( ᵕ ᵕ̩̩ ) "ノット・ライク・ディス" 2026年1月18日

ノット・ライク・ディス
4-4 【引用】 (…)男女という性別の「外部」という位置はアイデンティティや理解可能性を剥奪されることであり、「おぞましいもの」として排除されるということである。先に言及したMさんやLさんといったトランス女性がある意味では周囲の人から見れば必要以上にパスを追求するのは、「曖昧なジェンダー」──性別二元論から零れ落ち、「おぞましいもの」として排除される身体──の排除に対する恐怖や不安がその背景にあるからだと言えるかもしれない。  実際、鶴田は別のトランス女性であるIさんの経験の分析から次のように述べている。  Iさんは、”はっきり”わかっていたのは男であることに対する“違和感”や”苦しさ”だけであり、そこからは"返す刀の反作用でそのまま足が前に行く"ようにして性別の変更を進めていったのだという。しかし、Iさんは”ニュートラルなところまでいければ”よいというところでは、とどまることができなかった。つまり「端的な女の外見」を手に入れるところまで、行き着かざるをえなかったのである。これがまさに”中途半端な”外見に対して向けられる威圧的なまなざしの効果である。〔…〕”女装”や”中途半端”という「ふつう」ではない外見をしていることに対するまなざしは威圧的だと感じられるものであり、そのまなざしを向けられる側に、あら種のいたたまれなさを生み出させる。(鶴田二〇〇九:八三)  「他者の性別を判別する」眼差しは、それを向けられた人の性別を構成するだけでなく、威圧的なものとしても働く。それは、「中途半端で曖昧なジェンダー」にあからさまな「敵意」を向けるのだ。ゲイル・サラモンはエイダンという胸を切除したトランス男性の写真表象を論じるなかで、同様のことを指摘している。「外見に対する不快感という彼の内的な感覚は〔…〕拡張され、彼の身体から外的世界の眼差しにまで展開される。その眼差しはジェンダーの曖味さにあからさまに敵意を向けるものであり、それは彼のジェンダー化された自己の感覚の一部として内面化され、体内化されるのである」(Salamon 2010:117、サラモン 二〇一九:一八八)。(pp.149-150) 【引用】  この節の最後に付言しておくことがあるとすれば、このような「対-他身体」の次元をある種の「思い込み」として──「意識のもち方」によって変更可能なものとして──考えることはできないということだ。エピグラフにも引いたように、たかぎはトランス当事者の立場から「身体はもはや「意味抜き」では存在し得ないのではないだろうか。なぜなら、私たちは生育上、意味があるものと教育され、刷り込まれている。身体はもはや「ただそこに在る」ことを許されない」(ROS 二〇〇七:六五)と述べている。身体に付された社会的なイメージや意味はたしかに変化しうるだろう。だが、それでも、身体に社会的な意味が付されることそれ自体から私たちは決して逃れることはできない。身体とはつねにすでに意味づけられており、それゆえ、私たちは身体に向けられ、それに意味を付与する眼差しそのものから降りることはできないのだ。サルトルが述べているように、「他者から見られたものとしての私の身体」は「対私-身体」と同じだけの「実在性」をもつのである(Sartre 2017:477)。このような「身体の意味」から「降りろ」という無茶な要求がときにトランスに求められることがあるが、バトラーが言うように、「文化的な生存可能性を達成するための構成的制約を根本的に克服せよという要求は、それ自体、暴力の一形式だと言えるだろう」(Butler 2011:79)。(pp.151-152)
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