綾鷹 "踊り場に立ち尽くす君と日比谷..." 2026年2月4日

綾鷹
@ayataka
2026年2月4日
踊り場に立ち尽くす君と日比谷で陽に焼かれる君
憤怒、怠惰、情欲、憎悪、自己嫌悪、孤独... 隠したくなるような感情が本の中に溢れている。 こんなに感情でいっぱいのエッセイは初めてだ。 金原ひとみさんの文章の中に諦めと希望が入り混じっていて、過激な言葉で心が落ち着き、自己嫌悪の気持ちが薄らいでいく不思議さ。 YABUNONAKAは金原ひとみさんの実体験から着想を得ているのかな。 これ程の苦しみを創作に転化できるなんて尊敬する。 ・それは十四歳くらいの頃に、「自分はこういう人間だ」と認識した自分からあまり変わっていない。世間的、社会的なものに適応できず、あらゆるものが許せなくて、しかし己自身は空虚かつ軽海で、夜型で、小説を読むことと書くことでのみ息ができて、欲望や衝動に振り回される愚かな人間だ。 ・もう何年も直視していないはずのシルコの目は、今にも飛び出したり、ふわりと異様な色彩を放ったりしそうだった。そして、母と一緒の時、驚くほど残酷になれていた自分を思い出した。まだ年端もいかぬ子供のように残酷に人を傷つけ、むしろ相手を傷つける事に興奮するような嫌らしさまであり、子供と違っているのは、その時の事をあまり良い気分で思い出していないという所だけだった。私は、シルコに残酷になり、意地悪をして、悪意を割き出しにしていた自分を思い出して身震いするような正体の分からない恐怖を感じ、吐き気すら催したのだ。しかし母を目の前にして意地悪をしないなんて、その時の私には出来なかった、という諦めの気持ちもあるので罪悪感には読まれないものの、やはり良い気分ではなかった。母にだけあれほど残酷になれるのは、私が母の子供だからなのだろうか。そんなはずはない。私はもうとうの昔にシルコの子供である事を止め、完全な人間となったのだ。あれは私とはもう関係のないシルコなのだ。 ・こちらを子供扱いしているかのような口調に、不意に体が軽くなった。社会も、周囲の人々も、大人である事を強要する。二十代半ばにもなってそういう当然の事がとてつもなく辛くて、本当は全ての責任から逃げ出したくて、でも逃げられないという事は自分自身も大人としての責任を認めているのだろう。誰かにスポイルされたい。 甘やかして甘やかして、駄目にして欲しい。私から、自立心という泥水を抽出して、どろどろの砂糖水で私の自由を奪って欲しい。ねっとりとした砂糖水で髪の毛の先までべとべとになっている自分を想像すると、鳥肌が立ち、うっとりとする。もう長らく、私の欲望は満たされていない。満たされない状況に甘んじていくのが大人だというなら、大人になんてなりたくない。十代の頃は脳から直で口に出来たその悩みが今はもうとても口に出来ない。 ・お迎え。コンビニに寄ると、「お菓子一つ。ジュース一つ」娘は自分からそう言って、お菓子とジュースを一つずつ選んだ。充実感と共に虚しさが募る。二人目が生まれたら、私とこの子の関係性は変わるだろう。私たちは三年半、二人で過ごした膨大な時間の中で培ってきた関係性を、お腹の子の誕生によって失うだろう。偉いね、ちゃんと一つずつにできたねと、娘と手を繋いで歩きながら、私は残り僅かとなった二人の時間をどうやって過ごすべきか考えていた。 ・生きることは、謎という海に身を投げ出すことだ。赤ん坊は訳のわからない世界に泣きわめき、言葉を操るようになると何故どうしてとたくさんの質問を親に投げかける。思春期になれば何故どうしてでは答えの出ない疑問に苦しみ、社会人となりいわゆる大人になっても、人にものを教える立場についたり、子供を持ったりしても、人は漠とした不安と疑問を抱え続ける。読書というのは、そんな果てしない謎の中に生きる自分自身と向き合う行為ではないだろうか。謎を解くため、答えを探すため、そして何よりも謎の中に生きる自分の輪郭をしかと見極めるため、人は本を読むのではないだろうか。 ・黙って本の文字を目で追う人が何故あんなにも美しいのか、それは彼らが何よりもその間、この世のあらゆるものから自立し、一人で謎と対峙しているからだろう。 作家別に模様を変えた、革装の本の群れを見ながら、人の本棚を見る時に湧き上がる緊張感と罪悪感と共に、シャネルはそこに何を黙視していたのだろうと思いを馳せずにはいられなかった。 ・原発事故の時にも同じような分断が生じたし、パリ同時多発テロの時にも外出を控える派と気にしない派でくっきりと違いが表れた。人はあらゆる非常事態に於いて、その生き様を露わにする。私たちは今、人を、自分自身を見極める機会を与えられているとも言える。何を大切と思うのか、何を掬い上げ、何を切り捨てるのか、あるいはなぜ自分は何も掬い上げられないのか、なぜ何も切り捨てられないのかを。 ・それは泥臭いことを馬鹿にして軽蔑して忌み嫌ってきた私が、怯えながら地べたを這いつくばり泥を噛み潰し無理やり飲み込み続けるような時間だったと言っても過言ではない。そうして身を削るような育児を経て、長女が自分とは全く違うメンタリティを持った人間に成長し、私とは全く違う思春期を送り、私とは全く違うものを大切に思い、時々好きな曲を勧めてくれるという事実が、最近染みる。 この人に出会わなければこの小説は生まれなかった。私の小説には、必ずそう思う人が一人はいる。そして私の著作の何冊かは、長女がいなければ生まれなかったものに違いなかった。否定も肯定もなく、すぐそこに自分とかけ離れた他者が存在するという事実に、私はどれだけ苦しみ、どれだけ救われてきたか分からない。 ・断捨離、結構捨てたのと聞くと、今回は思い切ったと言う。フランスで知り合って以来定期的に飲んでいるAは、来年初めにカナダに行く。悲しいなとため息混じりにこぼすと、夏とかに一ヶ月くらい遊びにおいでよと無茶を言う。私より先にフランスから本婦国をした時も、彼女は全然悲しくなさそうだった。二軒目でオレンジワインとクラフトビール。私再来月仕事辞めるからそしたらめっちゃ飲もうよとやはり彼女は楽しそうだ。悲しみは、行く先がないと元々そんなものなかったような気がするところがいい。 ・四十を過ぎた今も、自分は幼い頃からあまり変わっていない。小説を読む。小説を書く。今もこの二つによって世界を把握しようとしているし、社会を考えているし、理解できない他者について考えているし、そうしながら同時に自分自身のことも合わせ鏡のように考えている。この世に小説がなかったら、私は無思考でただ生きづらさに悶えながら生き続けていたか、生きづらさと和解して死んでいたかのどちらかだっただろう。 もちろん、音楽に救われたこともある。映画にも。毎日飲み続けた抗らつ剤安定剤眠剤でも一向に救えなかった精神を一枚のEPで救ってくれたバンドもあるし、BGMのように一本の映画を流し続けることでやり過ごせた、破滅と隣り合わせの期間もあった。でも、自分には小説が一番チューニングが合っている、という感じがする。 この世界を生きるために何か一つ武器を選びなさいと言われたら、自分には小説しかないだろうな、という感じ。 ・「あれはなんだったんだろうって思う。生活の心配もないし、仕事も恋愛もしてなかったのに、子供時代が人生の中で一番苦しかった」 二人で飲みに行った時、幼い頃のことをこんな風に語ると、「子供が合わない子供っているんだよ」と父親は答えた。確かに、当時の自分は、合わない型に押し込められるような窮屈さと痛み、押し込めようとする社会や世間への怒りと憎しみ、これらを共有できる相手のいない悲しみと孤立感を幼い体にパンパンに詰め込んでいた。 ・何か賞を受賞しても、新人賞の選考委員なんかをやっても、子供の課題や遅い帰りを心配しても、友達と居酒屋で騒いでいても、ちょっといいレストランで「カルダモンの香りがする」とか言っていても、ライブで叫びながら飛び跳ねていても、普通に生きているような顔でテレビや雑誌のインタビューを受けていても、あの時の非常階段で泣きながら消えたすぎて戦慄いていた自分と地続きのところに私はいるんだという意識が、どこかにある。多分、内容物は何も変わっていない。潰れたり丸まったり伸びたり曲がったりして形が変わることはあっても、中身の配合は絶望三割伝えたい二割壊したい一割愛したい愛されたい二割ずつ。多分そんな感じで構成されている。 ・「自分が予想していた未来と、今の自分を比べて、どうですか?」数年前何かの取材で、割と唐突にそう聞かれた。私は質問の意図が分からず黙り込んで、その意図がなんとなく分かった瞬間ショックを受けて目眩がして、「私には、自分の未来を予想したり、人生を構築してきたという意識がありません」と正直に答えた。これは、人生を自分でコントロールしてきたという自を持つ者、あるいはコントロールするべきだと思っている者だけが考えつく質問だ。この世にこんな質問があると知り、その、一人一人にとっての人生、世界に対する認識のズレの大きさに目眩がしたのだろう。それからしばらく、この質問がことあるごとに脳裏に蘇っては、私はやっぱり倒れそうになった。 ・例えば、我が子が恋人と長く付き合っていく中で、私からは一切注意されなかった「食べ物を残さない」だったり「脱いだ服を畳む」だったりを身につけていく様子は、(自主的にその習慣を取り入れたのであれば)いい影響だと感じるし、微笑ましくもある。でもその恋人が男尊女卑的な思考の持ち主であれば、私は我が子がその思想に染まらぬよう、最大限のアドバイスをする必要が生じるだろう。 そういう、生まれた家から始まり、学校、友人、恋愛、仕事、SNS、あらゆる人間関係の中で無尽蔵に与えられる影響の数々から身を守ったり、身を委ねたり、戦ったりする中で、今の自分が形作られ、さらに変化し続けているのだと思うと、あまりの途方のなさに愕然とする。ありとあらゆる取捨選択を一つも間違えないことはほぼ不可能だし、もっと言えば取捨選択の余地もなく「そうせざるを得ない」ケースも山ほどあるからだ。今の自分は、否応なしに突きつけられて何度も間違えたり失敗したりした取捨選択と、「そうせざるを得なかった」の成れの果てでしかない。だから私は、理想というものを持ったことがない。常に迫られる取捨選択と、「そうせざるを得ない」が目の下まで浸水して、溺れないようにすることで精一杯だった。 ・信じたい。私は常にそう思っている。ドキュメンタリーにもノンフィクションにもフィクションにも人に対しても、常に信じたいと願っている。常に心を開いている。 世に出ている作品だけでなく新人賞の選考作品に対しても、あらゆるドキュメンタリーにもルポにも、それぞれ対面する個人に対しても、余す所なく開いて関わろうとしている。でも全てを受け入れたいと願うその姿勢自体が事実や本質を捻じ曲げることはよくあることで、ミニマムな例で言えば、離婚を考えている夫婦の両方から話を聞くと、どちらにも非があるように、そしてどちらにも理があるように見えるものだ。 どちらかが現実や本質を捻じ曲げているのか、それとも現実や本質は一つではなくたくさんあって、それぞれそれなりに矛盾し合うものなのか、自分には確かめる由もない。最後には自分が何を信じたいかに、何が正しいと信じたいかに委ねられている。 こんな世界で間違わずに生きていくのは、正しく生きていくのは、無理がある。目隠しをされて耳栓をされて全身に拘束具をつけられた状態で、世界の裏側にある真実の日を見つけ出せと言われているかのように、高難易度のミッションと言えるだろう。
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