
中村
@boldmove33
2026年2月6日
置き配的
福尾匠
読み終わった
印象的なタイトルや筆者のポッドキャストでの軽快な語り口に惹かれて手に取ってみたが難解で苦労した。豊富な事例を使いながら「置き配的」という概念について紹介されていたが、俺がその概念枠組みで世界を見ることができるほど理解しきれなかった。他方で、「置き配的なものをひっくり返す糸口をそれぞれの角度から探ってきた(p. 244)」という後半はおもしろく読めた。特に、アクター・ネットワーク理論を主題とした「ポジションとアテンション」がよかった。単なる理論ではなく、歴史や社会に埋め込まれた理論として、必然的に登場した理論として、ANT が描かれており勉強になった。自己注意機構(生成 AI)、アテンション・エコノミー、注意欠如(ADHD)を並置できる「注意の時代」における「ポジション」について、透明で変更不可能な理論としての ANT とそれを運用することで見えてくる「立ち姿」について。
>アマゾンが置いたという事実を持ち帰るために荷物を運ぶように、人々は言ってやった・言われたという事実を持ち帰り自陣にアピールするために、ハッシュタグ、引用リツイート、スクリーンショットといった諸々の引用の技術を駆使する。その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションを偽造した内向きのパフォーマンスである。(p. 42)
>「尊い」、「推し」といった言葉が、判断基準を自分の外にズラすことによる感想の回避であるとすれば、ユーチューブのコメント欄等でよく見るようになった、文末に「(語彙力)」や「(伝われ)」と書き付ける仕草はいわばその逆側から、ブラックボックスとしての内面性の提示がそのまま内面性のちょうたつにもなるようなもってまわった回避の形式だ。感想はいまや、「もしも私に語彙力があったなら伝えられただろうもの」という、反実仮想を介してしかその存在を認められないかのようだ。(p. 65)
>しかし同時に、われわれは自分の世界が宗教のようなものに取り囲まれていると考えがちであり、そうした「陰謀」に自身の世俗的安定が脅かされていると感じがちである。そして大変やっかいなことに、情報インフラによって強化されるこの脅迫の構造自体が、われわれの主体性の構成要素として食い込んできている。誰かの陰謀なしには私でいられなくなりつつある。少なくとも論理的にいって可能な応答はふたつある。世俗性の複数性を定立すること、あるいは、自分で陰謀を企てること。(p. 80)
>むしろいまは主義やイデオロギーであふれかえっている、というより、それらを他者に投影し相手を陰謀論じゃとみなすことによってしか、それらの外に出られなくなっている。つまり、イデオロギーや主義は掲げるものではなく誰かに貼り付けるものであり、そうすることで誰もがおのれの中立性を保っているのだ。[......]だとすると、一見ナショナリズムや環境問題などの「大きな物語」が復古したかのように思える現状において起こっているのは、つねに私以外の誰かの大きな物語に対する私の小ささ、弱さにおいてしか、われわれはわれわれの実存を安定させることができなくなっているということだ。(p. 166)
>しかしひとつの理論が構築される現場には、ひとりの人間がものを考えるときの具体的な手触り、その時間の厚み、そのサイズ感も同時に刻まれているはずであり、図書館に敷き詰められたアーカイブの具体性と差し迫った急務の具体性とは別に、理論に固有の具体性があるはずだ。(p. 168)
>非常に微妙な、しかしきわめて重要なことだが、これらの質問表のなかでいずれかの選択肢を選ぶことと、そのような質問票をつきつけられ続けること自体の違和感を思考することは両立するし、真にポジションの外を考えるということはその両立可能性を考えることである。(p. 169)
>概念は理論を構築する手段であると同時に、そのプロセスの具体性が刻まれる場でもある。理論はどこまで行っても抽象的だが、概念は具体的な言語的実体であり、また、テクストという物質と同一視されるわけでもない。したがって概念は手を離れるものであり、ひとつのテクストから異なる理論を引き出す「解釈」と呼ばれてきた実践は、概念のこの二重の「手離れ」によってこそ可能となる。(p. 179)
>書く者がただ「書き写す」ことを試みたとしても、読む者は勝手にそれ以上の思考を幻視する。思考とはひとりの人間の頭のなかにあるではなく、言葉が可能にするこのネットワークとして実現される。しかしそれは「ポジション」のネットワークではなく、書かれたものから透かし見られる、書く者の「スタンス」のネットワークである。(p. 180)
