
( ᵕ ᵕ̩̩ )
@carlymatsushita
2026年2月2日
ノット・ライク・ディス
藤高和輝
読んでる
@ 自宅
6-3
【引用】
このように、蔦森は「〈男〉から限りなく遠ざかりたい」、「かといって、〈女〉になりたいわけでもない」のだが、その自分の「好きなスタイル」は他者から「〈女〉が表す何かに近いもの」として認知されてしまう。そしてここでさらに重要なのは、このようなことが単に「他者から見られる」という経験においてだけではなく、他ならぬ自己自身の感覚や認知においても生きられているということである。「身体に、自分の好きなイメージだけを組みつけたい。でも好きなイメージは、〈女の〉とされるもの、〈男の手がかりのない〉状態の数々にある。このバイアス以外のシナリオを知らない」(高森二〇〇一:一三四-一三五)。
それはバイアスである、しかし、そのバイアス以外のシナリオを私は知らない。それが社会的に構築されたものだとしても、私たちはそれからまったく自由に生きることはできない。だからこそ、「外見など取るに足らないこと、どうでもよいことだと、断定的に言う人たちを私は疑う」と蔦森は言う、「似合う似合わないという一見純粋な個人的感覚も、自分らしさという独立した思いも、実のところは生きていく過程で身に滲みこませてしまった、男と女は別のものであることを前提とする範囲内での選択にすぎない。〔…〕/そして、育ってしまった文化や人間の歴史の積み重ねに、私もまた巻きこまれている。この前提は私の中に巣喰っているものでもあるのだ」(蔦森二〇〇一:一二〇-一二一)。したがって、蔦森は次のように問いかけている。「どんなことであっても人は、そのイメージなくして形を保つことかができないのではないだろうか」(蔦森二〇〇一:一二二。強調引用者)。(pp.209-210)
