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@meeea01
2025年3月10日

むらさきのスカートの女
今村夏子
読み終わった
これぞ純文学だな―
この不気味さ、「普通」がじわりじわりと形を崩し、静かに軋むような違和感。
なのに、それが妙に心地よいのだから、不思議でならない。
どう考えても、「わたし」こそが最も異常で、最も狂気に満ちている。
けれど、その異様さがかえって滑稽で、どこかコミカルで、気づけば何度も笑ってしまった。
ふと、思い出す。
あのドラマのオープニング。『TRICK2』
卵の殻にゆっくりとひびが走り、こぼれ出るのは黄身かと思えば、紫――
ありえぬ色が、ありえぬはずの美しさでそこにあった。
自分の中に根を張る「普通」や「常識」。
それが導き出すはずの結末を、するりと裏切る価値観の提示。
その瞬間にひらく違和と驚きこそ、純文学の醍醐味なのだと思う。
かつての自分なら、純文学の面白さなど微塵も理解できなかっただろうと思う。
今も同じように感じる方がいるかもしれない。
そんな方のために、私が敬愛する平野啓一郎さんが語る、純文学とエンタメ小説の違い、そしてその定義についての一節を引用したい。
何かの参考になれば。↓
「その上で、僕の思う定義を敢えて言うと、読み終わったときに何かすごく大きな認識や価値観の変化があった、というのが純文学作品に求められるもの、コアにあるものだと思います。今までの自分の価値観に抵触するために、考え込んだり、抵抗を感じたり、その世界と自分との間に葛藤と緊張関係を持ちつつ、それを咀嚼しようとして、読むのに相当な時間がかかるものだと思います。
エンタメの場合は、一つのエンターテイメント世界として完成されていないといけない。あまり価値観自体を破壊するようなプロットになると、ややこしい思弁的なところに引っかかり、ページをすいすい捲くることができません。だからある程度、読みやすさを前提とする必要があります。それが純文学側から見たときに、「通念的で物足りない」という評価になるのかもしれません。ただ、目的が違うとも言えますしね。......」

