yakasak "三の隣は五号室" 2026年1月24日

yakasak
@yakasak
2026年1月24日
三の隣は五号室
第二話 抜けないガスホースのくだり、好き “人生にはしばしば、そういう時間がある。誰も自ら語らないし誰から語られることもないが、あるはずだ。側溝や、自動販売機の下に転がっていった小銭に手を伸ばしたり、瓶になにげなく差し込んだ指が抜けなくなったり、タイルとタイルの間のもう落ちない黒ずみをこすったり、洗面台の排水溝に落としてしまった母親の指輪を拾いあげようとしたり。そういうときのあらゆる苦闘を「人生の時間」と、誰も思っていない。だけど、仕事や恋愛や、なにか大事な時間を経たのと「同じ」人生の時間上にそれらのこともあるはずだ。” “シンクの右端、ステンレスで囲われた、一段下がった隅に元栓はあって、それは二股に分かれている。一つはコンロ用で一つはおそらくガス瞬間湯沸かし器のためのものだろう。ゴムの切れ端の残っていない方をコンロ用に使う手もある。久美子はガス湯沸かし器を持ってきていなかったから。だが、いいのだろうか。久美子は今度は自分の未来が分からないと思った。  将来どんな職業につくのか、誰と恋愛するのか、どんな友と、どんな場所へいき、なにを成すのか成さぬのか、といったような「未来らしい」未来とともに、自分はこの家でガス瞬間湯沸かし器を買うのか、買わないまま住み終えるのかということもまた同じ「未来」だ。  分からないまま、空いてる方の元栓にガスホースを差し込むことはためらわれた。未来のすべて(大事なものも含めた)をいい加減に取り扱う行いのような気がしたのだ。”
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