
ミサキ
@misaki2018jp
2025年3月11日

傷を愛せるか 増補新版
宮地尚子
読み終わった
@ 本の読める店fuzkue 下北沢
「蝶は、この世とあの世をつなぐ生き物とされているんだよ」
↑調べたら変化や再生を象徴する吉祥のしるしでもあるらしい
だれかが自分のために祈ってくれるということがどれほど心を動かすものなのかを、わたしはそのとき初めて知った。
純粋に心からだれかに幸せを願ってもらうということ、その事実と時間がどれほど「有難い」ことか、そして勇気づけられることか、そのとき気づかされた。
↑泣きそうになった。何もできなくても、その思いがあるだけで人は救われるし生きられる。心が荒んでいるとき、誰かからのその思いさえ跳ね除けそうになってしまうことがあるけどいつでもその気持ちをまっすぐに受け止めて感謝できる人でいたい。
最終的にその予言が当たり、約束が果たされるという保証はない。けれどもいま、真剣にそう思うから、そう願うから、そう信じるから、言葉にして共有し合う。未来に言葉を投げかける。不十分ながらも、不幸の淵に流されつづけると思い込んでいた人に、「幸せ」という言葉を投げかける。そうやって、淵の手前にガードレールがあるということ、あなたが淵から転落してしまわないように社会は安全策を築いてきたのだということ、あなたが溺れそうになったら命綱を投げて助けようとする人はいるのだといことを、思い出してもらうのだ。
「約束」とはそれ自体が100パーセント守られる保証はなく、夢であり、祈りであり、希望であり、信じることである。
自分がだれにも連絡を取らず、だれからも連絡がないまま休日が過ぎると、世界にひとり取り残された気がして、自分なんて存在しないしなくてもいいんじゃないかと思ったりする。そういうときも「ああ、これは明日の出会いの前の静けさなんだ」と思える。
人間の身体ほど安定性に欠け、限界の多いものもない。これもまた脳に当てはまる。記憶力は当てにならず、認知は先入観に拘束され、思考は感情に左右され、行動には無駄が多い。ただ、だからこそ、機械にない複雑な思想や、深い洞察が人間から生まれるのだともいえる。
人はみな、親や家族を選べない。産み落とされた人間関係の中で成長するしかない。
けれども二〇代、三〇代以降の人間の成長とは、自分なりの感性を磨き、波長の合う人たちとつながり、ソウル・メイトやソウル・ブラザー、ソウル・シスターとして関係をはぐくみあい、血縁も国籍も性的指向も抜きにしたソウル・ファミリーをつくっていくことなのかもしれないと思う。
美しい傷など、実際にはまずありえない。
傷として名づけること。手当てされた風景を残すこと。それでも「何にもならないこと」もあるという事実を認め、その「証」を残すこと。
傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや腹痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。
↑傷なんてない方がいい。でも誰しもが傷を抱えているし、傷なしで生きることはできない。だから傷との向き合いかたを知る必要がある。

