
ジクロロ
@jirowcrew
2026年2月13日
聞くこと、話すこと。
尹雄大
読み終わった
それは解決すべき謎ではなく、再現することで何を私に知らせようとしているのかの問いとして向き合うべきだろう。けれども私たちはそれを無視し、否定して解決に向かおうとしてしまう。
でも、よくよく考えてほしい。あなたが誰かから解決の対象として扱われたらどんな気分になるだろう。あなたがあなたとしてではなく、常に問題として扱われる。損なわれた気持ちになるだろう。
(p.247)
「謎」と「問い」の違い。
考察=作者が提示する謎を解くこと
考察には「正解」がある
=報われるゴールがある
批評=作者も把握していない謎を解くこと
批評には「正解」がない
=報われるゴールがない
(『考察する若者たち』三宅香帆)
謎を解くこと。
自己を含めた人間そのものを謎の対象としてはならないと著者は言う。
その解決は善悪正誤のジャッジが伴う。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」
(マタイ福音書 7:1-6)
考察と批評の対象は、「作品」であるということ。
考察は消費に近しく、批評は浪費に近しい。
この意味で承認欲求とは、
自らを「作品」として晒す行為と言える。
この場合、この人間かつ作品が欲しがるものは、
自身が期待する考察を得るために
人間そのものを歪める。
その歪みに加えられた力の分だけ、
「自分の裁く裁き」、人を裁けば裁いた分だけ、
いわゆる神の天秤の精度から遠ざかる。
「あなたがあなたとしてではなく、常に問題として扱われる。損なわれた気持ちになるだろう。」
「解く」「裁く」「理解する」、それらの行為は、
対象にとっては
「捨てられる」「忘れ去られる」という
「処理」に等しい。
すべての他者は、
自身をより知るための「問い」であるがために
自身よりも大事にしなければならないということ。
他者を無意識に捌こうとしている自分に
優しく声をかけて、ちゃんと話を聞いて、
受け入れてあげること。
それが自身にとっての、
自身への本当の「問い」であるということ。


