
いちのべ
@ichinobe3
2026年2月11日
本に読まれて
須賀敦子
読んでる
『小説のはじまるところ 川端康成「山の音」』、イタリアでの川端夫妻とのエピソードも、川端作品についての考えも表現も、もう何もかもが良い。
> この小さな本にあつめられた九篇の作品の読者は、そのひとつひとつを読むうちに、ちょうど初夏の垣根に淡い色の花を咲かせるテッセンが、いかにもやさしそうにみえながら、針金に似たつよい茎にしっかり支えられているように、どれもが予期しない強靱な詩学に支えられていることに気づいておどろくかもしれない。(p129)
一生かかっても、こんな表現が出来る気がしない。軽やかに詩的で視覚的にうつくしく、しかし端的で、書き写していて、「ここを平仮名にひらくのか〜」と唸りっぱなし。
> だが、問題はこの本の読み方にあるので、川端の作品を十九世紀のヨーロッパに生まれた「小説」の作法にあてはめようとすることにこそ、無理があるのではないか。人生の浮沈を歴史的時間の枠にはめて語り、あるいは概念的な論理に沿いながら、これにドラマチックな盛りあがりをちりばめて物語を運ぼうとする西洋の小説作法は、川端の作品にはかならずしもあてはまらない。むしろ、連歌や俳諧にみられるような、日本古来の抒情詩をささえる「連想の詩法」に目を向けることで、かくれた部分が浮上するのではないか。(p131)
このあたりの記述から、川端作品を読んでいて、「ここの表現、最高〜!」と盛り上がるのは、抒情的な風景描写であることが多いな、と気づいた。
『山の音』は未読なので、読んだらまたこの文章に戻ってこよう、




