置き配的
154件の記録
えつこま@e2coma2026年3月13日ちょっと開いたタイトルに惹かれて内容や著者のことを何も知らぬまま借りてしまったが、あらま、私が苦手とする分野の本でした。フランス哲学方面の思想家による現代批評。あの人やあの人の系譜にある、あれ。さらに言えば男性の独壇場である、あれ。というわけで、そっ閉じました。ごめん。
大空@hiro_shimo2026年2月18日読み終わったANT(アクターネットワーク理論)は抽象化(還元論、概念化)に抗する理論であり、その具体性や特異性を表すために、「アクター」という概念の無性格さ、透明化されている点を指摘している点は面白い。 たしかにANTは具体性をそのまま具体性として捉えようとする究極とも言える理論であり、マクロミクロレベルを具体的における一つの平面(非還元/非抽象という平面)で捉えようとする。 つまり、それぞれの異質でさまざまなスケールのアクターは具体性において処理されるが、そのバッググラウンドとしてのインフラ言語の上では大文字の「アクター」として処理されてしまう。 アクターを「アクター」として処理しないようにアクターを導入しているのにアクターがアクターとして処理されてしまうとは皮肉なことだが、どうしようもないことのようにも思える。それでは 「アクターをテクストとして再びローカルなものへと埋め込みなおす手続き」とはどのようなことだろう。ANTをアクターとして捉え直すということだろうか。そうなると、ANTのアクターのANTのアクターのANTのアクターの...と無限後退になるだろう。そうではなく、 『したがって取り戻すべきは、理論の手触りであると同時に、理論が手を離れることのポジティブな意味であるだろう。しかしANTにおいて、アクターは定義上それ自体がおのれ以外のアクターを取り集める手でもあるのだから、手の外は存在しない。』 つまり、ローカルに埋め込みなおすとは、ANTのような完全に透明な理論に解釈可能性というひび割れを入れ込む、ということであるだろう。つまりそれは言葉の可能性、言葉と物のギャップを、異種性を、力に変えていくことではないだろうか。 置き配的な密なコミュニケーションから批評の二次性、〈疎〉の公共空間へ。
socotsu@shelf_soya2026年2月16日読んでる第9回「サイボーグじゃない、君は犬だ、と私は言う」でダナ・ハラウェイ!と思っていたら、人間の他者としての犬に発生する責任の果たし方に関する記述に胸がいっぱいになってしまった。 --- カートに乗せられた犬の移動を散歩と呼ぶためには、道具の着脱可能・付帯的なありかたが確保されなければならないのだった。人間はともに生き、ともにサイボーグ化してきた一種としての、個体としてのー歴史を共有する犬に対して、それでも君は犬で、いまカートに乗っているのはたまたまのことで、これはいつもの散歩なのだと言う責任がある。つまりこれは、権利の問題ではなく責任の問題である。権利は普遍的に付与されるものであり、責任は主体的に引き受けるものである。言い換えれば、権利には他者がいないが、責任はつねに他者関係において発生する。そしてこの場合、他者とは人間にとっての犬であり、引き受けるべき費任とは、道具の着脱可能・付帯的なありかたを言うこと、もっと強く言えば、君はサイボーグではなく、これは散歩だとウソをつくことである。 p.198



yoshi@yoshi2026年2月8日読み始めた冒頭から面白い。今まで色々とネットで発信してきて現在はその欲が縮小しているのだけど、それでもなにか発信はしたい。それを個人的には「痕跡を残す」と表現してきた。これから読んでいくなかで、これが“置き配的”に重なるのか、重なるならどう重なるか、それともそこまで重ならないのか。読み進めるのが楽しみ。



い。@hon_i_read2026年2月6日読み終わった批評とは何か、ということについて 柄谷行人は「交通空間」と呼び、東浩紀は「郵便空間」と呼び、その延長線上に「置き配的」という概念を提唱する、という内容 置き配とは、物そのものの受け渡しではなく、届ける側と受け取る側で同時にメタデータを共有することで、届ける、という行為の意味が変化している 広義の批評の意義を確認するような本
中村@boldmove332026年2月6日読み終わった印象的なタイトルや筆者のポッドキャストでの軽快な語り口に惹かれて手に取ってみたが難解で苦労した。豊富な事例を使いながら「置き配的」という概念について紹介されていたが、俺がその概念枠組みで世界を見ることができるほど理解しきれなかった。他方で、「置き配的なものをひっくり返す糸口をそれぞれの角度から探ってきた(p. 244)」という後半はおもしろく読めた。特に、アクター・ネットワーク理論を主題とした「ポジションとアテンション」がよかった。単なる理論ではなく、歴史や社会に埋め込まれた理論として、必然的に登場した理論として、ANT が描かれており勉強になった。自己注意機構(生成 AI)、アテンション・エコノミー、注意欠如(ADHD)を並置できる「注意の時代」における「ポジション」について、透明で変更不可能な理論としての ANT とそれを運用することで見えてくる「立ち姿」について。 >アマゾンが置いたという事実を持ち帰るために荷物を運ぶように、人々は言ってやった・言われたという事実を持ち帰り自陣にアピールするために、ハッシュタグ、引用リツイート、スクリーンショットといった諸々の引用の技術を駆使する。その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションを偽造した内向きのパフォーマンスである。(p. 42) >「尊い」、「推し」といった言葉が、判断基準を自分の外にズラすことによる感想の回避であるとすれば、ユーチューブのコメント欄等でよく見るようになった、文末に「(語彙力)」や「(伝われ)」と書き付ける仕草はいわばその逆側から、ブラックボックスとしての内面性の提示がそのまま内面性のちょうたつにもなるようなもってまわった回避の形式だ。感想はいまや、「もしも私に語彙力があったなら伝えられただろうもの」という、反実仮想を介してしかその存在を認められないかのようだ。(p. 65) >しかし同時に、われわれは自分の世界が宗教のようなものに取り囲まれていると考えがちであり、そうした「陰謀」に自身の世俗的安定が脅かされていると感じがちである。そして大変やっかいなことに、情報インフラによって強化されるこの脅迫の構造自体が、われわれの主体性の構成要素として食い込んできている。誰かの陰謀なしには私でいられなくなりつつある。少なくとも論理的にいって可能な応答はふたつある。世俗性の複数性を定立すること、あるいは、自分で陰謀を企てること。(p. 80) >むしろいまは主義やイデオロギーであふれかえっている、というより、それらを他者に投影し相手を陰謀論じゃとみなすことによってしか、それらの外に出られなくなっている。つまり、イデオロギーや主義は掲げるものではなく誰かに貼り付けるものであり、そうすることで誰もがおのれの中立性を保っているのだ。[......]だとすると、一見ナショナリズムや環境問題などの「大きな物語」が復古したかのように思える現状において起こっているのは、つねに私以外の誰かの大きな物語に対する私の小ささ、弱さにおいてしか、われわれはわれわれの実存を安定させることができなくなっているということだ。(p. 166) >しかしひとつの理論が構築される現場には、ひとりの人間がものを考えるときの具体的な手触り、その時間の厚み、そのサイズ感も同時に刻まれているはずであり、図書館に敷き詰められたアーカイブの具体性と差し迫った急務の具体性とは別に、理論に固有の具体性があるはずだ。(p. 168) >非常に微妙な、しかしきわめて重要なことだが、これらの質問表のなかでいずれかの選択肢を選ぶことと、そのような質問票をつきつけられ続けること自体の違和感を思考することは両立するし、真にポジションの外を考えるということはその両立可能性を考えることである。(p. 169) >概念は理論を構築する手段であると同時に、そのプロセスの具体性が刻まれる場でもある。理論はどこまで行っても抽象的だが、概念は具体的な言語的実体であり、また、テクストという物質と同一視されるわけでもない。したがって概念は手を離れるものであり、ひとつのテクストから異なる理論を引き出す「解釈」と呼ばれてきた実践は、概念のこの二重の「手離れ」によってこそ可能となる。(p. 179) >書く者がただ「書き写す」ことを試みたとしても、読む者は勝手にそれ以上の思考を幻視する。思考とはひとりの人間の頭のなかにあるではなく、言葉が可能にするこのネットワークとして実現される。しかしそれは「ポジション」のネットワークではなく、書かれたものから透かし見られる、書く者の「スタンス」のネットワークである。(p. 180)
- ほんよみたい@honyomitai2026年1月26日読み終わった私には難しかったけど思ったことだけ書いておく。 三宅香帆さんの「考察する若者たち」で「若者は報われたくて正解があるものを欲しているから考察が好き」というような話が出てきた時にそういう考え方もあるのかと思いつつ実はあまりピンときていなかったのだけど、この本を読んでむしろ感想を言いづらいコミュニケーション空間だからという方がしっくりきたかもしれない。何を言うかよりも、どんなバックボーンを持った人が二項対立のどちら側に立っているかだけが切り取られ、過去投稿と矛盾があれば一貫性がないと揶揄され訂正可能性も認められない、というような現象を日々目の当たりにしていると、感想よりも、自分からは切り離された対象について自我を挟まず考察している方が安全な気がする。


- 本とコーヒー@mystery_1ike2026年1月17日読み終わった分かるところもあり、分からないところもあり。眉をぎゅっと狭めながら読んだ。一番印象に残ったのは夏の青森で石を削ったエピソード。エコロジーもSDGSも、循環と聞くとなにも取りこぼしがないように感じるけど、必ずなくなってしまう何かはあるという感覚、忘れないようにしたい。


yt@yt2026年1月10日読み終わった「コンテンツから作品へ、ポジショントークから日記へ」(p19) 置き配の居心地の悪さは「コミュニケーションを偽装した内向きのパフォーマンス」(p42)だったからか。 いろんなことを真剣に考えると、ここまでくるかという境地。 カートに乗っている犬に関して、これを散歩と呼ぶのは、人間の犬に対する責任だった、とか。 文章が少しずつ分かりやすくなってきた気がするが、わたしのようなものにはまだまだ難解です、助けてください。 「批評の意義とは、人格的で双方向的なコミュニケーションから離脱した言葉を生み出すこと」(p.229) 次作も期待、ずーっと期待。









kur@korokkoro392026年1月10日気になる読みてぇ 朝日新聞インタビュー記事 https://digital.asahi.com/sp/articles/ASTDY2HB6TDYUCVL009M.html?iref=sptop_Topic_03
Yamada Keisuke@afro1082026年1月6日読み終わった『シットとシッポ』というポッドキャストを最近聞いており、そのパーソナリティを務める著者の新刊ということで読んだ。一度、本屋で立ち読みした際、その哲学的な語り口に気後れしてしまったのだが、最近知り合った友人と飲んだ帰りに立ち寄ったジュンク堂で、背中を押してもらったのだった。実際、理解が追いつかない部分もあったものの、ものの捉え方の一つ一つが新鮮で興味深く読んだ。 もともと文芸誌『群像』での連載をまとめた一冊ということもあり、各章はエッセイ的な導入から始まり、そこから哲学的思考が折展開していく。構成面で特に印象的なのは、A面/B面という二部構成を採用している点だ。一つのキーワードやテーマについて、A面では「言葉」、B面では「物」という異なる観点から考察がなされ、議論は並行して進んでいく。 多くの書籍が章をリレーのようにつなぎ、一冊を通して一つのメッセージへと収束させる構造を取るのに対し、著者は本書を「ハンマー投げ」に喩える。つまり、各章は互いに直接接続されることなく、独立した投擲として存在する。しかし、それらは完全に孤立しているわけではなく、フィードバックとして相互に影響し合っている。さらに、その独立性と関係性を、将棋や囲碁のアナロジーを用いて説明するくだりは見事だし、タイトルにある「置き」とも結びつく。あまりにも鮮やかな見立てに読み終わったあとに唸った。 タイトルにもなっている「置き配的」とは、著者が提唱する新たな概念である。今となっては当たり前となった宅配便における「置き配」の特徴を拝借しながら、そのラディカルさ、奇妙さを抽出して論理を構築している。置き配では、従来のように宅配業者が荷受人に直接手渡すわけではなく、「置いた」という事実(=玄関前に置かれた荷物の写真、もしくはメール通知)を持って配達完了となる。つまり、実質的なやり取りは発生しないが、「置いた」という事実が完結性を担保する。こういった「置き配的」な観点で現在の言論空間、特にネット上でのコミュニケーションについて分析していく。 連載ということもあり、論述パートに入る前には導入をきちんと用意してくれているので、最初に想像していたよりは議論に振り落とされるケースは少なかったとはいえ、哲学的な基礎知識や思考能力の不足を正直感じた。それでも、この手の議論に関する本を読むための「大リーグボール養成ギプス」として捉えれば、本著はかなり機能的である。それは単純に自分の見識や論理を開陳するだけではなく、興味関心を哲学のフィルターを通じて見たときにどう見えるのか。思考を深めていく様を横目で見てOJT的に学べるからである。 「置き配的」という概念がもっともわかりやすく機能するのは、ネット上のコミュニケーション、とりわけX(旧ツイッター)をめぐる議論である。本書はツイッター論として読める側面を強く持っている。 アマゾンが置いたという事実を持ち帰るために荷物を運ぶように、人々は言ってやった・言われたという事実を持ち帰り自陣にアピールするために、ハッシュタグ、引用リツイート、スクリーンショットといった諸々の引用の技術を駆使する。その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションを偽装した内向きのパフォーマンスである。 アテンションも欲しい、ポジションも欲しい。しかしアテンションやポジションを取りに行く身振り自体が私の表現から内実を骨抜きにしてしまうので、誰かの表現を示成的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる。これが「注意の時代」の心性であるだろう。 数十字のチャット、ツイート、コメントから、一日数百字の日記へ。それはたんなる量的な変化ではなく、テキストボックスという閉じられた箱からテキストエディタあるいは日記帳という平面への移行である。そしてこの移行によって言葉は、言うべきことが<疎>である空間のなかで分散し、出来事はあらかじめこしらえられたパッケージから解放され、自伝には書かれようのない<私>の生(life)が、人生(life)にはカウントされない生活(life)として切り出される。 ツイッター論として、これだけ鋭いことを言える書き手はどれほどいるだろうか。こういった思考の背景にあるドゥールズを筆頭とした哲学者たちの金言も現代を象徴しているように感じることが多かった。そこに時代を超越した、抽象性の高い「哲学」という学問の価値と可能性を垣間見たのだった。つまり、具体的な内容ではなく、論旨の骨組みを抜き出した抽象的なものだからこそ、さまざまなものに転用することが可能だからだ。それはまさに著者が「置き配」という具体的な事象から概念を抽出し、別の領域に適用していく実践そのものであり、これが哲学の醍醐味なのだなと納得した。 その最たる例が「犬をバギーに乗せて歩くことは犬にとって散歩と言えるのか?」という命題である。日常の些細なことでも哲学的な眼鏡を通じて眺め直してみると、そこには膨大な思考の糸口が転がっている。「蛙化現象」に関する考察も同じく著者ならではの視点が輝いていた。特に村上春樹の小説と接続した瞬間に自分の中でイマイチ像を結ばなかった「蛙化現象」について霧が晴れていくように理解が進んでいった。 こういった文章を読むと「SNSにおいて自分がどう思われるか?」「他人が何を考えているか?」よりも、もっと愉快で楽しい思考のきっかけが目の前に転がっていることに気付かされるし、注意の払い方については、過去に読んだ「何もしない」で学んだはずなのに喉元過ぎればなんとやらである。やはり思考するためには、フローする情報よりもスタティックな情報に目を通したいものである。自戒の念をこめて。。。 個人的に特に興味深かったのは、批評圏に関する議論、なかでも批評が抱える二重の「ジャンルレスネス」という指摘である。批評の限界は嘆かれて久しいが、批評がどうして厳しいのか?これだけロジカルに語られたものを読むのが初めてで、目から鱗だった。そして、批評空間よりも感想空間の再構築が必要という主張には納得した。 というのも、私は日本語ラップのアルバムについて昨年からレビューしているのだが、そこで意識しているのは「批評」というより「感想」だからだ。それゆえ最初に始める際、「日本語ラップ日記」と題して「批評」と受け取られる可能性を回避したことは、著者が日記を重要視している点と少なからず響き合う部分があった。また、批評が内政問題に終始してしまうという指摘も、ヒップホップの現状を見れば頷ける。ゴシップや英語警察、即時的なリアクションばかりが目につく状況に辟易し、私はnoteで書いている。わかりやすい反応がなくても、同じ密度のコミュニケーションを求める誰かに届けばいいなと思いながら、毎週文章を書いている。 現在のヒップホップの書き手の多くは商業ライターであり、アーティスト本人へのインタビューが主な仕事となっている。その意味では一次情報にアクセスできるが、それは著者の言葉を借りれば「密」な言説空間でもある。そこでは「置き配的」なポジショントークが蔓延しやすい。しかし、「密」ではなく「疎」なものに批評の可能性を見出す。つまり、物や作品と遭遇したときに起こってくる言説が批評たりうるのだと。さらに、作品が作品たりうるのは、それが誕生した瞬間ではなく「あとからやってきたものがそこに表現を見出したとき」という主張は、自分が感想を書いている意味を代弁してくれていた。ネットで何かを書くことは誰でもできる今、どこで何をどうやって書くか。その指針となる一冊だった。


ポチ@takupochi_19932025年12月30日読み終わった密なコミュニケーションやプラットフォームの空間から逃れて、疎な空間の中でのコミュニケーションや創作へ。とりあえず自分のできることとして日記を始めてみようと思った。


✧\\ ٩( 'ω' )و //✧@_n_em_2025年10月28日気になるhttps://www.kodansha.co.jp/book/products/0000416413 タイトル見て、そういえば「存在論的、郵便的」(東浩紀)を積んでいるんだった…と思い出した。 同期的よりは非同期的なコミュニケーションが多いので気になっている。→と思って書いたけど時制の話じゃなさそうだ














































































































