
咲
@mare_fecunditatis
2026年1月24日

読み終わった
@ 自宅
「やっと言えた」をやっと読めた。
いつになく感情が溢れて、乱れて、やりきれなかった一週間を越えて、いま、やっと。
アラームをかけずに寝ると、昼前に目が覚める。何も食べる気にならず、3時ころまで、静かに静かに、読む。
「医療では、私の物語は[病気]や[障害]と呼ばれました。受け入れ難い気持ちになったときに食べたものを吐き出してしまうことは[摂食障害]という言葉になりました。死にたいという衝動は[希死念慮]という言葉になりました。会いたくはないのに男の人に会うことは[性的逸脱]、電車に飛び込みたくなるのは[衝動性]と言われました。でも、病気や障害として名づけられた不調や苦しみは、医療の中ではよくなりませんでした」
「わたしは、自分のこれまでの人生が臨床心理の言葉で語られて、自分のあずかり知らないところでわかったふうにまとめられるのが耐え難かった。それほど切実に、自分の物語を誰かの言葉ではなく自分の言葉で語る必要があった。誰かがわたしのことを語ってしまうと、他人の言葉の陰で自分が消え失せてしまうように感じる」
「つらいことがあったときに「悲しい」を持っていては、あまりに悲しすぎて私は生きていけなかった。「悲しい」はなかったことにして、「悔しい」が使われ、それだけでは到底足りなければ「死にたい」がやってくるのだった」
「私は愛されたいのだ。それも相手が愛したいようにではなく、私の愛してほしいように、愛してほしいだけ、愛されたいのだ。私は、相手が愛してくれるのを受け取るだけしかできないと思っていた。愛というのは、もらえて初めて受け取れるだけのものだと思っていた。でもそうじゃない。願っていいのだと初めて思えた」
大事にしたいし、大事にされたい。愛したいし、愛されたい。
不確実性に満ちた関係性を、行為を、生きるにあたって、「信頼する」というのは、おそろしいこと。
人が人を「わかる」ことは、できない。でも、それをわきまえたうえで、わかろうとすることはできる。
わかってほしくて、わかってほしくなくて、わかったようなことを言ってほしくなくて。既存のカテゴリーで、既存の理論で、誰かの言葉で、「わたしの物語」を語ること、それは、その人から尊厳を奪うことだ。
わかることはできないまま、そっと、触れる。




咲
@mare_fecunditatis
コメントをいただきありがとうございます。
「庭に埋めたものは掘り起こさなければならない」も、発刊されてすぐに購入して拝読したのですが、そのときの私は、その文章を引用して書き写すことも、感想を書くこともできないほどに、言葉に飲み込まれ、たくさんの付箋を貼ったまま、もう、本を開けなくなってしまっていたのでした。
今、「やっと言えた」を読み、言葉を受け取ることができたような、「触れる」ことができたような感覚があります。
この感覚のまま、また、「庭に埋めたものは掘り起こさなければならない」を読みたいです。
言葉になりえないと思い続けた体験や感情が、「他者の言葉」によって、触れても良いような形と距離に変容していく、不思議な感覚を味わいました。
書いてくださってありがとうございます。