
( ᵕ ᵕ̩̩ )
@carlymatsushita
2026年2月8日
ノット・ライク・ディス
藤高和輝
読んでる
@ 自宅
7-3
【引用】
ここで、ゲイル・サラモンが理論化している「違和連続体」に関する議論を参照したい。サラモンは、個々のトランスが抱える違和のその差異は「質的差異」ではなく、「程度の差異」であると述べている。「違和」は「身体の外形に依拠しているのではなく、自分自身の身体の/についての/における感じに依拠している」のであり、「違和連続体」は「マイルドな不快感からトランスセクシュアルの身体改造への強い衝動まで」の身体の「感じられ方」のその「程度」や「グラデーション」の差異を記述する概念である(Salamon 2010: 164)。言い換えれば、この違和は、はっきりとした「質的差異」、安易な分節化を拒むものであり、「違和連続体」は個々のトランスが生きる違和の内実に肉薄しようとするための概念であるとともに、違和のあいだに優劣や順位のようなものを設定する政治に抗おうとするものでもある。そして、違和が安易な分節化を拒むものであるなら、それだけいっそう個々のトランスが自分に「しっくりくる」と感じる名もまた多種多様であるだろう。
グリフィン・ハンズブリーは「トランス男性連続体(transmasculine spectrum)」を、「woodworker/transman/genderqueer」のグラデーションとして捉えている(…) 。"woodworker"は日本語で言うところの「埋没系」に当たり、それはただの男 (just a man)」と記述される。つまり、「woodworker/埋没系」は自らを「トランス」とは記述しない。彼らは「ただの男」なのであって、日常生活においてトランスであること、かつて「女性」として社会的に割り当てられていたことを公的に表明せず、そして実際に「男」としてパスし、「埋没」して生活している。これに対して、「ジェンダークィア」は「私をラベルで留めるな」という標語にまとめられ、「分類を拒む」人たちと形容され (Hansbury 2005: 256)、「トランス男性連続体」のなかでももっとも「曖昧さを受け入れる(embrace ambiguity)」極として考えられていぶ(Hansbury 2005: 258)。そして最後に、「トランス男性」は「woodworker /埋没系」と比較すればその「トランス(原文傍点)男性」を引き受ける点に、そして「ジェンダークィア」と比べて「トランス男性(原文傍点)」を引き受ける点に違いがある(Hansbury 2005: 255)。(pp.246-247)
【引用】
ジャック・ハルバースタムはTrans*という著書のなかで自己のアイデンティティを説明しており、それは先のハンズブリーの図式では「ジェンダークィア」に近いものであるが、ハルバースタムはそこで、「数週間に一回、同僚や友人、学生から私が好む名前/代名詞は何かと尋ねるメールを受け取る」(Halberstam 2018: 153) エピソードに触れて、次のように応答している。
バートルビーのように、〔…〕私は、トランジションを目的地をもった過程として理解するような仕方でトランジションしないことを好む(prefer not to)。むしろ、〔…〕私は自分自身が永続的にトランジションの過程にあるものとして考えている。私は、カテゴリー的に曖昧なままであるものを明確にしないことを好む。(Halberstam 2018: 154)(pp.248-249)
【引用】
トランスが「私はこの名/アイデンティティを好む」と言うとき、その言語行為の裏面にはつねに「私はその名/アイデンティティで呼ばれることを好まない(原文傍点)(prefer not to)」という言語行為を潜在的に含んでいる。そして、トランスが「私はこの名/アイデンティティを好む」と語るのは、既存の規範的な言語体系──「前提の論理」──のなかでは自己が誤って表象されるからである。したがって、トランスの「好みの論理」には、バートルビーほどではないにせよ、「前提の論理」の破壊、あるいは少なくともそれへの抵抗が潜在している。あなたが私を彼/彼女と呼び、私を女/男扱いせずにすめばいいのですが(原文傍点)......。
このことは言い換えれば、私たちの「好み」のあり方を百パーセント言い当てる言葉やカテゴリーは存在しないことを意味してもいる。ジョルジョ・アガンベンの言葉を借りれば、バートルビー的「好みの論理」は「好ましいものと好まれないもののあいだに不分明地帯を開く」ものであり、それは「何かである(何かを為す)ことができるという潜勢力と、何かでない(何かを為さない)ことができるという潜勢力とのあいだの不分明地帯」であり、その不分明地帯は宛先のない「to」という「前方照応」によって指し示される(アガンベン二〇〇五:四三)。言明されるトランスの好み」、その「to」が宛先をもっていたとしても、その「prefer to」が潜在的に「prefer not to」を含むのなら、その「宛先」はいわば潜勢力に対する現勢力であって、したがって、その名「よりむしろ」(アガンベン二〇〇五:五一。強調原文)が存在することになる。(pp.250-251)
