さみ "渇愛" 2026年2月7日

さみ
@futatabi
2026年2月7日
渇愛
渇愛
宇都宮直子
二つ、しばらく考えそうなことがあった。 ひとつは神についてのこと。「りりちゃんは、誰かの“神”になってくれる人だった。でも、ヲタ同士が連帯することは危うく、難しかった。」とあって、りりちゃんが不特定多数の誰かにとっての神になろうとしたのか神にさせられてしまったのかわからないけど(他者の求める像を提供しようとするという話が繰り返し出ていたから、求めに応じたのがそのような形になっていったというのはありそう)、現代の人々というか人間の性質なのか、神のような存在を作りたがるのはなんなのだろう。信仰に基づいた行動の、そうでない主体的?な動きと比べたときの心理的な負担の低さがあるのだろうか。星占いもそれに近いのかなあ。りりちゃんが彼女を崇めた人たちにとって神である瞬間があったのは間違いなくて、神であり続けることと背を向けられることの、決定的な違いはどこで生まれるのだろう。逮捕がなければ神のままだったのか、神としてあり続けるには何か条件があったのか。 もうひとつ、終盤でりりちゃんについての製作予定だった映画の監督が、ホストクラブでの賞賛や被害者がりりちゃんに求めた恋愛を、コミュニケーションの努力を省略して得ようとする成果だという話をしていた。その省略は楽をしたい欲求というよりは、自分一人で向かったものでもなく、焦らされて、急いだ(そのつもりがなくても)結果のものだという気がしている。自己顕示欲というよりもっと外に向けた承認欲求みたいなもので、社会に作られたものだというふうに感じる。焦らせてくる社会は、コミュニケーションの努力の過程が踏みにじられる社会でもある。 「社会問題」とはいうけれど、ほんとうに社会が個人の在り方を規定してくるんだよなあと。だから他人のことなのに興味をもってしまうのだと思うし、となると逆に自分は何にまったく興味がなく、それは個人の問題だろうと片付けてしまえるのかも気になってきて、書いているうちにノンフィクション読みたい熱を高められている……!
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