逆説の古典

4件の記録
- しまりす@alice_soror2025年3月18日読んでる・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』p.58-61 著者、仏革命の6年後の1805年に生まれた仏名門貴族 本書は七月王制初期、アメリカで9ヶ月の視察旅行に派遣された時の2巻構成の体験記 旅行記ではなくデモクラシー論 アメリカはデモクラシーの最も発達した国であり、デモクラシーこそ人類の共通の未来である以上は、アメリカはフランスの未来である 平等であることへのアメリカ社会の強い執着に強い印象を持つ ここで言う「平等な社会」とは無条件の不平等性がいかなる意味でも絶対に正当化されない社会という意味 アメリカ人は、何か事業をやるとなると、すぐに結社が作られる。新事業の先頭に立つのは、フランスではいつでも政府であり、イギリスならば大領主だが、アメリカでは必ず結社が姿を現す。アメリカでは結社が自由を促進し、デモクラシーを補完している トクヴィルは、アメリカ人自身も自覚できてないこと、気付いていないことを見ぬいている。 しかし、フランス人が賛嘆したほど平等志向が強いアメリカに、奴隷制や人種差別があったのはなぜか ピューリタン的な宗教的観念が政治的・社会的な場に深く浸透しているアメリカが、同時に、極端に世俗的で快楽主義的な資本神話を先導しているのはなぜか ・ミシェル・フーコー『言葉と物』p.62-65 中世(16世紀まで)から近世(17〜18世紀)を経て、近代(19世紀〜)に至る西洋の学問史 時代ごとに基本的な「認識枠組(エピステーメー)がある。同時代の学問は同じ認識枠組を前提にしているので、分野ごとに異なる内容を扱っていても、互いに同じ構造をもっている。その認識枠組は徐々に変化するのではなく、突然不連続に変化 中世の認識枠組の中心にあるのは「類似」 中世→近世:セルバンテス『ドン・キホーテ』 近世の認識枠組を特徴づけているのは、事物を鏡のように映す(記号との)対応、つまり「表象」 近世→近代:マルキ・ド・サド『ジュリエット物語』 近代の認識枠組の中心に置かれたのは、主体であると同時に客体でもあるような人間、「(神とは違う)人間」 「類似→表象→人間」と転換してきた、というのが本書の主な主張 最後の人間も「波打ちぎわの砂の少女のように消滅するであろう」という一言で閉じられる 21世紀の現在の知の状況を見ると、フーコーのこの予言は当たった そうしてできた空席を埋めるものは、まだ出てきてはいない ・E・H・カントーロヴィチ『王の二つの身体』p.66-69 1642年のイングランド清教徒革命のスローガン「王(King)を護るために王(king)と闘う」 西洋の近世の王権は、「王は二つの身体を有する」という独特な観念によって、その支配を正統化していた。二つの身体とは、自然的身体と政治的身体である 自然的身体(king)は通常の肉体のことで、衰えるし、過ちも犯す 政治的身体(King)は不可視・不可触の抽象的身体で愚行もなければ、失敗も犯さない、政体の持続性や威厳を代表 ex.シェークスピア『リチャード二世』 王の身体の二重性は、神でありかつ人でもあったキリストの世俗の政治への応用 王権がカトリック教会に強く依存していた中世の段階では、この政治論は完成せず、王権が教会への依存度を下げ、かなり世俗化したときに、ほとんど神学のようなこの政治哲学が完成する キリスト教はしばしば、当事者がその影響から脱したと思ったときにこそ、むしろ真の影響力を発揮する 最も世俗的と思われている概念や制度が、キリスト教に起因することがある→「法人」 本書の読みどころは、時間概念の刷新について論じた箇所 自然的身体と違って、政治的身体は永続する キリスト教概念の中で永続は唯一神だけ持つ要素であり冒涜的 「時間に内在する永続性」を持たせたのは「天使」の存在のアナロジー 一般に、民主的な市民社会は絶対王政を倒して生まれたとされるが、実際王権を乗り越える契機自体が、西洋の王権の中から生まれた 日本の皇室はよくイギリス王室と比べられるが、背景にある観念で「二つの身体」をもっていないという点では著しく違う ・マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』p.70-73 社会学史上最も偉大と言える学者の書いた、社会学史上最も大きな影響力を持った書物 中国やイスラーム圏に比べて西欧は経済的に遅れた地域だった。その西欧で、近代的な資本主義が生まれたのはなぜなのか? 資本主義は「強欲」という性質と結びつけられるので、凡庸な学者は、宗教的な束縛から人間の欲望が解放されたことが、資本主義が出現し、普及した原因と考える 一方ヴェーバーは、日常生活全体に禁欲を浸透させた思想が逆説的に資本主義の精神に繋がった プロテスタントの登場とともに「ベルーフ」というドイツ語が「職業」を意味する語として使われるようになるが、本来の意味は「呼びかけ」 職業が、神から呼びかけられた使命であり、道徳的義務だという含意がある 特にカルヴァン派の予定説 誰が救済され、誰が呪われるかは、全知の神によって最初から決められており、人間のいかなる行為もその予定を変えられない、さらにどの決定を下されたかも知ることはできない 予定説が人間の行動にかつてないほどの大きな変化をもたらした ・クルト・ゲーデル『不完全性定理』p.74-77 1931年に著者が証明した不完全性定理は、数学史上最も重要な命題 ギリシャで哲学が始まって以来の人類の知の歴史の全体の中で、最も偉大な発見との意見も 知を探究する理性そのものの可能性と限界を見定める定理 第一に、「(自然数論を含む)数学のシステムは不完全である」 第二に、「数学のシステムは、自己の無矛盾性を証明できない」 無矛盾=証明可能であると同時に反証も可能であるような命題を含んでいないということ 普通、数学こそが真理の土台と考えられているが、不完全性定理によると、数学の中に、証明できない真理、真理であることを確証できない真理が含まれている。それゆえ、ゲーデルの定理は「理性の限界」を示しているというのが一般的な解釈 しかしゲーデル本人は、自身の限界さえも自覚しうる人間の精神は、機械には模倣できない偉大さをもつ、と考えていた そのアナロジーとして言えることは、全知であることが神を定義する要件(のひとつ)だとすれば、神は自己否定的なものとしてのみ存在している、ということ c.f.E・ナーゲル、J・R・ニューマン『数学から超数学へ』、前原昭二『数学基本論入門』、G・スペンサー=ブラウン『形式の法則』 ・ジークムント・フロイト『快楽原則の悲願』p.78-81 臨床の経験を通じて「無意識」という心の領域を発見し、それを探究する学問「精神分析」を、たった一人で創造した 無意識とは、単に意識していない(知らない)という意味ではなく、私はそれを知っている。しかし、私は、自分が(それを)知っていることを知らないーー自覚できていない、という状態のこと。 ex.「エディプスコンプレックス」、「イド/自我/超自我」 1920年に刊行された本書で提起されたある概念だけは、あまりに突飛で、容易には理解されなかった 人間は一般に快を求め、不快を避ける しかし、不快極まりないとわかっていることへあえて使う執拗な傾向が、人間にはある これを「死の欲動」と名づける 人間は、自分の人生、社会などを、物語や歴史の形式で意味づけるが、その枠に収められない出来事がある。戦場で味わったリアルな衝撃など。なぜあれほど恐ろしい経験をしなければならなかったのか、納得いく説明は不可能 意味づけ不可能な出来事は、人生や社会を物語化・歴史化したことの代償として、それらに必ず伴っている ・ジャン=ポール・サルトル『存在と無』p.82-85 20世紀中頃、サルトルは世界の思想界の皇帝であった 思想や政治に関心を持つ若者たちは、彼の文学作品と哲学を夢中になって読み、政治的行動に注目していた サルトルに匹敵する巨人はいない これほど皆がサルトルに熱狂した理由は、「神の不在」ということを率直に全面的に引き受けた最初の(西洋の)思想家だったからではないか ただの存在→「即自存在」 意識を持った存在→「対自存在」=「それがあるところのものではなく、それがないところのものであるような存在」 私(対自存在)は定まった意味や同一性をなく存在しており、自由な選択を通じて、未だあらぬ何者かになるほかない c.f.「実存は本質に先立つ」という『実存主義とは何か』の有名な命題も同義 私は誠実であればあるほど、私は自分を裏切り、自分を欺いている 誠実=自己欺瞞 「アンガジュマン(政治参加)」 私たちは皆状況に巻き込まれているわけだが、このとき「状況を受け入れた」ということも含めて、私たちの自由な選択の結果であるとみなされなくてはならない。そうであるとすれば、私たちは状況に責任があり、それに積極的に関与することができるし、すべきだ
- しまりす@alice_soror2025年3月11日読んでる・カール・マルクス『資本論』p.14-18 三部作のうち一部のみ存命中出版 第一部 資本の生産過程 第二部 資本の流通過程 第三部 資本主義的生産の総過程 経済学の本ではなく、「経済学批判」の本 資本主義の中で生じるあらゆる経済活動(商品売買、利潤追求、資本投下)は「神学的な現象に近い、進学的な論理で動いている」 資本主義とは一種の宗教、無意識の宗教 人は宗教から無縁だと思っているまさにそのとき、最も宗教的→それが資本主義 ・ハイデガー『存在と時間』p.19-23 20世紀の哲学書の中で最も影響力、奇妙な造語が詰まった難読書、新しい思考スタイルで啓蒙、予告していた続編を放棄して未完であることが逆に効果的に不気味な魅力を与えている 一人ひとりの人間→「現存在(Dasein ダーザイン)」 現存在の存在の仕方は「気づかい」によって特徴づけられる 自分の存在、自分のよきあり方を気づかう本性をもった存在者 果ては「おのれの死」を見すえざるをえない 「死への先駆」→死を運命として自覚的に受け入れること→「良心の呼び声」 現存在の時間に関する「脱自的」構造が「将来→過去→現在」という循環になっている 「将来」は死を起点にした「過去」 「過去」とはあり得たかもしれない「現在」「将来」への回帰を促す要素 ・ハンナ・アレント『革命について』p.24-27 20世紀を代表する政治思想家 仏革命と米独立革命を比較し、後者だけが成功した革命と見なした書物 自由とは、公共的空間に現れ、かけがえのない個人として尊重される中で討論し、政治的に活動できる、という意味 米革命が確立した憲法体制(コンスティテューション)がどうやって正統性を獲得したか ↓ 欧の伝統では政治の外部の絶対者(神、自然法、教会など)に頼るが、それから自分を切り離した米は絶対者に依拠できない ↓ 共和政の古代ギリシャ・ローマに倣う 偉大なことを成し遂げた「創設」の行為に、自分たち自身が感動し、それに深い敬意を抱き続けること、これが権威となる 建国の父の代理人であるローマの場合元老院、米では創設された憲法を解釈する最高裁に置き換える 日本の戦後体制が今日に至るも迷走しているのは、自分たちで創設したという確信がないからではないか 創設行為が生み出すはずの権威が日本の戦後体制には宿らなかった アレントの思い描く公共的空間⇔日本の政治の根底には「空気の支配」 固有性をもつものとしての「複数性」⇔個人が突出することを嫌う一枚岩である「空気」 ・井筒俊彦『意識と本質』p.28-31 人間の意識がどのように事物の「本質」を捉えるのか イスラームやユダヤ教までも含む多様な東洋哲学を分類し、それぞれの位置関係を明らかにした書物 碩学中の碩学 井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし 東洋哲学の主な三つの考え方 第一に、瞑想の果ての直感や悟りなど深層の意識の働きを通じて本質を見究めることができるとするものex.朱子学 第二に、マンダラのようなイメージやシンボルを通じて本質を捉えられるとするものex.密教 第三に、事物に正しい言葉=名前を与えれば、普通の表層の意識で本質を認識できるとするものex.儒教の名実論 例外は以下二つ 禅→無心(意識の究極的原点、つまり意識のゼロ度)に至り、事物の本質など存在しない、本質と見えたものは、言葉による世界の区分け(分節)が生み出す錯覚 ⇔逆の極限 カッパーラ→本質がまさに言葉とともに無から創造される、本質と対応していると見なす しかし、 「言葉」は、通常の言葉ではなく、神の言葉 言葉で表したことは本質ではなく、その意味では常に嘘になってしまうという禅の感覚と、人間の言葉では真理に至ることはできず、神の言葉だけが本質と結びついているというカッパーラの認識は、同じではないが、きわめて近いところにいる 一貫して、「普遍」への意思がある 人類が蓄積してきた知を総合して真理に迫ろうとしている 井筒は近代化への過程の中で忘れられ、葬られてきた哲学や思想を全て呼び覚まし、それらに適切な位置を与えつつ、近代をトータルに乗り越えうるような普遍的真理を見出そうとしているのだ ・ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』p.32-35 「時間」とは何か 20世紀はそんな時間をめぐる文学作品や哲学書がたくさん書かれた(プルースト『失われた時を求めて』、ハイデガー『存在と時間』) 1908年に書かれたこの論文もそうした思想の流れの中に位置する 一般に知名度は低いが、哲学者の間の評価は非常に高い 時間の哲学の古典中の古典 やっと永井均が2017年に邦訳 この論文の中では三つのことを言う 第一に、出来事を時間の中に位置づける仕方、つまり時間を表現する仕方には、二つの種類がある、「より前、より後」と「過去、現在、未来」、本書では後者がA系列、前者がB系列とされる 第二に、時間にとって大事なのはA系列 第三に、時間にとってA系列が不可欠ならば、時間は実在しない(!??) つまり、 時間とはわけのわからないものだ、謎なのだ、ということを論証したex.「黒い白馬」は実在しない c.f.イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』……主張は違うが しかし、時間が実在しないということはどういうことなのか、誰にもわからない 普通、知性は理解力だと思われているが、そうではない 知性が与えてくれるのは、世界の不可解さを直視する勇気である この本は知性を鍛えてくれる ・マルセル・モース『贈与論』p.36-39 贈与は、与える義務、受け取る義務、お返しする義務の複合から成り立っている モースがもっとも頭を悩ましたのは、これらの義務がどこから来るのか、つまり何が人を贈与へと駆り立てるのか、という問い なぜ人は贈与を義務と感じるのか、どうして人は贈与をせずにはいられないのか、あまりに不可解なので、モースは、マオリ族(ポリネシア)の説明をそのまま回答にしている 「贈与された物には、精霊(ハウ)が宿っていて、それを受け取った者に返礼やさらなる贈与を強いるのだ」 人間とは何が、その問いへの答えの鍵が「贈与」には秘められているかもしれない ・ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』p.40-43 1762年に出版された、フランス革命の指導者たちにも影響を与えた、近代政治思想の基礎となる書物、、の割には読まれていない 冒頭 「人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鉄鎖につながれている」 「鉄鎖」とは、政治権力による拘束 どのようにしたら自由と権力を両立させることがでにるのか、どのような権力であれば、自由を抑圧したことにならないのか、という問いが提起 法が、人民自身が制定したものであれば、つまり人民の「一般意志」の表現であれば、人民は結局自分で自分を規制しているのだから、人民の自由が侵されたことにならない 多数決によって決められる法は、一般意志と合致 どのような条件がそろっていれば、多数決で一般意志が見出されるのか 第一に、一般意志には客観的な「正解」がなければならない 第二に、投票するそれぞれの個人は、自分にとって得か損かではなく、国にとって何がよいのかという観点で投票しなくてはならない 第三に、人々が懸命で、正解率は五割を超えていなくてはならない c.f.→コンドルセ「陪審定理」 ・ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』p.44-47 国民・民族(ネーション)は想像された共同体である 国民は、想像の中に「のみ」実在している たとえば「日本人」なる意識が民衆レベルで浸透したのも、明治時代の中頃 国民の概念は近代の産物 江戸時代の列島の住民にとって、「日本人であること」は、それほど大事なアイデンティティの要素ではない 国民は、自分自身の起源を、実際よりも古くに求めたがる→国民をめぐるパラドクス:「客観的には新しいのに、主観的には古い」というねじれ 彼が見出したいくつもの原因の中で最も有名になったのは「出版資本主義」である 「俗語」(日本語、仏語のような言文一致の文章)の出版物が、資本主義的な野心をもった企業家によって浸透したことが重要 ・ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』p.48-51 19世紀後半、南北戦争が終わって間もないアメリカで、「プラグマティズム」という言葉を発明し、新思想を展開し始めたのはチャールズ・サンダース・パース→万能の天才 これを世に広め、わかりやすく変更したのが著者 c.f.同著者『心理学』、『宗教的経験の諸相』 従来、真理とは「信念と事実との一致」だとされてきたが、本書では真理であるとは、その信念が行為にとって有用であるということだ、と主張 当時の大御所哲学者バートランド・ラッセルにアメリカ風の拝金主義だと罵倒されたが、これは決して信仰を冒涜するものではなく、逆に「信ずる力」を取り戻す思想である 自分が信じていることを、勇気を持って肯定しよう、その信念を運用した結果、有効な結果がもたらされたとしたら、その信念は「真理であった」ということになる ⇔デカルト「私が考えている」ということ以外、何ひとつ確実なものはない 「有用」とか「善」とかは、その人の価値観と切り離せない 有用性によって真理を定義すると、「事実と価値の区別」も捨てられる ・西田幾多郎『善の研究』p.52-55 明治44(1911)年出版の日本人初の哲学書 戦前の若き知的エリートの必読書、必携書 「純粋経験」→主観と客観が分化する以前の意識の統一状態 「純粋経験こそが真実(ほんものの実在)であるとして、ここから、すべてを考え直す試み、道徳や宗教までも含むすべてを考え直す試み、これが『善の研究』である」 「絶対矛盾的自己同一」 「行為的直感」→私が行為において物を限定するということは、物が私を限定するということ かんたんにわかってしまったこと、軽く「わかった」と思ってしまったことはたいてい、ほんとうにはわかっていない 「わからん!」をいったんきざみこまなくては、真の主体的な理解には達しない