
( ᵕ ᵕ̩̩ )
@carlymatsushita
2026年2月5日
ノット・ライク・ディス
藤高和輝
読んでる
@ 自宅
7-はじめに
【引用】
(…)清水がここで問題にしているのは、「トランス女性が女性であれば、トランス女性はシス女性と同じ女性(原文傍点)だということになるのだろうか」という問いである。その問いを考える上で、「「トランス女性も女性です」という「単純化」は「まとめきれない様々な人々の声」をかき消してしまうのではないかと危惧する」鈴木の言葉を引きながら、清水は次のように述べている。
彼女が「私は女です」と名乗れない/名乗らないのは、シスジェンダー女性が服装や振る舞いに女性らしさを求められる経験、あるいはジェンダー規範への違和感を覚える経験と、トランスフェミニンな人々のそのような経験とは、同じものではない、と彼女が感じているからではないか。〈女性〉という語が圧倒的にシス女性の経験だけを指し示すものと理解されている現状で、その理解を保持したままそこにトランス女性の経験を「単純」にまとめてしまったら、彼女たちの経験の固有性はかき消されたままになってしまう、と。だとすれば、一見逆説的にみえるかもしれないが、私たちはこう考えるべきではないだろうか──「トランス女性は女性だ」と言うことは、トランス女性とシス女性とは同じ女性ではない(原文傍点)と言うことでもある。(清水二〇ニー:一五〇。強調原文)
ここで私が考察したいのは、同じことが〈トランス〉というカテゴリーにも言えることである。「あのトランスとこのトランスは違う」し、自らのありようを記述する言葉はその「個人的なもの」まで含めばリスト化が不可能なほど多様なものだろう。さらには、たとえその名/アイデンティティが「同じ」ものだったとしても、その個々の使用やニュアンスは異なることがある。つまり、その「名のなかにあるもの」は必ずしも「同じ」ではない。
たとえ、ある人と別の人が「同じ」名/アイデンティティを用いていたとしても、その人がその名に賭けているものとは一体何なのだろうか。「名のなかにあるもの」に想像力を働かせることは、その名/アイデンティティ、そしてそのなかに賭けられているものを「良い/悪い」と判断することではない。そのような「判断=判決(judgement)」は想像力を停止し、他者を攻撃する「道徳的暴力」へと容易にスライドする。「名のなかにあるもの」を想像することはむしろ、そのような力をこそ停止することで他者への倫理的構えを準備するものではないだろうか。(pp.226-227)
7-1
【引用】
(…)トランス排除派がしばしば言及する「生物学的女性」なるもの、その「生物学的」を保証するものは彼/女らにとって(原文傍点)紙(ルビ:ペーパー)──各種の証明書、例えば出生証明書とか戸籍、GID診断書──ということになる。もし、「GIDは良い/トランスは良くない」のなら、そして、トランスを排除して「生物学的女性」を定義するのなら、彼/女たちは身体の物質性について語りながら、実際にはいつも紙の話をしているのである。身体の問題を無視し、矮小化し、馬鹿にしているのは、トランス排除派の人たちの目にはトランス・アクティヴィストやクィア理論家に映るのかもしれないが、実は彼/女たちの方なのである。彼/女らにとって、身体とは紙である(原文傍点)。彼/女らは究極の言説構築主資者である(原文傍点)。(pp.233-234)