綾鷹 "オリガ・モリソヴナの反語法" 2026年1月21日

綾鷹
@ayataka
2026年1月21日
オリガ・モリソヴナの反語法
1960年代のチェコ、プラハ。主人公で日本人留学生の小学生・弘世志摩が通うソビエト学校の舞踊教師オリガ・モリソヴナは、その卓越した舞踊技術だけでなく、なによりも歯に衣着せない鋭い舌鋒で名物教師として知られていた。大袈裟に誉めるのは罵倒の裏返しであり、けなすのは誉め言葉の代わりだった。その「反語法」と呼ばれる独特の言葉遣いで彼女は学校内で人気者だった。そんなオリガを志摩はいつも慕っていたが、やがて彼女の過去には深い謎が秘められているらしいと気づく。 大人になった志摩が1992年ソ連崩壊直後のモスクワで、少女時代からずっと抱いていたそれらの疑問を解くべく、かつての同級生や関係者に会いながら、ついに真相にたどり着くミステリータッチの小説。 第二次大戦以前、ロシア革命、冷戦、ソ連崩壊の時代を通して描かれる大河小説でもある。 残虐な国家、理不尽な時代に振り回された人々を想像すると、心が痛む。。 理不尽な時代で逞しく生き残ったオリガの真実を知った後、改めて見るオリガの反語法はより力強く、勇気をもらえる。 エレオノーラとミハイロフスキーの真実は切ない。 変えることのできない状況で、罪の意識を持ちながらも、周りに真実を伝えられない人々。 人を簡単に評価してはならない、歴史上の事実だけでなく個人の物語を知ることに意義があると思わせてくれる小説だった。 ・夜毎の朗読会は、ただでさえ少ない睡眠時間を大幅に侵食したはずなのに、不思議なことが起こった。女たちに肌の艶や目の輝きが戻ってきたのだ。 「自由の身であった頃、心に刻んだ本が生命力を吹き込んでくれたんですよ」 そのうち、音楽や踊りの達人たちも芸を披露するようになった。ハリコフ・オペラのプリマ、オレソニュワもいたし、レニングラード・オペレッタ劇場の指揮者マリアンナ・レルもいた。レルは、収容者から成るオーケストラを作った。楽器が無いのに、人の声で協奏曲や交響曲まで「演奏」してしまうのである。本職はダンサーではないのだが、恐ろしくりの上手い女もいた。 「もう、毎晩が学芸会。どんなに身体がヨレヨレに疲れていても、歌を聴き踊りを見ていると、不思議と元気になるんですもの。収容所当局には、歌舞音曲は無用の長物だったかも知れないけれど、わたしたちにとっては、生き続ける気力の元でした」 ・逮捕されて刑が確定するまでの二カ月間、ルビャンカでも、ブティルカでも、入れられたのは独房だった。身に覚えのない荒唐無稽な罪状を押しつけられて、来る日も来る日も深夜、尋間室に呼び出されては、それを認めろと明け方まで痛めつけられた。最初の一カ月間、あたしは絶望のあまり死ぬことばかり考えていた。 ところが、逮捕された直後にまず奪われたのは、刃物と刃物になりうるもの全てだった。ナイフやはさみはおろか、髪留めのピンも裁縫用の針も全て取り上げられていた。それから、首を絞めることが出来るものすべて。靴ひももベルトも靴下止めのゴムも紐も縄も取り上げられていた。そして獄房内は常に煌々と電灯が点されていた。あれだけ人を殺しまくっていた当局は、それを囚人が自力ですることを極端に嫌がった。生死さえも自分たちの支配下に置こうとしたんだ。 そうなると、意地でも自殺を遂げてみせようと、刃物を手に入れるべく必死になった。皮肉なことだが、それが生き甲斐になったのさ。それで、ある日、発見したんだ。靴紐は取り上げられていたけれど、靴ひもを引っ掛けるための掛け金が靴に残っていたのを。その掛け金を外して、曲がっているのを真っ直ぐ伸ばして、毎日床石に当てて少しずつ研いでいった。こうして自分で刃物を手にした瞬間、途轍もない解放感を味わったんだ。自由を獲得したと思った。あたしの生死はあたし自身で決めるって。 もうそのときは、自殺する気なんて完全に雲散霧消していた。絶対に自殺するものか、生き抜いてやる、と心に固く決めていた。そういう勇気と力をこの手製のカミソリは与えてくれた ・「彼女たちは、あたしたち上品な政治犯みたいに群れの羊よろしく看守の言うがままに振る舞ったりしない。いちいち看守や衛兵の言動に文句を言い、自分たちの権利をとことん主張する。必要ならば団結するし、仲間のために身体も張る。衛兵を召使いのようにこき使ってたのが、痛快だった。列車が止まるたびに、新鮮な水を何度でも運んで来させたし、近隣の農家からパンや野菜や卵などを買ってこさせていた」 それですっかり意気投合して、彼女たちから罵倒言葉をどっさり教えてもらったそうよ。 「罵倒言葉と一緒に権力や権威にひれ伏さない生き方もね」って言っていたのが印象的だった。 ・「彼は尋問官の助手をしていて、一部始終を見ていた。尋問官はその後粛清されて銃殺されたらしい。 アルジェリアではわたしの方からボリス・アントノヴィッチに近づいたのよ。自分の恥ずべき罪を他言されるのが死ぬほど怖かったから。彼は女に汚い男だったけど、最後までわたしの秘密を守ってくれた。わたしの名誉を守ってくれた。でもその罪もわたし自身からは隠せない。わたしはそれを見まいとしてきたけれど、最後の審判の前では隠せない・・・・」 そこまで言うと、エレオノーラ・ミハイロヴナは、もう一度わたしのことをしっかりと見据えて、何か囁いた。もう、声にはならなかったけれど、「さようなら、ジーナチカ、幸せになるのよ」 と言ったのが分かった。優しい灰色の瞳が閉じられて、二度と開かれることは無かった。その翌朝エレオノーラ・ミハイロヴナは、冷たくなっていた。本来背負わなくてもよい罪を引き受けて、残りの人生全てを捧げてあがなったエレオノーラ・ミハイロヴナの魂は、シャオツィーと生まれなかった赤ちゃんのもとへ行ったに違いないと、死後の世界をじないわたしでさえ、その悲しい亡骸を前にして、念じずにはいられなかった。 ・オリガ・モリソヴナの全てが反語法だったのだなとも思えてくる。まるで喜劇を演じているかのような衣裳や化粧や言動は、その裏のむごたらしい悲劇を訴えていたのだろうか。 「えっ、もう一度言ってごらん、そこの天才少年!ぼくの考えでは・・・・・だって!!フン、七面鳥もね、考えはあったらしいんだ。でもね、結局はスープの出汁になっちまったんだ。分かった!?」また聞こえてきた。思わず吹き出してしまう。その瞬間に思った。オリガ・モリソヴナの反語法は、悲劇を訴えていたのではなくて、悲劇を乗り越えるための手段だったのだ、と。
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