
moenohon
@reading0104
2026年2月11日
あれなら自分にもできる、と思えるのが成功です。だから、成功は他人の嫉妬を買いやすく、嫉妬する人は「幸福を成功と同じに見ている場合が多い」と三木は書いています。
美しい人に嫉妬するのも、その美しさを量的なものだと考えているからです。だから高価な化粧品を買ったり、食事を抜いてみたり、美しい人の習慣や美容法を模倣すれば自分も同じように美しくなれると考えてしまう。しかし、本当の美しさは人それぞれにオリジナルなものです。目の前にいる人の美しさを、その人の個性として認めていれば、それを素直に称賛し、嫉妬したりはしないでしょう。
成功のプロセスを「冒険の見地から理解」している人は健全であるということです。この場合、成功は冒険の結果の一つでしかなく、成功したかどうかは問題になりません。結果がどうであれ、自分が目指すものに対して努力した過程は、その後の人生の糧になるでしょう。しかし、これとは逆に「冒険を成功の見地から理解」する人、つまり結果にのみこだわる人は成功主義者であり、そこに「真の冒険はない」と断じています。
三木が引いたゲーテは「自分自身を失わなければどんな生活も苦しくはない」「自分が自分自身でさえあれば何を失っても惜しくはない」ともいっています。自分自身を失わないこと つまり人格こそが幸福であり、人格も幸福も人それぞれにオリジナルなもの、幸福と人格とは不可分であるということです。
幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。
刹那的な幸せ、 偽りの幸せはコートを脱ぐように、いつでも躊躇なく捨てられるけれど、真の幸福は譲れない。真の幸福を心の内に据え、それを「武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」と、三木は非常に強い言葉で語っています。どんな苦境にあっても、まさに「幸福は力」なのです。
生活を楽しむことを知らねばならぬ。
この章の冒頭で、三木はこう指摘していますが、娯楽を推奨しているというわけではありません。
娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代りに考え出したものである。
それは幸福に対する近代的な代用品である。
幸福についてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。
なかなか手厳しい指摘です。生活を楽しむことは大切なことですが、彼は近代的な娯楽のありように対して警鐘を鳴らしているのです。
生活と娯楽は対比されるべきものではなく、本来は一つのものです。「一つの生活にほかならぬ娯楽が生活と対立させられる」近代的な生活は「非人間的」だと断じています。