はに "むらさきのスカートの女" 2026年2月1日

はに
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@828282chan
2026年2月1日
むらさきのスカートの女
「偏執的な人間が登場する物語が読みたい」と思い手に取ったが、残念ながら私の好みには合わなかった。 この物語の語り手である《わたし》は、名前も知らない《むらさきのスカートの女》に異様に固執している。日々の行動を事細かに監視し、《むらさきのスカートの女》の職が不安定と知れば、自分と同じ職場で働くように陰で画策する。自宅アパートの部屋番号まで把握している。そこまでする動機が「友達になりたい」というのだから、怖い。 行動だけ見れば《わたし》は間違いなく「偏執的な人間」だ。しかし、私の心が掴まれる要素はなかった。理由は、偏執に美学が感じられなかったからだ。 《わたし》は《むらさきのスカートの女》が近所の誰もが知っている存在だと思っている。それに対し《わたし》は誰からも存在を知られていない。黄色いカーディガンを着ていても《黄色いカーディガンの女》として人々に認知されたりはしない。そこに浮かび上がるのは、誰からも気に留められることのない、希薄な存在としての《わたし》の不安気な姿である。 《わたし》は、ストーキング行為に留まらず、職場の備品の窃盗や、家賃の踏み倒し、食い逃げなどの犯罪行為を、大して悪びれもせず重ねていく。まるで、自分が社会のなかで透明な存在であることを内面化してしまっているかのように、社会から向けられる目を少しも意識していない。 《わたし》が《むらさきのスカートの女》に執着するのは「友達になりたいから」だというが、彼女そのものに魅力を感じているわけではなく、彼女のように他者から認知されたり、認められたりしたいという世俗的な願望の投影なのではないか、と感じた。それ故に《わたし》の印象はどこまでも空虚で、本人なりの美学が感じられないことに、がっかりしてしまった。 本作を読んで、私は、偏執という行為そのものにではなく、己の美学に執着する精神性にこそ惹かれているのだと改めて気づかされた。
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