著に現れていると言える。まさに彼女が躍起になって「かつて男だった自己」を探し出し、それを消去しようと努めるのは、「他者にとって存在しているかぎりにおける私の身体」が私にとってはとらえ難いものだからである。実際、鶴田が観察しているように、「Mさんは、“理想があるわけではない”と私の予測を否定し、それは”漠然”とした"きりない”ものであると説明を加えている」(鶴田 二〇〇九:八九)。  性別違和とはサルトルの用語法に倣って言えば、「対私-身体」と「対他-身体」の不一致であると言えるかもしれない。しかしながら、「私にとってあるがままの私の身体」と「他者から見られたものとしての私の身体」との不一致が性別違和だと言うのであれば、それはまだ不十分な特徴づけである。というのは、すでにみたように、そのズレや不一致を誰よりも意識しているのはその当人自身だからである。まさに、この当人自身の不一致への違和や嫌悪が高まれば高まるほど、それはときに実際の身体的な性別移行を促していくのであり、ときにそれは整形手術をも促すものになる。だが、この私、すなわち、「私の身体」を誰よりも厳しくチェックしジャッジする「採点者」としての「私」、私の身体に「客観的な眼差し」を向ける超自我のような「私」とは、実は私ではない(原文傍点)のではないか。私のジェンダー化された身体をジャッジするために「客観的な眼差し」を向ける「私」とは、実は、ジェンダー規範的な社会という他者の代理であり、その体内化なのではないだろうか。性別違和の経験において、「他者の眼差し」は「自己の身体に対する私自身の眼差し」として内面化されているのではないか。性別違和とは「対私身体」と「対他身体」の不一致であるが、この「対他身体」は単に「他者から見られた私の身体」であるというだけでなく、「私が見る(原文傍点)ものとしての私の身体」でもあるのではないだろうか。(pp.140-142)
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