なお "私とは何かーー「個人」から「..." 2026年1月30日

なお
なお
@nao_reading51
2026年1月30日
私とは何かーー「個人」から「分人」へ
「本当の自分」という幻想を超えて――平野啓一郎『私とは何か』を読んで 中学校の友人といるときの私と、高校の友人といるときの私は、明らかに違う。中学の友人の前では饒舌で冗談ばかり言っているのに、高校の友人の前では物静かで思索的になる。以前の私は、この違いに罪悪感を抱いていた。「本当の自分」はどちらなのだろうか。私は場面によって仮面を使い分ける偽善者なのではないか、と。 しかし、平野啓一郎の分人理論に出会って、その問い自体が間違っていたことに気づかされた。そもそも「本当の自分」という唯一無二の核など、最初から存在しなかったのだ。 デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と宣言して以来、西洋哲学は「確固たる自我」という考え方を大切にしてきた。そして近代以降、私たちは「ありのままの自分」「本当の自分」という概念に呪縛されてきた。 しかし平野が提示する分人理論は、この前提そのものを覆す。分人とは、それぞれの人に対する違う顔のことである。私たちは対人関係ごとに異なる分人を生きており、その複数の分人の集合体こそが「個人」なのだという。中学の友人といる私も、高校の友人といる私も、すべて等しく「本当の私」なのだ。 誰かと仲良くなるということは、その人への分人を発達させることに他ならない。最初は挨拶を交わすだけだった人と、何度も会話を重ねるうちに、徐々にその人専用の自分が育っていく。それは演技ではなく、関係性の中で自然に生まれる新しい自分なのだ。 よく言われる「人間はもっとも親しい5人の平均である」という格言がある。これは起業家のジム・ローンが広めたとされる言葉だが、分人理論はこの現象に明快な説明を与えてくれる。日常的に接する人が多ければ多いほど、その人たちに対応する分人の比重が大きくなる。どんな人と時間を過ごすかを選ぶことは、どんな自分になるかを選ぶことなのである。 本書で印象に残った記述のひとつは、グループ向けの分人が相手専用の分人になる瞬間についての記述だった。 たとえば、クラスメイトとして何気なく付き合っていた人と、放課後に二人きりで話し込んだとする。それまで「クラスの一員」として接していた関係が、その瞬間に「あなた」と「わたし」という一対一の関係に変化する。二人きりの空間の中で、新しい分人が胎動し始めるのだ。 「自分は相手の鏡」という言葉がある。分人理論は、この現象を根源的なレベルで理解させてくれる。私たちは相手に応じて自分を変えているのではない。相手との関係性の中で特定の分人が引き出されているのだ。陽気な友人といれば陽気な分人が、知的な友人といれば思索的な分人が前景化する。 だからこそ、誰と関わるかは決定的に重要なのだ。有害な関係は好ましくない分人を肥大化させ、健全な関係は最良の部分を引き出してくれる。 そして、本書の中でもっとも深く考えさせられたのは、分人と死をめぐる議論だった。 人が死ぬということは、その人との関係において生まれた分人が失われるということだ。母親を亡くした人は「母親の前の自分」を失う。これは自己の一部の死でもある。 しかし同時に、故人との関係で形成された自分の中の分人は、その人が亡くなった後も残り続ける。故人を語るとは、その人との関係で育まれた自分の分人を通して、その人の姿を再構成することなのだと平野は説く。人は他者の中に分人として生き続ける。その分人を大切に保ち続けることで、故人を自分の中に生かし続けることができるのだ。 この本を読んで以来、私は人間関係の見方が根本的に変わった。新しい人と出会うことは新しい分人を生み出すチャンスであり、大切な人との関係を深めることはその人への分人を豊かに育てることだと理解できた。 「本当の自分を探す」という呪縛から解放され、複数の自分を受け入れる。自己とは一なるものではなく多なるものであり、その多様性こそが人間存在の豊かさなのだと認める。平野啓一郎の分人理論は、自己とは何か、他者との関係とは何か、という根源的な問いに、まったく新しい視座を与えてくれる思想である。​​​​​​​​​​​​​​​​
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