Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
なお
なお
なお
@nao_reading51
ただの活字好き📚 オールジャンルの読書感想文投稿します📖
  • 2026年8月16日
    黄色い家
    黄色い家
    川上未映子さんの『黄色い家』は、2020年春、主人公の花がかつての同居人・黄美子の逮捕をネットニュースで知る場面から幕を開ける。そこから物語は、1990年代後半から2000年代初頭へと遡り、15歳で居場所をなくした少女が、生き延びるために「黄色い家」という疑似家族を築き、やがて違法なカード犯罪の深みへ堕ちていく軌跡を、圧倒的な熱量で描き出す。 手に取ったきっかけは単純で、「人はなぜ罪を犯すのか」というキャッチコピーに惹かれたのと、黄色はゴッホの色だという勝手なイメージがあって、ゴッホ好きとしてつい反応してしまったからだった。実際に読んでみると、このタイトルは思いつきの色ではなく、作品全体を貫く比喩として機能していることに気づかされた。 タイトルにある「黄色い家」は、画家フィンセント・ファン・ゴッホが南仏アルルで芸術家たちの共同体を夢見て借りたアトリエを彷彿とさせる。ゴッホにとっての黄色が狂気と救済の入り混じる光であったように、本作における「黄色い家」もまた、過酷な現実から逃れて身を寄せ合った女性たちにとっての切実なユートピアだった。しかし、ゴッホの理想郷がゴーギャンとの破綻によって短期間で崩壊したのと同様に、彼女たちのシェルターもまた、外部社会の冷酷さと内なる弱さゆえに、静かに歪んでいく。 前半で描かれるのは、少女にとっての「安全基地」がいかに切実に求められていたかという点だ。スナックで働く奔放な母親に放置され、頼る大人のいない15歳の花にとって、不器用で危なっかしい黄美子は唯一自分を無条件で受け入れてくれた存在だった。花が求めていたのは、誰かに愛され、明日食べるものに困らず、安心して眠れる場所という、人間としてあまりにも当たり前の権利にすぎない。読者は、ひたむきに生活を立て直そうとする花の健気さに引き込まれるからこそ、この先に待ち受ける破滅の予感に息を詰まらせることになる。 そして、物語の後半において花たちが手を染めていくのは、クレジットカードのショッピング枠現金化や偽造カードを用いた詐欺・転売といった、グレーから完全なブラックへと連なる裏ビジネスだ。特筆すべきは、花が犯罪に走った動機が「贅沢や放蕩」ではなく、一貫して「居場所の維持」と「貧困への恐怖」にあった点だ。 家賃を払い、黄美子や仲間たちとの生活を守るため、金だけが自分を暴力や路上生活から守る唯一の盾になっていく。最初は小さな違反や違和感だったものが、日々数字として積み上がる札束を前にするうち、倫理的な感覚が麻痺していく。日常と犯罪の境界線は明確な壁ではなく、気づいたときにはもう後戻りできなくなっている、極めて緩やかなグラデーションとして描かれる。 本作が突きつけるのは、セーフティネットの網の目から零れ落ちた若年女性たちの「生存のリアリティ」だ。目標や欲望自体は社会の誰もが持っているものと同じなのに、それを叶える正当な手段(教育、家族の保護、安定した雇用)から最初から排除されているとき、人は非合法な手段へと追いやられる。公的な支援が届かない空白地帯で、生き延びるための相互扶助が、皮肉にも犯罪組織の搾取構造へと直結してしまう。 犯罪そのものを肯定することはできない。しかし、逮捕されたニュースの見出しや判決文だけで「凶悪な犯罪者」として切り捨ててしまえば、彼女たちをそこへ追い詰めた社会構造の不条理は見えなくなる。なぜ普通の少女がそこへ至らざるを得なかったのかという文脈を追体験することは、加害を正当化するためではなく、同じ道に迷い込む人を二度と生まないための不可欠な視座を与えてくれる。
  • 2026年8月15日
    すべての、白いものたちの
    すべての、白いものたちの
    日々の生活の中で、最近もっと繊細に物事を感じられる自分でいたいと思う瞬間があります。そんな時に出会ったのが、ハンガン『すべての、白いものたちの』でした。梶井基次郎の『檸檬』を読んだときに感じた、あの胸が高鳴るような感覚を、久しぶりに思い出させてくれたのです。 『檸檬』の魅力は、ストーリーではなく感覚の描写の鮮やかさにあります。丸善で檸檬を爆弾に見立てる飛躍。日常の些細な物が、光や質感を通して特別な輝きを帯びる瞬間を描いた作品でした。彼の作品への憧れにより、対象そのものより、対象を通して立ち上がる感覚を書く、この文体こそが、自分にとっての文章の理想形になっていっていったのかもしれません。 ハンガンの『すべての、白いものたちの』は、産着・雪・骨・塩など「白いもの」にまつわる短い断章を積み重ねた小説です。明確なストーリーラインを追う小説ではなく、一つひとつの「白」から連想される記憶や感情が、丁寧に、美しく紡がれていきます。読み始めてすぐ、これは梶井基次郎の『檸檬』の感覚だとワクワクしました。 両者の描写力に共通する点は、自分の感情を直接的に書かず、対象と安易に接続しない、洗練された文体です。梶井基次郎は檸檬の重み、冷たさ、匂いを執拗に描写するだけで、主人公の鬱屈も高揚も直接語りません。ハンガンもまた、雪の降り方や布の白さを丹念に描くだけで、その奥にある喪失や祈りには一切触れない。読み手は、質感や光や温度の描写を追ううちに、いつの間にか感情の輪郭を自分で掴んでいる。この「説明しない胆力」こそが、両者に共通するものなのだと思います。 例えばハンガンの「白」は、喪失や記憶といった重いテーマを扱いながらも、驚くほど澄んだ読後感を残します。この抑制された美しさこそが、梶井基次郎の描写力とまさに重なり、読書の喜びを再確認させてくれました。
  • 2026年7月16日
    あなた次第でこの世界は素晴らしい場所になる
    次絶対読む!友達のおすすめ
  • 2026年3月15日
    イン・ザ・メガチャーチ
    ストーリーに飲み込まれる大衆 2025年12月、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を読んだ。書評家の三宅香帆さんが本作を「2025年の日本のスナップショット」と評していたのがきっかけで興味を持ったもの。 タイトルの「メガチャーチ」は巨大教会を意味する。しかし日本は宗教が社会の規範となっている国ではないし、かつての「村」のような濃密な共同体もすでに解体されつつある。そうした個が最小単位となった社会において、バラバラになった人々を繋ぎ止めているもの。それこそが、武器化された「ストーリー」だというのが、本作の大きいテーマだ。 なるほど、ストーリーか。確かに現代社会のあらゆるところにストーリーは存在する。成功者のサクセスストーリーから、マーケティング戦略における顧客視点のストーリーまで。しかし本作が描くのは、その先にある話だ。ストーリーは人を救うこともあれば、ビジネスの道具にもなる。そして時に、人の認知そのものを塗り替える武器にもなる。 読み進めるほどに、朝井リョウは小説家というより社会学者なのではないかと思えてくる。推し活に救いを見出す娘・すみかと、その熱狂をビジネスとして設計する父・久保田。そしてアイドルの死をきっかけに陰謀論へと傾いていくコミュニティ。三者の視点が交互に切り替わりながら、現代日本社会の断面が浮かび上がってくる。 この本は感情を揺さぶる系というより、社会の構造についてじっくり考えさせられる系。アカデミックなコメントになるけど、この本を読んで現代社会学の古典ともいえるバウマンの『流動する近代』をふと思い出した。 宗教や共同体といった安定した枠組みが不在の社会では、人々は流動するアイデンティティを一時的にでも固定するための拠り所を求め続けるとバウマンは指摘する。本作が描き出しているのは、まさにその「流動性」への抵抗だ。推し活であれ、ファンダムであれ、陰謀論であれ、それらはすべて、剥き出しの個という不安から逃れるための、現実逃避の仕組みなのだろう。
  • 2026年3月1日
    マチネの終わりに
    平野啓一郎が描く相反する感情の美しさ クラシックギタリストの蒔野と、ジャーナリストの洋子。異なる世界に生きる二人の恋愛を描いたこの物語は、クラシックギターの旋律に溢れ、全編に音楽が流れているような作品だ。舞台はパリやニューヨークなど華やかな都市を横断し、読み進めるうちにまるで演奏会の余韻に浸るような感覚! この作品がとりわけ印象深かったのは、人間の感情の機微を丁寧に掬い取っているところだ。蒔野のマネージャー三谷早苗は、嫉妬心から二人の仲を引き裂きながら、後にその罪悪感と向き合い贖罪しようとする。悪意と後悔、自己正当化と償いの義務感が一人の人間の中に同時に宿っている。三谷のしたことには正直ひいたが、その感情の複雑さを平野啓一郎は納得感のあるワードチョイスで自然に描き出している。人間はどんなに一貫性があるように見えても、その内側は矛盾だらけだ。三谷も、蒔野も、洋子も。そのリアルさが読むほどに深く刺さってくる。 もう一つ心に残ったのは、人と人の関係性をアポロの軌道に例えた表現だ。軌道が少しでもずれていたら月に到達しなかったかもしれない。その緊張感が、二人の仲が深まるかどうかという展開と重なる。ある一言、ある一瞬が軌道を決定的に変えてしまう。科学者のような冷徹な視点で人間関係を語るその言葉が平野さんらしいなと思う。 この比喩を読んだとき思ったのは、小学校の出席番号が近いというだけで大人になっても仲良くいられる友人は、実はとんでもない奇跡の産物なのかもしれない、ということ! 偶然あいうえお順が近く、同じ教室になり、声をかけ合い、共通の話題で笑い合える。それ自体がすでにミラクルだし、確率で言うと1万分の1とかのレベル。 平野はこの小説の中で恋愛関係が深まることを奇跡と表現していたが、それは恋愛に限った話ではなく、人間関係そのものすべてに当てはまるように思う。奇跡とタイミング、タイミングと縁。人と人の出会いとは、運命の悪戯なのかもしれない。そう思うと、身近な縁のひとつひとつがまったく違う輝きを帯びてくる。 この物語は2019年に映画化もされており、蒔野を福山雅治、洋子を石田ゆり子が演じている。石田ゆり子の知的な雰囲気と可憐さが洋子にぴったりだと思うので、映画版もぜひ観てみたいと思っている。 『マチネの終わりに』は、恋愛小説でありながら、人と人が出会うことの不思議さを深く問いかける作品だった。平野啓一郎は、やはりいい作家だ。​​​​​​​​​​​​​​​​
  • 2026年1月30日
    私とは何かーー「個人」から「分人」へ
    「本当の自分」という幻想を超えて――平野啓一郎『私とは何か』を読んで 中学校の友人といるときの私と、高校の友人といるときの私は、明らかに違う。中学の友人の前では饒舌で冗談ばかり言っているのに、高校の友人の前では物静かで思索的になる。以前の私は、この違いに罪悪感を抱いていた。「本当の自分」はどちらなのだろうか。私は場面によって仮面を使い分ける偽善者なのではないか、と。 しかし、平野啓一郎の分人理論に出会って、その問い自体が間違っていたことに気づかされた。そもそも「本当の自分」という唯一無二の核など、最初から存在しなかったのだ。 デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と宣言して以来、西洋哲学は「確固たる自我」という考え方を大切にしてきた。そして近代以降、私たちは「ありのままの自分」「本当の自分」という概念に呪縛されてきた。 しかし平野が提示する分人理論は、この前提そのものを覆す。分人とは、それぞれの人に対する違う顔のことである。私たちは対人関係ごとに異なる分人を生きており、その複数の分人の集合体こそが「個人」なのだという。中学の友人といる私も、高校の友人といる私も、すべて等しく「本当の私」なのだ。 誰かと仲良くなるということは、その人への分人を発達させることに他ならない。最初は挨拶を交わすだけだった人と、何度も会話を重ねるうちに、徐々にその人専用の自分が育っていく。それは演技ではなく、関係性の中で自然に生まれる新しい自分なのだ。 よく言われる「人間はもっとも親しい5人の平均である」という格言がある。これは起業家のジム・ローンが広めたとされる言葉だが、分人理論はこの現象に明快な説明を与えてくれる。日常的に接する人が多ければ多いほど、その人たちに対応する分人の比重が大きくなる。どんな人と時間を過ごすかを選ぶことは、どんな自分になるかを選ぶことなのである。 本書で印象に残った記述のひとつは、グループ向けの分人が相手専用の分人になる瞬間についての記述だった。 たとえば、クラスメイトとして何気なく付き合っていた人と、放課後に二人きりで話し込んだとする。それまで「クラスの一員」として接していた関係が、その瞬間に「あなた」と「わたし」という一対一の関係に変化する。二人きりの空間の中で、新しい分人が胎動し始めるのだ。 「自分は相手の鏡」という言葉がある。分人理論は、この現象を根源的なレベルで理解させてくれる。私たちは相手に応じて自分を変えているのではない。相手との関係性の中で特定の分人が引き出されているのだ。陽気な友人といれば陽気な分人が、知的な友人といれば思索的な分人が前景化する。 だからこそ、誰と関わるかは決定的に重要なのだ。有害な関係は好ましくない分人を肥大化させ、健全な関係は最良の部分を引き出してくれる。 そして、本書の中でもっとも深く考えさせられたのは、分人と死をめぐる議論だった。 人が死ぬということは、その人との関係において生まれた分人が失われるということだ。母親を亡くした人は「母親の前の自分」を失う。これは自己の一部の死でもある。 しかし同時に、故人との関係で形成された自分の中の分人は、その人が亡くなった後も残り続ける。故人を語るとは、その人との関係で育まれた自分の分人を通して、その人の姿を再構成することなのだと平野は説く。人は他者の中に分人として生き続ける。その分人を大切に保ち続けることで、故人を自分の中に生かし続けることができるのだ。 この本を読んで以来、私は人間関係の見方が根本的に変わった。新しい人と出会うことは新しい分人を生み出すチャンスであり、大切な人との関係を深めることはその人への分人を豊かに育てることだと理解できた。 「本当の自分を探す」という呪縛から解放され、複数の自分を受け入れる。自己とは一なるものではなく多なるものであり、その多様性こそが人間存在の豊かさなのだと認める。平野啓一郎の分人理論は、自己とは何か、他者との関係とは何か、という根源的な問いに、まったく新しい視座を与えてくれる思想である。​​​​​​​​​​​​​​​​
  • 2026年1月16日
    世界を変えた100のスピーチ 上
    世界を変えた100のスピーチ 上
    『世界を変えた100のスピーチ』の上巻を読了!古代ギリシャから冷戦期まで、歴史の転換点で語られた50人の言葉が載っていて、教科書以上に人類の歴史を鮮明に伝えてくれる一冊。大人の歴史学び直しに最適だとおもいます! たくさんのスピーチが載っていたけど、特にヒトラーの演説は、感情を煽るのではなく冷徹に「勝者は正義を問われない」と言い放ち、言葉が持つ破壊的な力をまざまざと見せつけるもの。また、チャーチルの「鉄のカーテン」の章も、とても勉強になった。チャーチルの演説は、第二次世界大戦後の平和の中で既に始まっていた(みんなが見て見ぬふりをしていた)東西分断を鋭い比喩で可視化しており、その言葉を皮切りに冷戦が始まったと言っても過言ではない。 歴史は出来事そのものではなく、それをどう言語化するかで形作られるもの。言葉が世界を形作っていく様を実感し、言葉の力を感じる良書。 下巻も続けて読みたいな。
  • 2026年1月10日
    人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)
    時間という名の財産 セネカの『人生の短さについて』を読み終えた。哲学書というより、二千年前の自己啓発本という感じ。 「自分自身のために生きない人は、時間を無駄にしている」。 セネカは、忙しさそのものを問題にしていない。不治の病に侵され、残された時間がわずかだと知ってから慌てる人間の姿を引き合いに出しながら、彼が繰り返し批判するのは、自分の時間を自分で使っているつもりで、実は他人や状況に明け渡している生き方だ。多忙な人間の人生は短い。なぜなら、時間が足りないからではなく、時間が自分のものではないから。 あと、印象に残ったのは、娯楽についてのくだりだ。セネカは『イリアス』と『オデュッセイア』のどちらが先に書かれたかを延々と議論する人々を「愚か」だと切り捨てる。二千年前のローマ人も、今のネット民も、やってることは変わらない。自分の生と何の接点もないことに、人生の貴重な時間を差し出してしまう。 この本を、社会人になったばかりの頃に読んでいたら、一体どうだっただろう。当時の私は、がむしゃらに働き、その反動で土日はほとんどノープランだった。仕事終わりの一杯、週末の弾丸旅行。無計画にストレスを発散し、また月曜から走り出すって感じ。 それらが悪かったとは思わない。あの時期に多くの友人ができ、たくさん旅をしたからこそ、今の自分がある。旅先で、考えが深まった瞬間も確かにあった。 ……と、ここまで書いて気づいた。これ、セネカに怒られるやつだ。「結果的に良かった」という論法は、まさに事後的な正当化ではないか。
読み込み中...
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved
なお (nao_reading51) さん - Reads | 読書のSNS&記録アプリ