しまりす "逆説の古典" 2025年3月11日

しまりす
しまりす
@alice_soror
2025年3月11日
逆説の古典
逆説の古典
大澤真幸
・カール・マルクス『資本論』p.14-18 三部作のうち一部のみ存命中出版 第一部 資本の生産過程 第二部 資本の流通過程 第三部 資本主義的生産の総過程 経済学の本ではなく、「経済学批判」の本 資本主義の中で生じるあらゆる経済活動(商品売買、利潤追求、資本投下)は「神学的な現象に近い、進学的な論理で動いている」 資本主義とは一種の宗教、無意識の宗教 人は宗教から無縁だと思っているまさにそのとき、最も宗教的→それが資本主義 ・ハイデガー『存在と時間』p.19-23 20世紀の哲学書の中で最も影響力、奇妙な造語が詰まった難読書、新しい思考スタイルで啓蒙、予告していた続編を放棄して未完であることが逆に効果的に不気味な魅力を与えている 一人ひとりの人間→「現存在(Dasein ダーザイン)」 現存在の存在の仕方は「気づかい」によって特徴づけられる 自分の存在、自分のよきあり方を気づかう本性をもった存在者 果ては「おのれの死」を見すえざるをえない 「死への先駆」→死を運命として自覚的に受け入れること→「良心の呼び声」 現存在の時間に関する「脱自的」構造が「将来→過去→現在」という循環になっている 「将来」は死を起点にした「過去」 「過去」とはあり得たかもしれない「現在」「将来」への回帰を促す要素 ・ハンナ・アレント『革命について』p.24-27 20世紀を代表する政治思想家 仏革命と米独立革命を比較し、後者だけが成功した革命と見なした書物 自由とは、公共的空間に現れ、かけがえのない個人として尊重される中で討論し、政治的に活動できる、という意味 米革命が確立した憲法体制(コンスティテューション)がどうやって正統性を獲得したか ↓ 欧の伝統では政治の外部の絶対者(神、自然法、教会など)に頼るが、それから自分を切り離した米は絶対者に依拠できない ↓ 共和政の古代ギリシャ・ローマに倣う 偉大なことを成し遂げた「創設」の行為に、自分たち自身が感動し、それに深い敬意を抱き続けること、これが権威となる 建国の父の代理人であるローマの場合元老院、米では創設された憲法を解釈する最高裁に置き換える 日本の戦後体制が今日に至るも迷走しているのは、自分たちで創設したという確信がないからではないか 創設行為が生み出すはずの権威が日本の戦後体制には宿らなかった アレントの思い描く公共的空間⇔日本の政治の根底には「空気の支配」 固有性をもつものとしての「複数性」⇔個人が突出することを嫌う一枚岩である「空気」 ・井筒俊彦『意識と本質』p.28-31 人間の意識がどのように事物の「本質」を捉えるのか イスラームやユダヤ教までも含む多様な東洋哲学を分類し、それぞれの位置関係を明らかにした書物 碩学中の碩学 井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし 東洋哲学の主な三つの考え方 第一に、瞑想の果ての直感や悟りなど深層の意識の働きを通じて本質を見究めることができるとするものex.朱子学 第二に、マンダラのようなイメージやシンボルを通じて本質を捉えられるとするものex.密教 第三に、事物に正しい言葉=名前を与えれば、普通の表層の意識で本質を認識できるとするものex.儒教の名実論 例外は以下二つ 禅→無心(意識の究極的原点、つまり意識のゼロ度)に至り、事物の本質など存在しない、本質と見えたものは、言葉による世界の区分け(分節)が生み出す錯覚 ⇔逆の極限 カッパーラ→本質がまさに言葉とともに無から創造される、本質と対応していると見なす しかし、 「言葉」は、通常の言葉ではなく、神の言葉 言葉で表したことは本質ではなく、その意味では常に嘘になってしまうという禅の感覚と、人間の言葉では真理に至ることはできず、神の言葉だけが本質と結びついているというカッパーラの認識は、同じではないが、きわめて近いところにいる 一貫して、「普遍」への意思がある 人類が蓄積してきた知を総合して真理に迫ろうとしている 井筒は近代化への過程の中で忘れられ、葬られてきた哲学や思想を全て呼び覚まし、それらに適切な位置を与えつつ、近代をトータルに乗り越えうるような普遍的真理を見出そうとしているのだ ・ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』p.32-35 「時間」とは何か 20世紀はそんな時間をめぐる文学作品や哲学書がたくさん書かれた(プルースト『失われた時を求めて』、ハイデガー『存在と時間』) 1908年に書かれたこの論文もそうした思想の流れの中に位置する 一般に知名度は低いが、哲学者の間の評価は非常に高い 時間の哲学の古典中の古典 やっと永井均が2017年に邦訳 この論文の中では三つのことを言う 第一に、出来事を時間の中に位置づける仕方、つまり時間を表現する仕方には、二つの種類がある、「より前、より後」と「過去、現在、未来」、本書では後者がA系列、前者がB系列とされる 第二に、時間にとって大事なのはA系列 第三に、時間にとってA系列が不可欠ならば、時間は実在しない(!??) つまり、 時間とはわけのわからないものだ、謎なのだ、ということを論証したex.「黒い白馬」は実在しない c.f.イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』……主張は違うが しかし、時間が実在しないということはどういうことなのか、誰にもわからない 普通、知性は理解力だと思われているが、そうではない 知性が与えてくれるのは、世界の不可解さを直視する勇気である この本は知性を鍛えてくれる ・マルセル・モース『贈与論』p.36-39 贈与は、与える義務、受け取る義務、お返しする義務の複合から成り立っている モースがもっとも頭を悩ましたのは、これらの義務がどこから来るのか、つまり何が人を贈与へと駆り立てるのか、という問い なぜ人は贈与を義務と感じるのか、どうして人は贈与をせずにはいられないのか、あまりに不可解なので、モースは、マオリ族(ポリネシア)の説明をそのまま回答にしている 「贈与された物には、精霊(ハウ)が宿っていて、それを受け取った者に返礼やさらなる贈与を強いるのだ」 人間とは何が、その問いへの答えの鍵が「贈与」には秘められているかもしれない ・ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』p.40-43 1762年に出版された、フランス革命の指導者たちにも影響を与えた、近代政治思想の基礎となる書物、、の割には読まれていない 冒頭 「人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鉄鎖につながれている」 「鉄鎖」とは、政治権力による拘束 どのようにしたら自由と権力を両立させることがでにるのか、どのような権力であれば、自由を抑圧したことにならないのか、という問いが提起 法が、人民自身が制定したものであれば、つまり人民の「一般意志」の表現であれば、人民は結局自分で自分を規制しているのだから、人民の自由が侵されたことにならない 多数決によって決められる法は、一般意志と合致 どのような条件がそろっていれば、多数決で一般意志が見出されるのか 第一に、一般意志には客観的な「正解」がなければならない 第二に、投票するそれぞれの個人は、自分にとって得か損かではなく、国にとって何がよいのかという観点で投票しなくてはならない 第三に、人々が懸命で、正解率は五割を超えていなくてはならない c.f.→コンドルセ「陪審定理」 ・ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』p.44-47 国民・民族(ネーション)は想像された共同体である 国民は、想像の中に「のみ」実在している たとえば「日本人」なる意識が民衆レベルで浸透したのも、明治時代の中頃 国民の概念は近代の産物 江戸時代の列島の住民にとって、「日本人であること」は、それほど大事なアイデンティティの要素ではない 国民は、自分自身の起源を、実際よりも古くに求めたがる→国民をめぐるパラドクス:「客観的には新しいのに、主観的には古い」というねじれ 彼が見出したいくつもの原因の中で最も有名になったのは「出版資本主義」である 「俗語」(日本語、仏語のような言文一致の文章)の出版物が、資本主義的な野心をもった企業家によって浸透したことが重要 ・ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』p.48-51 19世紀後半、南北戦争が終わって間もないアメリカで、「プラグマティズム」という言葉を発明し、新思想を展開し始めたのはチャールズ・サンダース・パース→万能の天才 これを世に広め、わかりやすく変更したのが著者 c.f.同著者『心理学』、『宗教的経験の諸相』 従来、真理とは「信念と事実との一致」だとされてきたが、本書では真理であるとは、その信念が行為にとって有用であるということだ、と主張 当時の大御所哲学者バートランド・ラッセルにアメリカ風の拝金主義だと罵倒されたが、これは決して信仰を冒涜するものではなく、逆に「信ずる力」を取り戻す思想である 自分が信じていることを、勇気を持って肯定しよう、その信念を運用した結果、有効な結果がもたらされたとしたら、その信念は「真理であった」ということになる ⇔デカルト「私が考えている」ということ以外、何ひとつ確実なものはない 「有用」とか「善」とかは、その人の価値観と切り離せない 有用性によって真理を定義すると、「事実と価値の区別」も捨てられる ・西田幾多郎『善の研究』p.52-55 明治44(1911)年出版の日本人初の哲学書 戦前の若き知的エリートの必読書、必携書 「純粋経験」→主観と客観が分化する以前の意識の統一状態 「純粋経験こそが真実(ほんものの実在)であるとして、ここから、すべてを考え直す試み、道徳や宗教までも含むすべてを考え直す試み、これが『善の研究』である」 「絶対矛盾的自己同一」 「行為的直感」→私が行為において物を限定するということは、物が私を限定するということ かんたんにわかってしまったこと、軽く「わかった」と思ってしまったことはたいてい、ほんとうにはわかっていない 「わからん!」をいったんきざみこまなくては、真の主体的な理解には達しない
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