
ジクロロ
@jirowcrew
2026年2月14日
国家 上
プラトン,
藤澤令夫
読んでる
「見た姿が味方のものか敵のものかを、もっぱら、一方は学び知っているが他方は知らないということによって、区別するという点だ。しかるに、親しいものとよそのものとを知と無知によって規定するのだとすれば、それは、まさに、学び知ることを愛するものだということにならないだろうか?」
(p.168)
ソクラテスの言い分はわかる。
それでも今を生きる自分にとって、それを実行することはなかなか難しいと感じる。
今は世界の人々、世界の情報と瞬時につながれる。
だからこそ、「身の回り」と「世界のすべて」との内混ぜにより錯覚が生じている。
「世界のすべて」は手に負えない、その気持ちが「身の回り」にも反映される。
つまり「無知」というもの(仕方なさ)が世界との過剰接続による副作用として自ずと肯定化され、自身の勤める会社においても「他人行儀」を罷り通している自分がいる。
「会社」そのものが「親しいもの」となっていた時代が高度成長期であったとすれば、
今の自分にとって「会社」という枠組みは
ただただ「仕方のないもの」として立ちはだかり、
自分個人にとって接しやすい人物のみが
「親しいもの」となっているのではないか。
国民皆画面、通勤電車ももはや完成された「よそのもの」であるという気がする。
「学ぶ」ことが、自分を知り自分を愛することにとどまっていないか。
ソクラテスの言葉から、「学ぶ」ことの本来の目的を見つめ直さねばと思う。
まずは、いたずらにこちらに手を伸ばしてくる
「世界系」の情報群の誘惑に逆らうことから。

